うちの周りでは、あまり鶏頭を見なくなりました。これは岩手の家のおとなり。
見るたびに、
鶏頭の十四五本もありぬべし という句が頭に浮かびます。
なんと単純、シンプル。
ありぬべし は、あることだなあ という感じでしょうか。いや、適当なことを書くわけにはいきませんね。調べました。
あるに違いない という意味だそうです。
子規32歳の時の句で、すでに病に伏せっています。庭に鶏頭が咲いているだろうというのはわかるけど、実際に庭に降りて見ることはできない。なので、もう十四五本は咲いているだろ、いるにちがいない と詠んだわけです。ちらっとは見えたかもしれませんね。
生きることへの思いが強調されていると書かれているものを読みましたが、私はそこまで読む必要はないのでは? と思います。そこは読み手の自由。
では、こういう句を、元気でぴんぴんしている私が詠んだとしたら? やっぱり、子規の背景があってこその句だなと思います。俳句も、他の文芸も、私は作者の人生とは切り離して、そのもので鑑賞したいという気持ちがあるんですが、作者の人生が壮絶な場合、創作物がまた違った意味合いを帯びてくることは否めません。私みたいに平凡な人間は、作品だけで勝負しないと・・ですが。