ツイッターから「南相馬ひばり新聞」 というネット上の市民新聞を知った。
以下、記事から転載
3月12日、一号機爆発とともに南相馬に降り注いだ『銀色のキラキラしたもの』ってなんだろう?
3月19日、南相馬市原町区から県外に避難したAさんという76歳の女性がいる。
Aさんが息子のYさんに6月11日に語った、ひとつのエピソードがある。
東京在住のYさんが避難中の母親に会いに行った時のことだ。
『地震の次の日の夕方3時過ぎかしら…病院に薬もらいに行こうと思って歩いてたら、
突然どぉーーんって音がして、何かしら?と思ったんだけど、そのまま歩いてたのよ。
そしたらしばらくして銀色のキラキラしたものが降り出したっていうか漂い出して、
それが今考えると原発の塵だったのね、辺り一面キラキラしてた。
なんか繊維質のようなものだったわねぇ。あたし確実に被曝してるわよ』
Yさんは、その数日前に南相馬市の実家に帰った時に、従姉妹からも同じように『銀色の雨が降ったのよ』と聞かされたそうだ。その時は聞き流したそうだが、二人から同じ話が出て、その時初めて疑問を感じたという。
そして先日、再びAさんに会いに行ったときに、以下の紙を手渡されたという。
なんだろう、このキラキラしたものは。
絹針のような 針の粉のような
空中を泳ぐものは
吸いこんでしまっても
いいのだろうか
口の中がカラカラする
魚群のように空中いっぱい泳いでいたものが
音も無く落ちてくる
水色、白、銀色、変な風と共に、
目の中にも入って来る
陽光とまじわって金色にもみえる
なんだろう
この、奇異な経験からすでに4ヶ月経っても、その時の不安は消えていないようだ。
この紙に書かれた文章は、多分に回想が含まれている。
記憶は反芻されるたびに、本来の事実が少しずつ変質していくものだ。
それはそういうものだから、多少の形容句は割り引いて読まねばならない。
地震の次の日の午後3時過ぎの爆発音は、3月12日福島第一原発の一号機が水素爆発したものと考えてさしつかえないように思う。
それ以外に妥当なものが見あたらない。
Aさんは県外に避難してしまっていて、特殊な健康調査をしてもらえるはずがない。
このような『銀色のキラキラしたもの』を体験したという人の声が、私の知りうる限り、問題意識として政治も報道も取り上げたことがない。
しかし、ただなかったことのように誰にも知られないまま終わってしまうというのは、きっといけないことだと思う。
あの爆発の日から雪も降り、雨も降り、たくさんの風が吹いた。
すでにその物質を収集して調査することは不可能に近い。
ならば、できるだけ多くの目撃証言から「このように判断するのが妥当である」という合理的な見解が得られるべきだと私は思う。
私や、友人のYさんでは限界がある。
誰か、同じような経験をした人はいないだろうか?
そして、壁材や建材などに詳しい方はいらっしゃらないだろうか?原発そのものに詳しい方がいれば、またお話を訊きたい。
福島第一原発3号炉の設計士である上原春男氏に自由報道協会の記者会見で伺ったところ、「まったくわからない」とおっしゃられた。
おそらくは判断材料が少なすぎたのだろうと私は感じた。
20キロから30キロ圏にまで飛散した粉塵。
もし、このキラキラしたものが人体に有害だったなら。
午後3時過ぎ。
もし、この粉塵を外で遊んでいた子供たちが吸っていたなら。
別に私は危険を煽りたいわけではない。
単純に知りたいのだ。妥当な答えが出て「なんだ、心配して損した」と言えればそれにこしたことはない。
なによりもまず、4ヶ月経ってもその時の体験を不安に思う76歳の女性がいるということだけは、知っていただきたい。
誰か、同じようにこの体験をした人がいれば、hibaritimes@gmail.comまで遠慮なくご連絡ください。
また建築や建材などに詳しい方からの声も聞かせていただきたい。
よろしくお願いします。
(枚田貴人)
写真レポート 飯舘村 花と祈りと枯れた田と
有機農業を村全体で取り組んできた飯館村が計画的避難区域となった1カ月後。
無人の産直所に飾られたまだきれいな「吊るし雛」。
水の張られていない水田を目の当たりにすると、取り返しがつかない残酷な現実が、胸に迫ってくる。
今は夏草が生い茂っているのだろう。
以下、記事から転載
3月12日、一号機爆発とともに南相馬に降り注いだ『銀色のキラキラしたもの』ってなんだろう?
