マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

平清盛足跡巡りの旅

2012-12-02 22:06:18 | 旅行。海外旅行。
日曜日の楽しみは、NHK・大河ドラマ。
昭和46年の結婚から、今年の平成24年まで、41年。 41本の大河ドラマを見ていることになる。
いやいや。抜けてる年もあります。 残念ですが。

今年は 『平清盛』。 
武士の国作りに命を燃やす清盛。 楽しんでいます。 大好きです


 
      先週・11月25日の『平清盛』

『清盛の武士の世』完成前の清盛の苦しみ。 が 描かれました。

   後白河天皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)の反乱。に苦しむ清盛。 
以仁王は、『以仁王の令旨』を出して、源氏に平氏打倒の挙兵、を促したのです。

そして

清盛の心の葛藤。 氏より育ち』? or 『育ちより氏』? が描かれました。
   女性への愛を通して、清盛の心の葛藤が、うかがわれました。

まずは・・・清盛の心の葛藤。

清盛の出生と生い立ち・・・

育ちは、『武士』です。
武士である平忠盛の長男として生まれ、父の武士魂の教育を受け、父の悲願:『武士の時代』を旗頭に、その実現をめざし戦う。・・と

そして

氏は、『朝廷』です。
清盛の生母は不明。
だが…『平家物語』では、忠盛の妻となった時には既に白河法皇の子を宿していた・白河法皇に仕えた祇園女御が母です。


    武士と朝廷の、両方の血 を持つ清盛。 
…両方の血が持つ、2種の相反する潜在的意識が・・・両者の世界を見ながら成長していく清盛の中で 育っていった???
…晩年の清盛は、武士の血よりも、朝廷の血が・・・色濃く表れてきた のだろうか???   疑問だらけです

  では。 と・・・
  
清盛の足跡をたどリ…清盛の心の検証をする。しかなかろう。と。 またもや、今日・28日は京都です。



まずは・・・

   『若一神社』

京都駅よりJR駅を一つ西へ。 西王路駅下車。

平清盛は、ここ京都に、邸宅(別宅)である、『西八条第』を建立。
  その折、敷地内の鎮守社として、紀州熊野の若一王子を祀った。 『若一神社』の始まり。

当時は、
『若一神社』周辺に、60以上もの、平一族の館があったとのこと。  今は、『若一神社』のみが、当時の繁栄を 語るのみです。


若一神社の前にそびえ立つ、シンボルの大楠。 『清盛御手植楠』

『西八条第』が火災にあっても、焼け残った清盛御手植楠。  
   清盛の権力を表すような…壮大な大きな楠。  写真に納まりません。

     25日の大河ドラマをご覧になりましたか?
清盛の寵愛を受けた・白拍子の祗王:祗女姉妹 と その二人の後に清盛の寵愛を受ける・仏御前 と 清盛の 
    ・・・・三角関係の、切なくも壮絶な、話と場面。 


『祗女歌碑』   『若一神社』の庭    『清盛像』。  寄り添うように立っていました。

祇王歌碑:
『萌えいずるも 枯るるも同じ野辺の草  何れか秋にあはではつべき』  


大河ドラマでは・・
祗女姉妹と仏御と清盛の、4人の舞台は、福原の清盛殿での話。 となっていました。
事実は・・
ここ・京都。 『若一神社』のある、『西八条第』での話。 です。

  始まり~!始まり~!

この頃・・
都に聞えた白拍子の上手。 祗王、祗女と言う姉妹 があった。
近江の国野洲江辺庄の生れ。 父九郎時定は、江辺庄の庄司であったが、罪あって、北陸に流される。
で・・
2姉妹は、母と共に京都に出て、白拍子となります。
後・・
姉の祗王が、清盛の寵を得て、妹・祗女も有名となり、毎月清盛からの百石百貫の手当もあり、安隠に暮らしていました。

或時・・
清盛が、祗王に、「何か欲しいものがあるか?」と尋ねる。
と・・
祗王は、「自分の生国は水の便が悪く、毎年旱害を受け、一庄三村は飢餓に苦しんでいるから、願わくば、水利を得させて戴きたい。」と願った。
で・・
清盛は、早速、野洲川から三里の溝を掘らせ、水を通した。里人はこれを徳とし溝を名づけて、『祗王井川』と呼び、今に至っている。

  めでたし!めでたし!  


平家物語の巻頭:
『祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。・・・・』と。 美しい書き出し。

そして、更に、平家物語を、読み進むと:

祗王祗女の事が出る。 平氏全盛の頃。 平清盛と二人の女性の物語です。上記のとおり!


