井伏鱒二さんの対談集を読んでいます。あともう少しで読み終わるのに、なかなか終わらない。
安岡章太郎さんとの二回目の対談では、戦争当時を振り返る話になっています。取り上げているのは、「海行かば」でした。悲しい歌でしたね。
(安岡)今聴いて、「海行かば」のような音楽は日本人が西洋音楽を学び始めてはじめてマスターしたものという感じがします。
「君が代」なんかは外人だもの、つまり雅楽を編曲してああいうふうに作ったんだけど、作った人は外人ですよ。「海行かば」は、はじめてああいう荘重な音楽を日本人が西洋の楽譜を操りながら作ったというもんじゃないでしょうか。
「君が代」は日本古来の曲と思ってましたけど、外国の人たちの力を借りて作ったものでしたか。あの、いろんな楽器の入る曲は、日本オリジナルではなかったんですね。1870(M3)年にイギリス人のJ.W.フェントンが一度作曲し、イマイチ気に入らなかったから、1888(M21)年に今度はドイツ人のエッケルトによって作り直されるなど、外国の人から見た日本のメロディだったようです。
そうですか、作り物ではあったんですね。でも、もう100年くらいは使っているし、負の歴史も抱えながら、とりあえず国の歌として使われています。私たちはそんな国に住んでいるんだもん、仕方ないですね。自分たちの国をまとめる歌なんて、持ってなかったんですもんね。
これから、新しい国の歌を持つ日が来るでしょうか。わからないですね。何百年後かに、国が変わってたら、新しい歌を持つのかどうか。
「海行かば」の作曲者(信時潔 のぶとき きよし)は、ピアノに向かう時にモンペをはいてたでしょう(映画の『五人の斥候兵』の中で)。その写真を見て、ははァピアノとはこういうものか、と思った。つまり、その頃、ピアノというと、僕らは恋愛の対象ですね。深層の令嬢の白魚のごとき指という感じでしょう。ところが、「海行かば」の人はモンペをはいてピアノに向かっているという。それは、昭和という時代の空気を代表しているとは思いますね。
映画を見てないから何とも言えないけど、戦中の人たちは、西洋文化に対する自分たちのアイデンティティを探していたんでしょうね。仲良く世界に伍していくつもりだったのに、いつのまにやら世界の異端児・はぐれ者になってしまって、自分たちはどうなるんだよ、と不安でならなかったでしょう。安岡さんは旧制の中学生だったということでした。
(井伏)「海行かばみづく屍(かばね)」というのはすごい歌詞だね。
(安岡)というか、残酷というか――。あの信時潔さんはあれを作って、戦後ずっと官職につかなかったといいますね。僕はああいう人とか高村光太郎とかね――。高村光太郎の戦時中の歌なんていやな歌でね、僕は「海行かば」よりももっといやだった。ラジオ歌謡でやるんですよ。「歩け。歩け。あーるけ歩け」っていうの。非常に暗い歌で、恥ずかしいも何もない、これから収容所へ入れられるという感じですからね。だけど戦後はあれだけ禁欲的に自己処罰した、やっぱり偉いものだとは思うな。もっとも、十和田湖畔の乙女の像、あんな銅像なんか作らなければ、もっと良かったと思うけれども。
光太郎さん、戦後はずっと岩手で引きこもり生活を過ごされたんでしたね。藤田嗣治さんも、光太郎さんも、戦意高揚のため、戦争礼賛の絵を描いたり、詩を作ったりしたということになってますけど、そうしないと生きていけない時代があったんでしょうね。
かれらがいなくなって、私たちはすべてを見直して、ふたたび受け入れようとしているし、光太郎さんや嗣治さんの持ってたものが変わらなかった、ちゃんとした意味があったのだ、というところになっている気がします。