私は仏壇と呼んでいるが、
あれは仏壇ではないな。
おはようございます。
実家には、とても小さな仏壇がある。
コンパクト仏壇だ。
けれど、先祖の位牌は飾られていない。
あるのは、薬師寺如来が描かれた小さな札だけだ。
両親が以前、熱心に薬師寺如来を信仰していたからだけれど、
最近、両親が手を合わせる姿を見たことがない。
私は、それがとても気になっていた。
そのくせ、
毎朝実家に通う私は、その日の両親の様子が思わしくないと、
玄関を出るついでに、部屋からちらりと覗くコンパクト仏壇に、
「お願いしますね」と祈る。
右手は玄関のドアのぶを握り、左手だけで祈る。
足元は、靴を履くためにバタバタさせているし、
私の祈りは、なんとも無礼な祈りだ。
だから、今年の13日は、ちゃんとしようと思った。
贖罪の念を払拭する気持ちもあった。
ちゃんとと言っても、埃を拭いて花を飾って、お供え物を供えただけだ。
酷く溜まった埃を拭いたついでに、
「ごめんなさい」と念じながら、その布で本尊も拭くという、
これまた、呆れるくらい無礼な贖罪だ。
蝋燭に火を灯し、線香を炊き、そーっと鈴を叩くと、
なんとも情けない音が出た。
その音に、母さんは
「なんちゅー音や~」と無邪気に笑った。
母は、もう手は合わせない。
私は、茶化す母さんに苛立ちながら、
それを無視して、両手を合わせた。
けれど、何も祈れない。
なーんにも、思いつかない。
信心も無ければ、志もない。
ダメな私だ。
もう一度、鈴を叩いた。
さらに情けない音に、母さんはさらに大きな声で笑う。
もうダメだ・・・あかん。
神妙に手を合わせたつもりが、
こっちまで笑いにつられそうになり、苛立ちはスーッと消えていく。
「ありがとうさんでございます。」
結局、私は、ありがとうだけを明確に祈った。
実家を出て、脇に通る小川を見れば、
岸には、ハグロトンボが佇んでいた。
真っ黒な翅に輝く青緑の胴体が見える。
奇跡みたいに、美しいトンボだ。
このトンボは、両翅をゆったり合わせて止まる姿が、
まるで合掌する人のように見えることから、神様トンボとも呼ばれている。
私にとっては、今年初のお目見えだ。
私はハグロトンボにも「ありがとうさん」と祈った。
私には、神仏の存在など気付けない。
空に手を合わせたって、救いようのない時はいくらでもある。
けれど、
どんな世にも、美しい奇跡や、笑っちゃうような奇跡はある。
それは、ほんの些細なことかもしれないし、
一瞬の気休めにしかならないことも多い。
私は、そんな一瞬の奇跡に「見逃すなよ、私。」と思ったのだった。
こっちは、気付き過ぎている。
というか、狙っている!
隠れて狙っているつもりの、たれ蔵。
隠れたつもりで、見逃すまいと出ちゃってる、真剣なたれ蔵。
こっちにも隠れているつもりの、丸見えのあやがいる。
君達、なんちゅー真剣な面持ちよ!
我が家の緊張(あや・たれ)と緩和(のん太)の奇跡。