映画は見ていません。先週、大阪に古本市に出かけて、買った「日本の黒い夏 冤罪・松本サリン事件」(熊井啓 編著 2001岩波書店)をやっと昨日読み終えたので、映画も見たような気になっているんだと思われます。
シナリオは全部読みました。引用したいところもありましたけど、やめておくことにします。よく言われていることですけど、マスメディアの怖いところを突いている内容でした。お仕事の上でメディアの人たちがやむにやまれず流してしまう情報は、実は踊らされていた、ということがよくあるし、それを流す側の人たちも、受け取る側の人たちも、そんなに深刻に受け止めるわけではなくて、予断を持って聞き、自分の勝手な解釈で吸収していくのです。そこに真実はなくてもいいから、みんな聞きたい情報を聞き、自分の解釈の上で情報は組み立てられていくのです。この怖さでした。
冤罪を受けた人は、それを晴らそうとし、信じられる何人かが結束してそれらに立ち向かっていくしかない構図です。これは今も同じで、圧倒的多数の野次馬の人たちに真実はかき消され、犯人にされたり、とんでもない事件に巻き込まれたり、誹謗中傷、投石、いやがらせ、いろんな被害が出ることでしょう。
できれば、そういうところから距離を置きたいのだけれど、そうならないから、冤罪の怖さがあります。どこに落とし穴があるのか、みんなそれが分からないから、落ちてしまってあわてるのです。まさか自分がそんな落とし穴にはまろうとは、誰も思ってないからこそ、落ちたら冷静さを無くすのです。
どんなに用心していても、たまたま冤罪を掛けられた人は、信念をもって立ち向かうしかないようです。圧倒的に不利な戦いに立ち向かわないといけない時がある。それは孤独で、とてもキビシイし、もう「犯人にしてくれ。全く私は無罪だけれども」という投げやりな気持ちになってしまう時だってあると思います。でも、負けたら相手の思うツボです。ほら、やはりお前が犯人だったかと大喜びされるんですから、恐ろしい。
そんな時にメディアは正義を振りかざして、冤罪を受けた人をたたこうとする。ほんの一部のメディアの人たちは、踏みとどまり、それでいいのかと少しずつ真実を探る動きをしてくれる、ということもある、ということなのかな。でも、たいていはお客が喜ぶ情報を選択してしまうので、たいていはセンセーショナルで、放置しておくことは許せないというところまで結論は達してしまう。
現在のコロナウイルス、イランとアメリカ、オーストラリアの山火事、イギリスのEU離脱、どれもみな大変なことだ、自分が不利益を被らないためにはどうするべきか、そういう観点で語られているんでしょう。当事者の視点ではなくて、対岸の火事を見る者として、自らの不利益さえなければ、おもしろい方に聞いていることでしょう。そういう悪魔的なところが私たちにはあるんだと思います。ちっとも相手のことなんか考えない。ホントはイギリスにEUにいて欲しいけど、向こうの人たちが決めたのなら、自分の不利益にならないように、その対策だけを進めたいとか思っている。
とにかく、メディアの人たちは、自分のことではないので、新聞が売れたり、スクープになったり、視聴率が上がったり、そうした数字だけを求めて、センセーショナルに動かなくてはならないのです。そこが悲しい性なんです。
私も、昔はマスコミ希望でした。が、それは叶いませんでした。今となっては、それもよかったと思えるようになりました。私みたいな根性なしの人間は、人からものを引き出すこともできなかったでしょう。
自己反省はいいから、とにかく内容です。
1994年の6月27日の夜、松本市の会社員河野義行さんから119番通報があったそうです。そこから、たくさんの息苦しいという情報が寄せられ、県警も動き、事態の全容をつかもうとする動きがあった。しばらくしたら、最初の通報者の河野さんが殺人容疑で家宅捜査を受け、犯人扱いされることになります。
ずっと河野さんが灰色扱いを受けたまま、真犯人は見つからないまま、8か月後の3月20日の地下鉄サリン事件につながり、その2か月後にやっと松本智津夫逮捕へとつながります。それから1ヶ月後、国家公安委員長の野中広務さんが河野さんに謝罪して、河野さんの無念が晴らされるわけで、一年間ずっと犯人扱いを受けるキビシイ期間があったというのが、今から見えてきたことでした。
94年の6月の段階では、まさかそんな集団が殺人の実践演習をしていたなんて、誰も想像もつかないことでした。
95年の6月で河野さんの無念は晴れました。けれども、落とし穴はまるで埋まっていませんでしたし、私たちはまた新たな過ちを起こしかねなかった。
だから、松本に縁のある熊井啓監督は99年からシナリオを書き始め、2001年の3月にロードショーを始めます。社会派の熊井啓さんならではの動きでしたし、どれくらいヒットしたのか、私は記憶にありません。
でも、本を買おうと思ったくらいだから、どこかに引っかかるところはあったのでしょう。今も私たちを陥れようと、どこかで穴ぼこは広がっている気がしたりします。