3月19日、南相馬市原町区から県外に避難したAさんという76歳の女性がいる。
Aさんが息子のYさんに6月11日に語った、ひとつのエピソードがある。
東京在住のYさんが避難中の母親に会いに行った時のことだ。
『地震の次の日の夕方3時過ぎかしら…病院に薬もらいに行こうと思って歩いてたら、
突然どぉーーんって音がして、何かしら?と思ったんだけど、そのまま歩いてたのよ。
そしたらしばらくして銀色のキラキラしたものが降り出したっていうか漂い出して、
それが今考えると原発の塵だったのね、辺り一面キラキラしてた。
なんか繊維質のようなものだったわねぇ。あたし確実に被曝してるわよ』
Yさんは、その数日前に南相馬市の実家に帰った時に、従姉妹からも同じように『銀色の雨が降ったのよ』と聞かされたそうだ。その時は聞き流したそうだが、二人から同じ話が出て、その時初めて疑問を感じたという。
そして先日、再びAさんに会いに行ったときに、以下の紙を手渡されたという。
なんだろう、このキラキラしたものは。
絹針のような 針の粉のような
空中を泳ぐものは
吸いこんでしまっても
いいのだろうか
口の中がカラカラする
魚群のように空中いっぱい泳いでいたものが
音も無く落ちてくる
水色、白、銀色、変な風と共に、
目の中にも入って来る
陽光とまじわって金色にもみえる
なんだろう
この、奇異な経験からすでに4ヶ月経っても、その時の不安は消えていないようだ。
この紙に書かれた文章は、多分に回想が含まれている。
記憶は反芻されるたびに、本来の事実が少しずつ変質していくものだ。
それはそういうものだから、多少の形容句は割り引いて読まねばならない。
地震の次の日の午後3時過ぎの爆発音は、3月12日福島第一原発の一号機が水素爆発したものと考えてさしつかえないように思う。
それ以外に妥当なものが見あたらない。
Aさんは県外に避難してしまっていて、特殊な健康調査をしてもらえるはずがない。
このような『銀色のキラキラしたもの』を体験したという人の声が、私の知りうる限り、問題意識として政治も報道も取り上げたことがない。
しかし、ただなかったことのように誰にも知られないまま終わってしまうというのは、きっといけないことだと思う。
あの爆発の日から雪も降り、雨も降り、たくさんの風が吹いた。
すでにその物質を収集して調査することは不可能に近い。
ならば、できるだけ多くの目撃証言から「このように判断するのが妥当である」という合理的な見解が得られるべきだと私は思う。
私や、友人のYさんでは限界がある。
誰か、同じような経験をした人はいないだろうか?
そして、壁材や建材などに詳しい方はいらっしゃらないだろうか?原発そのものに詳しい方がいれば、またお話を訊きたい。
福島第一原発3号炉の設計士である上原春男氏に自由報道協会の記者会見で伺ったところ、「まったくわからない」とおっしゃられた。
おそらくは判断材料が少なすぎたのだろうと私は感じた。
20キロから30キロ圏にまで飛散した粉塵。
もし、このキラキラしたものが人体に有害だったなら。
午後3時過ぎ。
もし、この粉塵を外で遊んでいた子供たちが吸っていたなら。
別に私は危険を煽りたいわけではない。
単純に知りたいのだ。妥当な答えが出て「なんだ、心配して損した」と言えればそれにこしたことはない。
なによりもまず、4ヶ月経ってもその時の体験を不安に思う76歳の女性がいるということだけは、知っていただきたい。
誰か、同じようにこの体験をした人がいれば、hibaritimes@gmail.comまで遠慮なくご連絡ください。
また建築や建材などに詳しい方からの声も聞かせていただきたい。
よろしくお願いします。
(枚田貴人)
写真レポート 飯舘村 花と祈りと枯れた田と
有機農業を村全体で取り組んできた飯館村が計画的避難区域となった1カ月後。
無人の産直所に飾られたまだきれいな「吊るし雛」。
水の張られていない水田を目の当たりにすると、取り返しがつかない残酷な現実が、胸に迫ってくる。
今は夏草が生い茂っているのだろう。