2幕はサナトリウムで療養中のオデットの願望的な夢として、彼女の精神が逃避する安らぎの場としての湖が、16羽の白鳥とともに姿を現します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/be/a1ad869874125ad2d4a7dc5da653739e.jpg)
円盤状の鏡のような湖は、天井に設けられた木立の網目のようなオブジェを透過した光によってE.S.エッシャーの「波形表面」を作り出す。
静謐な世界で4羽の白鳥が、そして修道女がなりかわったのか、衛兵のようにこの小さな世界を守る2羽の大きな白鳥が舞う中で、オデットは夢の中の王子とともに愛のパ・ド・ドゥを踊ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/c4/dc496bdc6fb53f54ff7eb57cc6bbd6f3.jpg)
クラシックチュチュではないものの、ここではプティパ版の湖での白鳥の踊りのエッセンスの多くがこめられており、シンプルなベアトップで後が少しV型に長くなっているオーガンジーを重ねた短めのロマンチックチュチュにシンプルなバレッタのような髪飾りでやや現代的にアレンジされてはいるものの、古典の白鳥を愛する人の気持ちに寄り添った白鳥と言えるかも・・・。
実際、この2幕までは、オーストラリアバレエの演劇性とバレエの融合と言うコンセプトが見事に結実していると認めざるを得ませんでした。
第3幕、男爵夫人主催のパーティ。ブラックフォーマルに散りばめられたラメが妖しく煌く夜会。
結婚式のときの招待客が顔を揃える、大人の、貴族の夜会です。
そこに突如として現れる純白のドレスのオデット。
落ち着いた優美な自信に満ちた態度で、周囲を魅了。王子もそんな彼女の純粋さ、美しさにひきつけられて、今や男爵夫人は眼中にありません。
瞬く間に奪われた主役の座を奪還すべく、踊る男爵夫人。その甲斐むなしく、彼女に振り向く人は今や誰も・・・。
忽然と現れたサナトリウムの医師と修道女たち。夫人の差し金です。
再び精神のバランスを失ったオデットは、もう、サナトリウムには帰りません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/5d/084862cdb5bc9baa66aec38cfb5f7117.jpg)
オデットを捜し求めて王子が見つけたのは黒鳥の湖に身を潜めるオデット。
愛のパ・ド・ドゥでようやく真実の愛が成就するかと見えたが、絶望したオデットは湖に身を投げ、悲嘆にくれる王子が残される・・・。
と、かなり古典の「白鳥」とは筋も展開も異なりますが、音楽が発するメッセージと王室の悲劇が響き合って中々説得力のある舞台になっていたのは振付家のグレアム・マーフィーの功績でしょう。
ただ、3幕での夜会の始まりの華やかさに比べると、オデットが現れてからの男爵夫人の抵抗が長く、あの美しく王子を完全に支配下に置いていた夫人が見せる足掻きがやや見苦しくしつこく感じられてしまうのが残念。また、男爵夫人からオデットに心変わりする王子が今度は、すがる夫人を足蹴にしたりと、王子の男の身勝手さが目に付いて、感情移入しづらく・・・というか、後半の話自体が(実話をヒントにしているので仕方がないかもしれませんが)あまりにも救いがなくて、辛く、もっと短くしてしまっても良かったのでは・・・という印象を持ちました。
折角アイデアに満ちた舞台と小道具を上手く使った振付で舞台的感興が深かった前半に比べ、ドラマ的側面を大切にするあまり、バレエとしての面白みにも今ひとつ欠けている上に、どんどん単調な悲嘆に陥る展開、の後半はわたくしとしましては、やや残念に感じられるものでした。
席の2列前に、バレエ団関係者、そしてマチネの主役を踊ったロバート・カランをお見かけしましたが、台風にも関わらず満席の劇場から好意的な拍手が起こるのを満足していただけたようで何よりです。
通常の版で踊られる、マズルカ、ナポリ、スペインの結婚式のディベルティスマンは削られ、ハンガリー人が踊る短調の旋律でアレグロで扇情的に踊られるチャルダッシュが、一幕の結婚式の出し物として残されていましたが、あえて、セクシャルな振りを交えたり、女性の民族衣装のペチコートだけを鮮やかな赤にしていたり、という暗喩は効果的。(キモノの襦袢のようですね)
