萌えてばかりもいられない!

そんなに色々なことにやたらと深い造詣などいだけないから適当に綴っていこうかしらん

赤裸々ということ? 純文学考

2012-02-23 05:22:56 | 日々の疑問
うーーん、絲山秋子著「イッツ・オンリー・トーク」(表題作)を読み終わりました。
すぐに読めます。そんなに長くはないです。

切れた鎖でも思ったんですけど、文学賞作品の純文学というのは、赤裸々な自分の性癖と向き合うことなのかな?という錯覚に陥っています。

いや、自然に書かれているのではありますが、「イッツ・オンリー・トーク」の主人公に絲山秋子、著者そのものの影がちらほらし、第7障害(読みかけ)の馬上の人にも自分を投影しているようですが、まず表題作の件。なんとなしにやはり私小説っぽい。

表現・主張・風景描写、ここまでの部分での独自性は分かりますが、この先に必ずあるのが、独特な性描写・独特な性癖の告白のような部分に必ずあたるような気がしました。

町田康「きれぎれ」ではないですけど、読んだ作品(夫婦茶碗かな?)にはそんな印象はなかったんだけどなぁ。。。
共喰いをあらすじを読んだ段階で「殴る性癖」というものと向き合う?まぁ想像力・妄想力というものへの挑戦なのかな?と考えて、まぁ読まんとこっ!と思ったのに、読む作品毎にそういう部分との邂逅めいた感覚でもあり、必然的な物語のツボだったり。。。。し続ける現実に。。。。一体どういうことなんだろう?という感覚が走る。

田中慎弥のインタビューの中の印象で、首を絞めるときはどんななのかを懸命に考えて文字にしている様とかを語っていて、もちろんそれが文体として美しくなるように、読み返して書き直して削って加えてという。。。。部分が妙に心に引っかかっているのです。


官能、耽美、それにまつわる自己解釈と論理世界の構築。もちろんその自己解釈の中で「世の中」、「所詮人間」と思わしき世界観の表明。。。

まるで、
「ストーリー的に、必然だったら、脱ぎます」
という女優の宣誓を毎日聞いているような状態です。


以前、友達から、映画監督の藤田敏八(ふじたとしや でもビンパチって呼んでいました)を観に行こうと松戸まで出かけていったこともあり、そういう描写が不自然でなく表現すること、できること、それこそ必然な流れの中にあるように活写することの技術として認識しようと努力した(笑)。。。。ことと同じように、これらの作品との距離感というかスタンスというか、見つめる目を持つことが必要なのかも知れないと思い知った今日この頃です。。。。


なんか余り表現したことのない内容なので、顔が真っ赤です。
あっ普段下ネタをまったく云わないとかいうんじゃなくて、単に自分”むっつり”なんですけどね。
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