ところが・・・世の常??
2姉妹の前に…新しき女性の出現。『仏御前』と呼ばれる…白拍子の出現。 年にして17歳の、新白拍子です。

仏御前は、 ここ・京都の、清盛の『西八条の殿』に現れ・・「舞をお目にかけたい!」と申し出た。
清盛は、門前払いをしたが、祗王がやさしく取りなしたので…清盛は呼び入れて、今様を歌わせる。

仏御前・・・
『君を初めて見る折は 千代も歴ぬべし姫小松 
    御前の池なる亀岡に 鶴こそ群れいて遊ぶめれ』 と。三べん。 今様を歌います。
清盛・・・
たちまち心動かして、2姉妹から、仏御前に 心を移した。
昨日までの寵愛は何処へやら?? 祗王・2姉妹は、清盛殿を 追い出されることになった。


あくる春になって…

  ここからが・・・先週の清盛大河ドラマの名場面。 歴史にも名高き場面。 始まり!始まり!


清盛は、「仏が退屈しているから、舞を舞って仏をなぐさめよ!」 と、祇園・2姉妹に 使者を送る。
祇園は・・・
清盛と仏御の前で、歌い舞った。
『仏もむかしは凡夫なり われらも遂には仏なり
  いずれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ』 と。 並居る諸臣も、涙を絞った

祇園・2姉妹が、踊り舞った後に・・・
清盛… 「お前も歌い踊れ!」 と。仏御に強要。
仏御…  「いやでございます!」 と。 清盛に反発。 
清盛… 烈火のごとく、阿修羅のごとくに、怒り狂う。危うし!  清盛の部下の采配で、命を救われる仏。 安堵! ほっ!


祗王・2姉妹:
「かくて都にあるならば、又うき目を見むづらん、いずれか秋にあわで果つべき・・・今は都を外に出でん」とて・・・。

祗王21歳。祗女19歳、母刀自45歳。の3人:
髪を剃って尼となり、嵯峨の山里、『祇王寺』の地に、世を捨て、仏門に入る。

  『祇王寺』

女心の切なさや!  ものの哀れの切なさや!  美しい 

その『祇王寺』に・・
母子三人・念仏している所へ・・・竹の編戸を、ほとほと、たたく者がある。 ノック!ノック! 「開けておくれやす!」と。
出て見ると・・・そこに立つのは…思いもかけぬ、『仏御』であった。

『仏御前』:
戸口に立って、涙ながらに、申し出た
「祗王様方の不幸を思うにつれ・・。 『・・・いずれか秋にあはで果つべき』と書き残された歌(『若一神社』の歌碑)を誦するにつれ・・。
  無常を感じ・・・。 今朝、館をまぎれ出でて、かくなりてこそ参りたれ!」 と。

祇園姉妹:
仏御が被っていた衣を、打ちのけ…垣間見れば・・。 剃髪した尼の姿。!!!
仏御:
わずかに、17歳にこそなる人・仏御。 『浄土を願わんと深く思い入り給うこそ!』 と。

   祇王2姉妹とその母。と 仏御。 
4人一緒に、『祇王寺』に籠って…
朝夕の仏前に香華を供えて、4人皆、往生の本懐を遂げた。  のです!

愛する清盛への愛。 そして 仏陀への愛。 と。 『愛』を貫いた3女性の人生。
あっぱれというか、哀しというか・・・。 それぞれの人生で、何かを貫く姿 は美しい!  かくありたいものです


   清盛の白拍子3人への愛 と 清盛の生母への愛。  合いつながるのでしょうか??


次には・・・
    『生母への清盛の愛』  の巻。   


『厳島神社』
平安時代末期: 厳島神社神主・佐伯景弘と、当時の安芸守・平清盛の 結びつきを契機に、平家一族から、崇敬を受けた。
仁安3年(1168年)頃: 平清盛が、社殿を造営し、現在と同程度の大規模な社殿 を整えた。

   平家一門の隆盛とともに・・厳島神社も栄えて・・『平家の氏神』となった。


厳島社を崇敬した平清盛は
摂津(神戸)に、築島(経が島)を造成した際に、同島に社殿を構えて、厳島社を勧請。 後に、清盛の母の霊を合祀した。
更に、後に・・・
清盛は、その、摂津の厳島神社を、京都に遷座させた。


清盛生母の菩提寺:   京都: 『厳島神社』  入口

今は・・・京都御所・京都御苑の中にあります。

   京都:   『厳島神社』    鳥居の石が珍しく、日本文化遺産です。

京都・厳島神社は・・・
後世、五摂家の一門の、九条家の邸宅に取り込まれて・・・同家の鎮守として、崇敬される。
明治になって、九条家は東京へ転宅。・・・その邸宅も東京へ移築されたが、当神社はそのまま残された。 そして今に至る。


 京都・『厳島神社』      『高倉橋』

社殿の前の池と橋。  一人の男性が、いつまでも動かず、想いに浸っていました。

  清盛同様に・・・母を想い・・・涙しておられるのだろうか???

