素読の効果:
私は掲題の渡部亮次郎氏主宰の「頂門の一針」3399号の伊勢氏の「日本の誇る英語の達人」を興味深く拝読。中でも「これは」と思ったのが掲題の「素読の効果」だった。その一部を紹介しよう。
>引用開始
素読の効果
岡倉天心がお寺で住職から漢学を学んだ方法は、当時の寺子屋と同様、「素読」によったはずである。「師曰はく、学びて時にこれを習ふ、亦(また)説(よろこ)ばしからずや」などと『論語』の一節を、師について何度も何度も音読する。そのうちに、文章のリズムを身につけ、語感を感じとり、内容も少しづつ分かってくる。
その素読を英語学習の正道として勧めているのが、「同時通訳の神様」と呼ばれた國弘正雄氏である。氏は戦争中、中学1年の時に先生から勧められて英語教科書を声を出して、ひたすら読んだ。一つの課について、平均5百回、課によっては千回も読んだだろう、という。
戦争が終わった時に3年生になっていた。米軍がやってきて、子供心に自分の英語を使ってみようと思って、米兵に話しかけた。すると驚くなかこちらの言うことが相手に通ずるだけでなく、相手の言うことも、驚くほどよくわかったという。[3,p20](以下略)
>引用終わる
私が英語が在職中にはアメリカ人の中で、言わば1年365日暮らしていても何とかなったのは、「旧制中学と高校では(試験の前には)教科書を何回でも意味が解るようになり、何処で切るべきかが自然に解るまで音読を続け、単語帳もカードも一切作らず、英文和訳はせず、知らないか意味が解らない単語が出てきたらその都度辞書を引き、ひたすら教科書の暗記暗誦のみで過ごす」というズボラな勉強作戦の結果だったのです。
これは決して意図して実行したのではなく、単語帳その他が面倒だったのと教科書に書き込みをするのも同じように面倒くさかっただけのことでした。しかも、この勉強法というか試験対策は非常に簡単で、暗誦出来るようになれば止めて良いという風に自分で決めてあったのですから。しかも、これが有効だろうとは全く考えたこともなく、飽くまで結果論ですが、常に90点以上取れるようになったので、「しめた。これで行こう」となったのです。自慢話のつもりは毛頭ありません。結果論ですから。
この手法を大学1年の頃に偶然にその機会を与えられた中学1年生の男子に3年生になるまで試みて見た結果、この男子は高校を卒業するまで英語は「オール5」という優秀な成績だったそうです。高校卒業時の担任の先生に「中・高の教育が英語の力を付けるためだけのものであれば、この子は大成功だったと言える」との評価を貰ったと聞きました。
この教え方は我が国の英語教育法から見れば邪道であり、大冒険ですから、この一家の両親に「イチかバチかですが」と断って了解を取った上で試みたのです。この方法で成功した個人教授にはもう一例が社会人であります。しかし、与論は「成功例が少な過ぎる」と言って否定してきます。
負け惜しみでも何でもないのですが、「では、我が国の学校教育での成功の比率はどれほど高いのですか」になるのですが、こんなことを言っていられる場は、親しくして貰っている英語教育改革派の二人の学者(国文学と仏文学)と語り合っている時だけです。
私が英語が在職中にはアメリカ人の中で、言わば1年365日暮らしていても何とかなったのは「旧制中学と高校では(試験の前には)教科書を何回でも意味が解るようになり、何処で切るべきかが自然に解るまで音読を続け、単語帳もカードも一切作らず、英文和訳はせず、知らないか意味が解らない単語が出てきたらその都度辞書を引き、ひたすら教科書の暗記暗誦のみで過ごす」というズボラな勉強作戦の結果だったのです。
これは決して意図して実行したのではなく、単語帳その他が面倒だったのと教科書に書き込みをするのも同じように面倒くさかっただけのことでした。しかも、この勉強法というか試験対策は非常に簡単で、暗誦出来るようになれば止めて良いという風に自分で決めてあったのですから。しかも、これが有効だろうとは全く考えたこともなく、飽くまで結果論ですが、常に90点以上取れるようになったので、「しめた。これで行こう」となったのです。自慢話のつもりは毛頭ありません。結果論ですから。
この手法を大学1年の頃に偶然にその機会を与えられた中学1年生の男子に3年生になるまで試みて見た結果、この男子は高校を卒業するまで英語は「オール5」という優秀な成績だったそうです。高校卒業時の担任の先生に「中・高の教育が英語の力を付けるためだけのものであれば、この子は大成功だったと言える」との評価を貰ったと聞きました。
この教え方は我が国の英語教育法から見れば邪道であり、大冒険ですから、この一家の両親に「イチかバチかですが」と断って了解を取った上で試みたのです。この方法で成功した個人教授にはもう一例が社会人であります。しかし、与論は「成功例が少な過ぎる」と言って否定してきます。
負け惜しみでも何でもないのですが、「では、我が国の学校教育での成功の比率はどれほど高いのですか」になるのですが、こんなことを言っていられる場は、親しくして貰っている英語教育改革派の二人の学者(国文学と仏文学)と語り合っている時だけです。