また、一幕でアイボリーの衣装のオデットが王子と夫人の関係に疑惑を深め始めるところでの踊りで初めて彼女の衣装の裏側のペチコートが黒であることがわかったり(晴れの場の暗雲を意味している)、と衣装・装置のクリスティアン・フレドリクソンの卓越したアイデアも秀逸でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/be/a1ad869874125ad2d4a7dc5da653739e.jpg)
円盤状の鏡のような湖は、天井に設けられた木立の網目のようなオブジェを透過した光によってE.S.エッシャーの「波形表面」を作り出す。
静謐な世界で4羽の白鳥が、そして修道女がなりかわったのか、衛兵のようにこの小さな世界を守る2羽の大きな白鳥が舞う中で、オデットは夢の中の王子とともに愛のパ・ド・ドゥを踊ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/c4/dc496bdc6fb53f54ff7eb57cc6bbd6f3.jpg)
クラシックチュチュではないものの、ここではプティパ版の湖での白鳥の踊りのエッセンスの多くがこめられており、シンプルなベアトップで後が少しV型に長くなっているオーガンジーを重ねた短めのロマンチックチュチュにシンプルなバレッタのような髪飾りでやや現代的にアレンジされてはいるものの、古典の白鳥を愛する人の気持ちに寄り添った白鳥と言えるかも・・・。
実際、この2幕までは、オーストラリアバレエの演劇性とバレエの融合と言うコンセプトが見事に結実していると認めざるを得ませんでした。
第3幕、男爵夫人主催のパーティ。ブラックフォーマルに散りばめられたラメが妖しく煌く夜会。
結婚式のときの招待客が顔を揃える、大人の、貴族の夜会です。
そこに突如として現れる純白のドレスのオデット。
落ち着いた優美な自信に満ちた態度で、周囲を魅了。王子もそんな彼女の純粋さ、美しさにひきつけられて、今や男爵夫人は眼中にありません。
瞬く間に奪われた主役の座を奪還すべく、踊る男爵夫人。その甲斐むなしく、彼女に振り向く人は今や誰も・・・。
忽然と現れたサナトリウムの医師と修道女たち。夫人の差し金です。
再び精神のバランスを失ったオデットは、もう、サナトリウムには帰りません。
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オデットを捜し求めて王子が見つけたのは黒鳥の湖に身を潜めるオデット。
愛のパ・ド・ドゥでようやく真実の愛が成就するかと見えたが、絶望したオデットは湖に身を投げ、悲嘆にくれる王子が残される・・・。
と、かなり古典の「白鳥」とは筋も展開も異なりますが、音楽が発するメッセージと王室の悲劇が響き合って中々説得力のある舞台になっていたのは振付家のグレアム・マーフィーの功績でしょう。
ただ、3幕での夜会の始まりの華やかさに比べると、オデットが現れてからの男爵夫人の抵抗が長く、あの美しく王子を完全に支配下に置いていた夫人が見せる足掻きがやや見苦しくしつこく感じられてしまうのが残念。また、男爵夫人からオデットに心変わりする王子が今度は、すがる夫人を足蹴にしたりと、王子の男の身勝手さが目に付いて、感情移入しづらく・・・というか、後半の話自体が(実話をヒントにしているので仕方がないかもしれませんが)あまりにも救いがなくて、辛く、もっと短くしてしまっても良かったのでは・・・という印象を持ちました。
折角アイデアに満ちた舞台と小道具を上手く使った振付で舞台的感興が深かった前半に比べ、ドラマ的側面を大切にするあまり、バレエとしての面白みにも今ひとつ欠けている上に、どんどん単調な悲嘆に陥る展開、の後半はわたくしとしましては、やや残念に感じられるものでした。
席の2列前に、バレエ団関係者、そしてマチネの主役を踊ったロバート・カランをお見かけしましたが、台風にも関わらず満席の劇場から好意的な拍手が起こるのを満足していただけたようで何よりです。
通常の版で踊られる、マズルカ、ナポリ、スペインの結婚式のディベルティスマンは削られ、ハンガリー人が踊る短調の旋律でアレグロで扇情的に踊られるチャルダッシュが、一幕の結婚式の出し物として残されていましたが、あえて、セクシャルな振りを交えたり、女性の民族衣装のペチコートだけを鮮やかな赤にしていたり、という暗喩は効果的。(キモノの襦袢のようですね)
また、一幕でアイボリーの衣装のオデットが王子と夫人の関係に疑惑を深め始めるところでの踊りで初めて彼女の衣装の裏側のペチコートが黒であることがわかったり(晴れの場の暗雲を意味している)、と衣装・装置のクリスティアン・フレドリクソンの卓越したアイデアも秀逸でした。