来年の夏、私は何をしているのか、そんなことを書いてたら、オニが笑うし、ヘソも笑うかもしれないけど、できたら、岩手に遊びに行きたいなと思っています。
今度こそ、奥さんもずっと座らせて、東北に二日くらいかけて行きたいです。一気に行けないことはないけど、疲れるし、眠くなったりします。飛行機や新幹線もいいんですけど、うちみたいなお金のない人は、クルマで行くしかないなあ。そうだ、帰りは優雅にフェリーがいいんだけど、うちの奥さんはどういうだろう。
フェリーも楽しいんだけどな。
内陸の町の一関というところから、海に向かって大船渡線というのが出ています。まっすぐ東に向かえばいいものを、いろんな事情で一度北に向かい、しばらく東、それから南、そしてやっと気仙沼に向かう街道に出て、海までつないでいる線路です。
うちの奥さんも高校生の頃、この鉄道を利用して一関の学校へ行ったそうです。彼女もそういう時があったんです。菓子パン食べて、土曜日はこんなふうにしてとか、通学のころの思い出を聞かせてもらったことがありました。
朝早く起きて、都会に出て行く彼女の姿、想像できそうで、モヤモヤする、寒い冬なんかどうしてたんだろうとか、あれこれ思う昔の通学です。
彼女が通っている頃は、観光地・猊鼻渓には駅がありませんでした。車両も客車車両だったそうです。二両編成のディーゼルではありませんでしたか。少し離れたところに有人の駅があって、一度雨の降る秋に、そこに行かせてもらったこともありましたし、駅からはタクシーで彼女んちまで行ったけど、それは遠い昔の、少し冷たい秋の夕方でした。
今は、駅だったところに、賢治と石のミュージアムというのができて、宮沢賢治さんはここと何のゆかりもなかっただろうと思ってた私は、晩年の賢治さんが、農業の肥料に石灰を使いなさい、ここの石灰工場の人たちと連携して石灰の促進・営業もしたとかで、工場の人とも交流があったということでした。
(うしろの右から四人目が賢治さんだそうで、等身大のお人形さんたちは今もいます。また、会いに行きたいくらい)
地域の皆さんと、ともに賢治さんは活動していた。文学活動もして、それだけじゃなくて、文学は大事だけど、人々が生きていくのにはお金が必要で、そのためには農業でお金が取れることも大事で、そのための肥料ということで注目したということでした。
工場長さんとは、手紙のやり取りもして、それらが今も残っていますし、私もそうした資料を見たことがあります。うちの奥さんのお祖父さんにもハガキをくれたということで、うちの奥さんも見たことがあったということでしたけど、それは彼女の実家のどこかに残ってないかなあ。
石灰岩の地質だから、カルスト地形はないんですけど、鍾乳洞はあるみたいで、一度、ヘルメットかぶって洞窟探検もさせてもらったことがありました。
あれもこれもと、やりたいことはあるんだけど、どうしてもっと昔から、やってこなかったのだろう、と反省してしまいます。
でも、昔は、そんな余裕がなかったんでしょうね。せっかく、彼女んちに行っても、どこか目新しいところに行こう、そんなことばかり考えて数日を過ごしてた気がします。
どうして、もっと人と関わることができなかったんだろう。いや、むしろ、人と関わらないことをしたいとか思ってたんじゃないかな。失礼なことでした。もう過ぎた時間は戻りません。せいぜい今から、やれることをして、彼女の田舎をこの年で味わえること、していきたいと思います。
ゲイビイって、猊鼻渓(げいびけい)のキャラみたいです。
もう少し、彼女の故郷のこと、振り返りたいと思います。