私は掲題の渡部亮次郎氏主宰の「頂門の一針」3399号の伊勢氏の「日本の誇る英語の達人」を興味深く拝読。中でも「これは」と思ったのが掲題の「素読の効果」だった。その一部を紹介しよう。
>引用開始
素読の効果
岡倉天心がお寺で住職から漢学を学んだ方法は、当時の寺子屋と同様、「素読」によったはずである。「師曰はく、学びて時にこれを習ふ、亦(また)説(よろこ)ばしからずや」などと『論語』の一節を、師について何度も何度も音読する。そのうちに、文章のリズムを身につけ、語感を感じとり、内容も少しづつ分かってくる。
その素読を英語学習の正道として勧めているのが、「同時通訳の神様」と呼ばれた國弘正雄氏である。氏は戦争中、中学1年の時に先生から勧められて英語教科書を声を出して、ひたすら読んだ。一つの課について、平均5百回、課によっては千回も読んだだろう、という。
戦争が終わった時に3年生になっていた。米軍がやってきて、子供心に自分の英語を使ってみようと思って、米兵に話しかけた。すると驚くなかこちらの言うことが相手に通ずるだけでなく、相手の言うことも、驚くほどよくわかったという。[3,p20](以下略)
>引用終わる
私が英語が在職中にはアメリカ人の中で、言わば1年365日暮らしていても何とかなったのは、「旧制中学と高校では(試験の前には)教科書を何回でも意味が解るようになり、何処で切るべきかが自然に解るまで音読を続け、単語帳もカードも一切作らず、英文和訳はせず、知らないか意味が解らない単語が出てきたらその都度辞書を引き、ひたすら教科書の暗記暗誦のみで過ごす」というズボラな勉強作戦の結果だったのです。
これは決して意図して実行したのではなく、単語帳その他が面倒だったのと教科書に書き込みをするのも同じように面倒くさかっただけのことでした。しかも、この勉強法というか試験対策は非常に簡単で、暗誦出来るようになれば止めて良いという風に自分で決めてあったのですから。しかも、これが有効だろうとは全く考えたこともなく、飽くまで結果論ですが、常に90点以上取れるようになったので、「しめた。これで行こう」となったのです。自慢話のつもりは毛頭ありません。結果論ですから。
この手法を大学1年の頃に偶然にその機会を与えられた中学1年生の男子に3年生になるまで試みて見た結果、この男子は高校を卒業するまで英語は「オール5」という優秀な成績だったそうです。高校卒業時の担任の先生に「中・高の教育が英語の力を付けるためだけのものであれば、この子は大成功だったと言える」との評価を貰ったと聞きました。
この教え方は我が国の英語教育法から見れば邪道であり、大冒険ですから、この一家の両親に「イチかバチかですが」と断って了解を取った上で試みたのです。この方法で成功した個人教授にはもう一例が社会人であります。しかし、与論は「成功例が少な過ぎる」と言って否定してきます。
負け惜しみでも何でもないのですが、「では、我が国の学校教育での成功の比率はどれほど高いのですか」になるのですが、こんなことを言っていられる場は、親しくして貰っている英語教育改革派の二人の学者(国文学と仏文学)と語り合っている時だけです。
私が英語が在職中にはアメリカ人の中で、言わば1年365日暮らしていても何とかなったのは「旧制中学と高校では(試験の前には)教科書を何回でも意味が解るようになり、何処で切るべきかが自然に解るまで音読を続け、単語帳もカードも一切作らず、英文和訳はせず、知らないか意味が解らない単語が出てきたらその都度辞書を引き、ひたすら教科書の暗記暗誦のみで過ごす」というズボラな勉強作戦の結果だったのです。
これは決して意図して実行したのではなく、単語帳その他が面倒だったのと教科書に書き込みをするのも同じように面倒くさかっただけのことでした。しかも、この勉強法というか試験対策は非常に簡単で、暗誦出来るようになれば止めて良いという風に自分で決めてあったのですから。しかも、これが有効だろうとは全く考えたこともなく、飽くまで結果論ですが、常に90点以上取れるようになったので、「しめた。これで行こう」となったのです。自慢話のつもりは毛頭ありません。結果論ですから。
この手法を大学1年の頃に偶然にその機会を与えられた中学1年生の男子に3年生になるまで試みて見た結果、この男子は高校を卒業するまで英語は「オール5」という優秀な成績だったそうです。高校卒業時の担任の先生に「中・高の教育が英語の力を付けるためだけのものであれば、この子は大成功だったと言える」との評価を貰ったと聞きました。
この教え方は我が国の英語教育法から見れば邪道であり、大冒険ですから、この一家の両親に「イチかバチかですが」と断って了解を取った上で試みたのです。この方法で成功した個人教授にはもう一例が社会人であります。しかし、与論は「成功例が少な過ぎる」と言って否定してきます。
負け惜しみでも何でもないのですが、「では、我が国の学校教育での成功の比率はどれほど高いのですか」になるのですが、こんなことを言っていられる場は、親しくして貰っている英語教育改革派の二人の学者(国文学と仏文学)と語り合っている時だけです。