適塾では、蘭語の通読と質問を練り、次の者がこれに答えていくということを行い、成績の優秀なものから宿舎の畳のいい場所を占めていくのだそうです。なので、試験の前日などは行灯の火が消えない、全員徹夜での猛勉強をするのだそうです。
試験は塾頭と塾監という副長が執り仕切り、洪庵はある程度の教養のあるものだけに私見を述べていくのだそうです。
最後の部分はまるで大学院の部分ですね。
私の所属していたゼミでは、2年から3年にあがる頃に初めの洗礼が訪れます。春のゼミ合宿です。
これは本一冊を全員で勉強するのですが、各章を1名の新人が発表者プレゼンテーターに、先輩が二人でバックアップ(コメンテーター)を務めます。
この発表では質問が百出するのです。
分からないことは徹底的に質問して構いません。仮説を立てて、現在述べていることを踏まえた場合、どのような現象が起きると考えられるかなどについての質問がガンガン飛んできます。違うも違わないもないのですが、満足いく回答をし得ないといつまでも前でああでもないこうでもないと喋り続けることになります。もちろん、中には手助けをしてくれる同級生なども現れたりしますが、基本初日の3人は何時間も延々と前で質問に答えていくので、最終日に発表を控えた者などはその光景に慄いていきます。
この質問をかましてくれるのが、良く悪くもOB達です。遊びに来ているとばかり思っていた人達が、先生への挨拶もそこそこに会場に現れて(先生は会場にはいつもいない)、質問に質問を重ね、時にはOB同志で言い合いになったりしている。。。。
プレゼンテーター初め新3年生達で少なくとも回答をぶつけなければ、OBは納得しない。題材はマクロ経済ですが、経済も思想となんら変わりがない気がしてくる。。。
夏合宿は金融論、本ゼミは貿易論、サブゼミはミクロ経済。
いいプレゼンをしたものと、一番攻撃を受けてしまった者(発表時間が一番長かったもの)を全員の投票で決めて、合宿の打ち上げでフラフラになりながらその発表を聞くのです。
質問を聞き、聴講席で一緒に考え込んでいると、スラスラと答えを唱えている同期もいます。もちろん質問が意地悪なものも含まれるので厳しいことは厳しいのですが。。。。
中には質問そのものに矛盾があり、そういう想定は起こり得ないと結論付けることも必要になるのですが、一瞬では分からない。。。。何度もトイレに行く振りをして煙草を吸いながら頭を巡らす。。。。あぁ質問の起点が想定できる状態ではない!と気付く。
そんな光景を初日目の当たりにした最終日の発表者はもう徹夜を何日も続けることになるという状態になるのです・。
もちろんゼミの運営はゼミ生に任され、2年生の入ゼミ希望者の中から、定員までに絞り込むのも3年生たちが行う。
面接まではまだふざけた感じで質問しているのだが、人を選ぶという行為の重さに夜になって気づくのである。この作業、どこぞの会議室を一晩借り切って行うのであるが、これが掴みあいになるくらいの激論が戦わされる修羅場となる。縁故者の贔屓をやはり許さない環境になっていくのだ。平等を求める者たちがそういう行為を許さない。実は自分達もそういう形で落とされそうになったり選ばれたりしてきたのだということに気付き、中には泣き出してしまう者まで現れる。選んでもらえたことに対する感謝と落とされたかもしれない、ふるいにかけられたかもしれない身の上を思って。。。
そこでやっと思い至るのだ。人事とはとても辛い職業だと。
鍋島閑叟の教育哲学も凄まじかったらしいが、大隈重信はそれを忌み嫌っていたらしい。。。その風土は分からないでもないが、我がゼミは寝かさない。。。。でもみんな個性的だった(と思う)。規律の元に試験をされて振り落とされていたわけではないから。。。かな?
