昨日は、立春らしく、
めちゃくちゃ暖かな、すっかり春になったような日だった。
おはようございます。
昼下がり、車を走らせながら、私は汗ばんでいるのに気づき、
上着を脱いだ。
「居るかな?お願い、居てくれ!」
先週から、私の車は猫の餌をストックするための倉庫みたいになっていた。
ハンドルを右に切ると、箱に入った餌がガサッと動き、
左に切るとドサっと戻る音の中、私は勤め先へ向かっていた。
「チャーボー、いるかなぁ?」
私は、野良猫に名前を付けた。
時々、会社の車庫にやって来る野良猫だ。
その猫に名前を付けることは、私にとって非常に覚悟の要ることだった。
名付けるということは、関わるということだ。
この猫と関わったら、きっと私は何度か泣く羽目になるだろう。
だから、慎重に2日間考えた。
そして結局、名前を付けることにした。
極めて慎重に考えたくせに、
真っ先に思い付いたのが、チャー坊だ。
でも私は、それは嫌だった。
だって、『チャー坊』って響きはダサい。
あまりにダサすぎる。
こうなったら、猫に聞くしかない。
ある日、やって来た猫に、
「ボンシャン、来たの?ご飯食べる?」
と声を掛けてみた。
ボンシャンは、フランス語で幸運という意味だ。
ボンシャンと名付けようと思ったが、突然ボンシャンと呼ばれた猫は、
「シャーーッ」と答えた。
次の日、仕方ないから、
「チャー坊、君はチャー坊がいいかい?」
と聞いてみると、突然チャー坊と呼ばれた猫は、
「ニャ~」と答えたのだ。
あぁ、チャー坊か。そうかそうか。
私はがっかりしたが、ガツガツとドライフードを頬張る猫に
一方的に約束をした。
「チャー坊、これから私は、君にご飯をあげるよ。
絶対にあげるからね。それだけは安心して。
だから、ここに来るんだよ。
この時間だ。太陽が真上にある時に来るんだよ。」
それ以来、チャー坊は猫らしく、バラバラな時間に現れた。
そもそも、チャー坊は私と約束したから、やって来たのではなく、
実は以前から、弊社のドライバーに餌をねだっていたのだ。
私はそれを知っているうえで、知らん顔をしていたのだ。
あるドライバーが
「すごい寄ってきて、ねだってくる」
と話すのを聞いて、
「そんなに近寄ってくる子なら、保護してあげれば?」
と無責任なことを言っていた。
しかし、その無責任な発言が無責任だと気付いたのは、
数年前の記憶が蘇ったせいだ。
駐車場を横切る、緑と赤のボーダーのチョッキを着た猫の記憶だ。
見た所、彼はまだ少年だった。
服を来た猫が外を歩いているのも驚いたが、その少年の被毛の色にも驚いた。
その猫は茶トラだったからだ。
会社の付近で、茶トラの猫は見かけたことが無かった。
まるで、チョッキを見せびらかすように自慢げに歩いている少年に、
私は、声を掛けた。
「あら、坊や。素敵なお洋服、着てるわね。どこの子だい?」
すると、少年は、
「いいでしょう?お母さんに着せてもらったんだい!」
と言わんばかりの顔をした。
私は、
「ここらは車が多いから、気を付けて帰るんだよ。」
と伝え、しばらく少年の後ろ姿を見送っていた。
なんとも微笑ましい光景に、私はふと嫌な予感が過った。
あの子が末永く、愛されますように。
そう願った。
チャー坊は、あの時の少年と同じ、茶トラのオス猫だ。
そして、あの少年を見て以来、やっぱりこの界隈で茶トラを見たことは
チャー坊に会うまで一度も無かったのだった。
私は、もしかしてと思った。
チョッキを着た、あのキラキラした少年が、
ボロボロの野良になって再会した。
もしかして、そうかもしれない。
いや、違う猫かも知れない。
でもチャー坊は、飼い猫の経験があるような気がする。
触れはしないが、人間とのコミュニケーションは理解している。
生粋の野良とは違う気がするが、
今それが分かったところで、ボロボロの猫が救われるはずもない。
けれど、あの記憶が私に覚悟を持たせたことは確かだった。
そう、チャー坊はボロボロの野良猫だ。
片目は委縮して、無いに等しい。
もう片方の目も、しっかり見えているとは思えない。
そして、いつ見ても首は斜頸している。
内耳炎のせいで前庭神経が侵されているのだろう。
聴覚じたいも、かなり弱い。
危険を冒してでも、人にねだらなければ、とても生きてはいけない。
そうやって生き延びて来たに違いない。
私は、せめて安定した餌場になろうと決めた。
そのためには、名前を覚えてもらうことだったが、
チャー坊は耳が遠いんだよな~。
呼んでも聞こえなければ、潜んでいると見つけてやれない。
「困ったな~。土日はどうやって会えるだろうか?」
平日なら、仕事の合間に、何度か外へ見に行けばいいが、休日はそういう訳にはいかない。
だから私は、昨日、暑さと不安で汗ばみながら運転していた。
ところが、チャー坊は当たり前のように、いつもの場所に座っていた。
「やっだぜ、チャー坊!お腹空いたろう?」
この日のチャー坊は、顔色がいい。
私は、やっと撮影する気になれた。
「チャー坊、今日は暖かくていいね。」
そう話し掛けると、チャー坊は聞こえているのかいないのか、
食べるのを中断して、私を見る。
「いいよ、ごめん。いっぱい食べな。」
しばらして、皿に数粒ドライフードを残して食事が終わった。
休日の会社は不気味なほど静かなことに気が付いた。
見慣れない静かな風景だ。
「チャー坊、また明日ね」
私は、そう声を掛けて立ち去ろうとしたが、
チャー坊は、
「にゃ~にゃ~」
と優しい声で鳴きながら歩いて行く。
そして、くるっと振り返って私を見る。
「どうした?」
不思議に思った私は、慌てて車内のバッグを取りに行き、
歩きながら振り返って鳴くチャー坊の後に着いて行ってみた。
「にゃ~」
「はいはい」
「にゃ~にゃ~」
「分かったよ」
私達は、誰一人いない静かな道を、ゆっくり歩いた。
まるで、春みたいに暖かい。
「チャー坊、今日は春みたいに暖かかくていいね~。」
しばらくして、チャー坊はガラクタだらけの倉庫に入って行った。
私は入る訳にはいかず、回り道をして倉庫の裏へ行った。
すると、そこにチャー坊がいた。
ガラクタ倉庫の裏は、まるでお日様の光が全部集まっているみたいな場所だった。
汚れたシートに座るチャー坊の前には畑が広がっている。
チャー坊はしばらく畑を眺め、私を見て、
「ここが、ぼくの家だよ。」
と言わんばかりの顔をした。
まるで、あの時の少年のような顔だった。
「チャー坊、教えてくれてありがとう。」
私は、そう伝えて道を戻りながら、空を見上げた。
空は真っ青で、風も穏やかだ。
私は、もう一度、
「今日が春みたいに暖かくて良かった。」
と、空に向かって呟いた。
その時の私は、どういう訳か、泣いていた。