高倉橋の川面近くの     『紅葉と落ち葉』

『沙羅雙樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し・・・・。』
確かに・・・
   人も世も・・・唯春の夜の夢の如し・・・・。

しかし・・・
   人は、今を生きる! 『高倉橋』で。  結婚式を終えたばかりの二人でした   


次に・・・

平清盛誕生の秘話が隠されている    『忠盛灯籠』


白河院が、五月雨の降る夜、祇園女御の許に赴こうとしてこの辺りを通られた。
その折・・・ 
前方に鬼のようなものが見えた。 
院は、お供の平忠盛(清盛父)に、「あれを討ち取れ!」と。 仰せられる。
忠盛は、「その正体を見定めての上で!」と。 これを生け捕りにした。 
正体は、祇園の社僧。 油壷と松明とを持ち、灯籠に燈明を献ろうとしていた。

    この灯籠は、その時のもの。 といわれている。

院は、忠盛の、冷静沈着な思慮深さを褒め・・・この夜も通っていた祇園女御を、忠盛に与えた。その祇園女御は忠盛の妻になった。
  しかも、そのとき既に、祇園女御は、院の子を懐妊していた。 
           清盛の誕生秘話。
  『清盛は忠盛の子にあらず、まことに、白河院の皇子なり。』 と。 『平家物語』は語る。


清盛の父・忠盛は・・・
生涯。 妻・清盛の生母・祇園女御を、心から愛した
清盛は・・・
母も、本妻も、愛した女性たちも・・・朝廷の女性たちです



そして次は・・・『清盛の武士の世』完成前の清盛の苦しみ。


まずは
『後白河天皇』の第三皇子・『以仁王』(もちひとおう)。 を偲びます。

  先週・25日の『平清盛』のクライマックスシーン!!
      『以仁王』の謀反。

清盛打倒命令:『以仁王の令旨』を、全国に向けて出して、源氏に平氏打倒の挙兵を促した『以仁王』。


半生を耐え忍んだ、以仁王の御所跡。  『高倉宮』  今は碑が残るだけでした。

邸宅が、三条高倉にあったことから、『高倉宮』 と称された。  
    

『以仁王』
幼少から、英才の誉れが高く、学問や詩歌、特に書や笛に秀でていた。
母の実家は閑院流藤原氏で家柄も良く、皇位継承において有力候補であった。 
が・・・
異母弟である、憲仁親王、の生母である平滋子(清盛の妹)の妨害に遭って、皇位継承を阻止された。 ”清盛や!憎し!”と。

更に・・
治承3年(1179年)11月:
平清盛は、クーデターを起こし・・・
『以仁王』の父:『後白河法皇』を幽閉。 以仁王も、長年知行してきた、常興寺領を没収された。 またもや…”清盛や!憎し!”と。

治承4年(1180年)4月:
ついに・・・
つらく耐えがたき半生を、耐えに耐えてきた…『以仁王』。平氏討伐を決意!!
決意したした以仁王・・・
源頼政の勧めに従って、『平氏追討の令旨』、を全国に出す。
自らも・・・
『最勝親王』と称して、挙兵を試みた。 が・・・準備が整わないうちに、計画が平氏方に漏れた。

同・5月15日:
平氏の圧力による・・勅命と院宣 の発布。
で・・・
以仁王は、皇族籍を剥奪され、源姓を下賜され「源以光」となり、土佐国への配流が決まった。

その5月15日の夜:
以仁王は、物詣を装って 脱出。  大脱走!

5月16日:
以仁王が園城寺に逃れていることが判明し、21日に、兵士は、園城寺への、攻撃を決定する。

5月26日:
頼政が、宇治で防戦して時間を稼いでいる間に、以仁王は興福寺へ向かったが・・・
同日中に:
南山城の加幡河原で、平氏家人の藤原景高・伊藤忠綱らが率いる追討軍に追いつかれて・・・討たれた。

    以上。『平家物語』は、『以仁王』光明山鳥居の前での戦死。 とする。

最後に・・・

       『三十三間堂』

本尊は千手観音。  今日も祈る・・。

三十三間堂のあたりには、もともと、『後白河上皇』が、離宮として建てた『法住寺殿』があった。
その広大な、法住寺殿の一画に、敷地内の鎮守社として建てられたのが、『三十三間堂』。 蓮華王院本堂。です。
  …『後白河上皇』の権力の大きさを、うかがい知ります


その、『三十三間堂』
その昔・・・
『後白河上皇』が、平清盛に建立の資材協力を命じて、長寛2年12月17日(1165年1月30日)に、完成したという。

清盛と後白河上皇と後白河天皇の第三皇子・以仁王。 3人。

友好関係の3人 ~ 敵対視で幽閉の身へ ~ 討ち取り。 ・・・へ。 と。

武士である平忠盛の長男として生まれ、父の武士魂の教育を受け、父の悲願:『武士の時代』を旗頭に、朝廷と戦う清盛。


  人の心は変わる。  時代も変わる。


以上。
感無量で、平清盛の足跡検証、京都の旅の終了です。 お付き合いありがとうございました
来週・2日は
武士の清盛が、武士の頼朝に 負ける。 

『祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。』


皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。 先人たちに学び、自分の真の生き方を見つけて、今日も賢く過ごしましょう!