先生が高齢になり、退職されたので、今教授になっている先輩がゼミを引き継いでいるものの、どこかしら違うらしく、OB会は学校外で開かれていた。
最近はその仲間とも年賀状くらいになりつつあり、時には集まってみる?という話になるもののなかなか集まれないのが現状だ。
今でもメールなどで親交のあるものが何人かいるものの。。。学年が違うとどうしても。でも高校の同級が何人かいたので盆暮れには会える環境にはあるのだ。
先輩や後輩達とは、、、私は仕事柄、春合宿、夏合宿に集まれる状況になかったこともあり。。。先生の退職の会の時にやっと会えたという者がほとんどだった。
ただ、あの鮮烈な思い出を共有できる仲間としての共通した感情がお互いにあるので、時に学校外で行われていた集会でもすぐに打ち解けることが出来た。
以前、大村益次郎を題材にした「花神」を読んでいたとき(1年前)、思い出したことでした。
試験は塾頭と塾監という副長が執り仕切り、洪庵はある程度の教養のあるものだけに私見を述べていくのだそうです。
最後の部分はまるで大学院の部分ですね。
私の所属していたゼミでは、2年から3年にあがる頃に初めの洗礼が訪れます。春のゼミ合宿です。
これは本一冊を全員で勉強するのですが、各章を1名の新人が発表者プレゼンテーターに、先輩が二人でバックアップ(コメンテーター)を務めます。
この発表では質問が百出するのです。
分からないことは徹底的に質問して構いません。仮説を立てて、現在述べていることを踏まえた場合、どのような現象が起きると考えられるかなどについての質問がガンガン飛んできます。違うも違わないもないのですが、満足いく回答をし得ないといつまでも前でああでもないこうでもないと喋り続けることになります。もちろん、中には手助けをしてくれる同級生なども現れたりしますが、基本初日の3人は何時間も延々と前で質問に答えていくので、最終日に発表を控えた者などはその光景に慄いていきます。
この質問をかましてくれるのが、良く悪くもOB達です。遊びに来ているとばかり思っていた人達が、先生への挨拶もそこそこに会場に現れて(先生は会場にはいつもいない)、質問に質問を重ね、時にはOB同志で言い合いになったりしている。。。。
プレゼンテーター初め新3年生達で少なくとも回答をぶつけなければ、OBは納得しない。題材はマクロ経済ですが、経済も思想となんら変わりがない気がしてくる。。。
夏合宿は金融論、本ゼミは貿易論、サブゼミはミクロ経済。
いいプレゼンをしたものと、一番攻撃を受けてしまった者(発表時間が一番長かったもの)を全員の投票で決めて、合宿の打ち上げでフラフラになりながらその発表を聞くのです。
質問を聞き、聴講席で一緒に考え込んでいると、スラスラと答えを唱えている同期もいます。もちろん質問が意地悪なものも含まれるので厳しいことは厳しいのですが。。。。
中には質問そのものに矛盾があり、そういう想定は起こり得ないと結論付けることも必要になるのですが、一瞬では分からない。。。。何度もトイレに行く振りをして煙草を吸いながら頭を巡らす。。。。あぁ質問の起点が想定できる状態ではない!と気付く。
そんな光景を初日目の当たりにした最終日の発表者はもう徹夜を何日も続けることになるという状態になるのです・。
もちろんゼミの運営はゼミ生に任され、2年生の入ゼミ希望者の中から、定員までに絞り込むのも3年生たちが行う。
面接まではまだふざけた感じで質問しているのだが、人を選ぶという行為の重さに夜になって気づくのである。この作業、どこぞの会議室を一晩借り切って行うのであるが、これが掴みあいになるくらいの激論が戦わされる修羅場となる。縁故者の贔屓をやはり許さない環境になっていくのだ。平等を求める者たちがそういう行為を許さない。実は自分達もそういう形で落とされそうになったり選ばれたりしてきたのだということに気付き、中には泣き出してしまう者まで現れる。選んでもらえたことに対する感謝と落とされたかもしれない、ふるいにかけられたかもしれない身の上を思って。。。
そこでやっと思い至るのだ。人事とはとても辛い職業だと。
鍋島閑叟の教育哲学も凄まじかったらしいが、大隈重信はそれを忌み嫌っていたらしい。。。その風土は分からないでもないが、我がゼミは寝かさない。。。。でもみんな個性的だった(と思う)。規律の元に試験をされて振り落とされていたわけではないから。。。かな?
先生が高齢になり、退職されたので、今教授になっている先輩がゼミを引き継いでいるものの、どこかしら違うらしく、OB会は学校外で開かれていた。
最近はその仲間とも年賀状くらいになりつつあり、時には集まってみる?という話になるもののなかなか集まれないのが現状だ。
今でもメールなどで親交のあるものが何人かいるものの。。。学年が違うとどうしても。でも高校の同級が何人かいたので盆暮れには会える環境にはあるのだ。
先輩や後輩達とは、、、私は仕事柄、春合宿、夏合宿に集まれる状況になかったこともあり。。。先生の退職の会の時にやっと会えたという者がほとんどだった。
ただ、あの鮮烈な思い出を共有できる仲間としての共通した感情がお互いにあるので、時に学校外で行われていた集会でもすぐに打ち解けることが出来た。
以前、大村益次郎を題材にした「花神」を読んでいたとき(1年前)、思い出したことでした。