甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

芭蕉さんは中尊寺へ!

2022年04月30日 21時26分51秒 | 芭蕉さんの旅・おくのほそ道ほか

 中尊寺の写真データを探しましたが、見つかりませんでした。仕方がないので、本文だけを見ていきます。

 かねて耳驚したる二堂(にどう)開帳(かいちょう)す。経堂(ちょうどう)は三将の像をのこし、光堂(ひかりどう)は三代の棺(ひつぎ)を納め、三尊の仏を安置す。

 以前から話に聞いていた経堂・光堂の二堂が開帳していました。経堂は藤原の清衡・基衡・秀衡の三代の将軍たちの像を残していて、光堂(金色堂)には三代の方々の棺を納めていて、その他に阿弥陀様・勢至菩薩様・観世音菩薩様の三つの仏様を納めていました。

 私は、三回くらいは見たはずなんですが、どういうわけか金色堂の中の仏様の印象がありません。それよりも、お堂の装飾や柱、きっちりと保護してある様子、そういうのに目が行ってしまって、肝心の仏様の印象がないようです。

 いや、そもそもお寺というのは、建物全体は暗いし、光は入って来ないし、ろうそくの灯りとか、差し込む光とか、部分的な光線があるだけでした。その中でやさしくお顔が見られるから、私みたいな凡人には仏様を心に刻むことができます。

 あのお堂は、その他の装飾に目を奪われて、すべてが光り輝いているように見えて、仏様の印象が薄らいでしまう。

 それは少し残念なことではありましたか。凡人には、ほんの少しのお顔と全体の静かな気分さえ味わえたら、もうそれで有り難いものだったかもしれないです。

 芭蕉さんも、仏様を見たことでしょうけど、サラリと書いているだけで、ついつい建物のことを描くことに追われてしまっています。

 ほらね、金色堂は、細部にすべてがあって、全体はキラキラした印象になってしまうもののようです。

 七宝(しっぽう)散りうせて、珠の扉風にやぶれ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽ちて、すでに頽廃空虚(たいはいくうきょ)の叢(くさむら)となるべきを、四面(しめん)新たに囲みて、甍(いらか)を覆(おお)いて雨風(うふう)をしのぐ。

 放置していたら、華麗な装飾の七宝もなくなってしまうだろうし、珠玉を散りばめた扉も風雨にさらされるだろうし、金箔で光り輝く柱も霜や雪に朽ちはてるはずです。そして、すべてが壊れてしまい、何にもなくなりただの草むらとなるところを、四方を新しく囲んで、上には屋根を設けて雨や風をしのぐようにしてあるのでした。

 金色堂を現在覆っているのは、コンクリートで空調のしっかりした建物で、その中に光堂は置かれています。鎌倉時代とかの覆い堂も、別に移設されていて、かつてはここに光堂が入ってたのかというのも見せてもらえます。そういう写真、この前撮ったような気がするんですが、データが見つかりません。なんというズサンな管理というのか、残念です。

 最近は、ひとりで行くことが多くて、しんみりと見させてもらってないのかもしれません。初めて見たのは1982年の夏でしたけど、あれから40年が過ぎています。今さらながら、ふたたび中尊寺に行かせてもらいますか。でも、秋とか、しっくりする時期にいけたらいいんだけどなあ。

 しばらく千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれり。

 はかない現世ではあるけれど、千年の昔をしのぶ記念となっているのでした。

   五月雨(さみだれ)の降りのこしてや光堂



 五月雨は長く降り続き、すべてを朽ちさせてしまうけれど、五月雨もこの光堂だけにはなぜか遠慮して降らずにおいて、光堂は昔の姿のままでいるようです。
 
 さて、上手のまとめられました。夏草やの句もいいし、五月雨やの句も、五月雨を擬人化させるなんて、少し考えましたね。それくらい、千年の輝きは続いていたというところなんだけど、実際はいろいろと修復もあったんでしょうね。現在だって常に新たにしなくてはならないくらいに、千年の輝きを維持するのは大変なのだ、というのをテレビで見たような記憶があります。いろんな人たちによって、現在も輝きはリセットされてるようです。


 さて、曽良さんに聞いてみましょう。どうでしたか、平泉の旅は?

 十三日 天気明るし。巳の刻より平泉へ趣(おもむ)く。一里、山の目。一里半、平泉 (伊沢八幡一里余り奥なり)ヘ以上二里半と云へども弐里に近し。

 一関から平泉まで、二里(八キロ)ということですが、まあ、今もそんなものなのだと思います。バイパスもできたりして、通過するだけの人はバイパスで、町の中に入りたい人だけが左折して町へ入っていくようになっています。

 高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・ 光堂(金色寺、別当案内)・泉城・さくら川・さくら山・秀平(衡)やしき等を見る。泉城より西霧山見ゆる云へども見へず。タツコクガ岩ヤ(達谷窟)へ行かず。三十町ある由。

 中尊寺がメインで、山の上にあります。秀衡さんの御所のあとは無量光院というお寺になったのだと思われますが、すべては草むらと田んぼで、とても壮麗なお寺があったなんて、それはイマジネーションがなきゃ見えなくなっている。そのうちに、メガネかけたら建物が感じられるようにできるかもしれないけど、それは余計なお世話で、できれば草むらと田んぼのままを残してもらえるとうれしいのです。



 達谷窟(たっこくのいわや)というところには一度だけタクシーで行きましたけど、寒い時だったからちゃんと見られませんでしたっけね。でも、とにかく、平安の頃は、都からするとこの辺りは最前線であり、都なんか知らない蝦夷の人々がたくさんいたのだろうかな、という雰囲気はあるところでした。

 月山・白山を見る。経堂は別当留守にて開かず。金鶏山見る。シミン(新御)堂、無量劫院跡を見る。申の上刻帰る。主、水風呂敷をして待つ。宿す。

 平泉に、月山と白山があったなんて、これはわかりません。金鶏山はそんな印象がありません。16時ころには一関に戻ってきたとしたら、たくさん見たらサッと引き返してきたんですね。速足で戻ってきたのかなあ。

 一関の2日目、何を食べて、どんな人に会ったんだか、教えてもらえるとうれしいんだけど、今度そういうのを調べに行きたいですね。

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