突然ですが、まずは先生のおことばです。
23【これを知るをこれを知ると為(な)し、知らざるを知らざると為す、これ知るなり】 〈為政〉
たぶん、高校生の時にも習ったと思われます。そして、つまらないことをやっているなあと思ったはずでした。ふつうに考えても、そうでなくても、あまりに当たり前のことでした。
知っているときには、知っていると言い、知らないときには知らないと言う、これが知るということである。
全く何のひねりもない、そのまんまのおことばでした。つまらないなあとスルーしてしまうし、何の意味があるのかと思ってしまう。
この素直に自分の無知を認め、知っていることには最大限の知っていることを披露する。出し惜しみをしない、ということなんだろうか。まあ、そう解釈してもいいのかな。
そういう気がしました。
けれど、そもそも知るというのは、どういうのが知るで、どういうのが知らないというのか、私たちなんてたいてい生半可な知識と、いい加減な感覚で、あぶない橋を渡っているのがすべてではないのか、私たちはそもそも何もわかっちゃいないのではないか。
私たちの中途半端さはもともとなので、それでも先生は、確かに「知るとは何か?」という本質を求めたらきりがないけれど、とりあえずわかっていることだけは明白にして、それから空白の知らないところをはっきりさせたら、あとはそれを補えばいいわけで、とても誠実な生き方を求めているのだなということは確かです。
私たちはとにかくいい加減なのです。それをごまかしてはいけない。
そういう意味に解釈しておきましょう。
★ さて、ここで問題です。
このことばは、誰に向けられたものだったのか? それを考えてみてください。
孔子さんの十人のお弟子さんを確認してみます。
徳行には顔淵(がんえん)、閔子けん、冉伯牛(ぜんはくぎゅう)、仲弓(ちゅうきゅう)の四人がいた。
言語には宰我(さいが)、子貢(しこう)の二人。政事には冉有(ぜんゆう)、季路の二人。文学には子游(しゆう)、子夏(しか)の二人。合わせて孔門の十哲というそうですが、このうちの誰でしょう?
ものすごく優秀な人だった顔淵さんは若くして亡くなってしまいます。彼にはあまり教える必要はなかったでしょう。
子貢さんは口八丁手八丁の人で、何をやらせても上手にこなしていく。才覚のある人だった。だから、ストレートなことを教えるより、もう少しセーブさせるためのことばが必要かもしれない。
だったら、季路さんになるのかな?
★ ハイ、正解です。
先生は、いつも自分のそばに仕える、忠実なワンコのような季路さん(子路、あざなは由)に、あえてことばを伝えておいて、実際にメリハリをはっきりさせる、すごく真面目に生きている子路さんに、その馬鹿正直さをたたえつつ、そのまんまで行きなさいという意味を込めておことばを与えてくださったのかもしれません。
孔子先生から直々におことばをもらえるなんて、とても幸せなことではありますね。
子曰く、由(ゆう)や、女(なんじ)にこれを知ることを誨(おし)えんか。
と、先生に言われてしまった。ああ、子路さんって、しあわせです。でも、私に子路さんくらいの誠実さがあるのか。行動力があるのか。ああ、子路さんくらいガムシャラにならなくちゃ!
23【これを知るをこれを知ると為(な)し、知らざるを知らざると為す、これ知るなり】 〈為政〉
たぶん、高校生の時にも習ったと思われます。そして、つまらないことをやっているなあと思ったはずでした。ふつうに考えても、そうでなくても、あまりに当たり前のことでした。
知っているときには、知っていると言い、知らないときには知らないと言う、これが知るということである。
全く何のひねりもない、そのまんまのおことばでした。つまらないなあとスルーしてしまうし、何の意味があるのかと思ってしまう。
この素直に自分の無知を認め、知っていることには最大限の知っていることを披露する。出し惜しみをしない、ということなんだろうか。まあ、そう解釈してもいいのかな。
そういう気がしました。
けれど、そもそも知るというのは、どういうのが知るで、どういうのが知らないというのか、私たちなんてたいてい生半可な知識と、いい加減な感覚で、あぶない橋を渡っているのがすべてではないのか、私たちはそもそも何もわかっちゃいないのではないか。
私たちの中途半端さはもともとなので、それでも先生は、確かに「知るとは何か?」という本質を求めたらきりがないけれど、とりあえずわかっていることだけは明白にして、それから空白の知らないところをはっきりさせたら、あとはそれを補えばいいわけで、とても誠実な生き方を求めているのだなということは確かです。
私たちはとにかくいい加減なのです。それをごまかしてはいけない。
そういう意味に解釈しておきましょう。
★ さて、ここで問題です。
このことばは、誰に向けられたものだったのか? それを考えてみてください。
孔子さんの十人のお弟子さんを確認してみます。
徳行には顔淵(がんえん)、閔子けん、冉伯牛(ぜんはくぎゅう)、仲弓(ちゅうきゅう)の四人がいた。
言語には宰我(さいが)、子貢(しこう)の二人。政事には冉有(ぜんゆう)、季路の二人。文学には子游(しゆう)、子夏(しか)の二人。合わせて孔門の十哲というそうですが、このうちの誰でしょう?
ものすごく優秀な人だった顔淵さんは若くして亡くなってしまいます。彼にはあまり教える必要はなかったでしょう。
子貢さんは口八丁手八丁の人で、何をやらせても上手にこなしていく。才覚のある人だった。だから、ストレートなことを教えるより、もう少しセーブさせるためのことばが必要かもしれない。
だったら、季路さんになるのかな?
★ ハイ、正解です。
先生は、いつも自分のそばに仕える、忠実なワンコのような季路さん(子路、あざなは由)に、あえてことばを伝えておいて、実際にメリハリをはっきりさせる、すごく真面目に生きている子路さんに、その馬鹿正直さをたたえつつ、そのまんまで行きなさいという意味を込めておことばを与えてくださったのかもしれません。
孔子先生から直々におことばをもらえるなんて、とても幸せなことではありますね。
子曰く、由(ゆう)や、女(なんじ)にこれを知ることを誨(おし)えんか。
と、先生に言われてしまった。ああ、子路さんって、しあわせです。でも、私に子路さんくらいの誠実さがあるのか。行動力があるのか。ああ、子路さんくらいガムシャラにならなくちゃ!