新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

マスコミ報道批判

2015-03-02 13:59:42 | コラム
マスコミの報道の姿勢は軽いしミーハー向けだ:

ウイリアム王子の来訪:
最近、彼等、就中テレビ各局が争うかのように採り上げる大きな話題の一つに「UKのウイリアム王子の来日」がある。彼等の姿勢は結局はアメリカのキャロライン・ケネディ-大使の着任時の空騒ぎを思い出されてくれただけのような気がする。ウイリアム王子は苟も将来は大英帝国(英連合王国=UK)の王様になるお方だ。その人物の来日をミーハー相手としか思えない調子で報道してどうする。政治的と経済的意義はないのかと問いたくなる。ウンザリされられただけだ。

私のように長年アメリカと親しみというか、アメリカの会社で仕事をしアメリカ文化に馴染んでいれば、自ずとアメリカ贔屓にもなるし、UKに対する有形無形の反感に同調するようになっている。遠回りなことを言わなければ「Queen’s English に対する反感というか抵抗感は、多くの方々が思っておられる以上に激しいものがある」等とも言いたくなる。

聞けば、王子は中国では経済的な動きもされるようだ。だが、我が国で経団連の誰かがお目にかかったという報道は寡聞にして知らない。先程TBSで何とか言う弁護士が最近中国を訪れたUKの人が3倍に増え使ったお金は数倍にもなったと聞いて「英国で買うものがあるのか」と正直すぎる感想を洩らしたのが面白かった。私は上海でバーバリーのなんちゃってシャツを買ったがね。

川崎の上村君事件:
何とも残忍で聞くに(見るに?)耐えない悪辣で陰惨すぎる事件だ。我々があの年齢だった頃にも(昭和20年代だが)不良もいれば与太者もいたし、喫煙で停学になった者もいた。石原君が描いた太陽族とやらもいた。だが、高校中途退学者が自らの手下を組織して暴行を働くだけに飽き足らず、「ちくった」だけで殺害するとは常軌を逸しているだけではなくて、理解不能な「人の道」を外れた異常さである。

深読み好きな私に言わせて貰えば、任意同行の時点で既に弁護士に伴われていたと報じられている主犯の18歳の少年に対して、その弁護士が一昨として精神鑑定でも求めはしないかと懸念させられるほどの異常且つ残虐さである。余りに酷すぎる犯罪である。あれほどの異常さを見せる子供があそこまでの犯行を犯す前に、周囲ではその辺が予見出来ていなかったのかと疑いたくなる。

故上村君は何故その手の集団に加わってしまったのかが知りたい。

政治と金:
安倍内閣の改造後の閣僚に「政治と金」の問題が続発し(野党でも誰でもその気になって調査すれば、いくらでも判明しそうな案件という気がするが)悪足掻きをする民主党に好餌を提供する形になってきた。これをマスコミ報道は相変わらず「政治と金の問題」と銘打っている。私は違うと思う。その程度の者たちが政治に携わろうとするのであり、その程度の者を支持する民度の低さが原因だと思っている。

勿論、マスコミ論調にあるような政治資金規正法のようなザル法律が一翼を担っているのも確かであろうし、その法律を改正するはずなのが議員であれば、ザルを鍋かバケツに変えることは出来ないだろうとは思う。誰が指摘したことか忘れたが「政治家に自分以上の器量を求めるのは無理」がある。マスコミと言うか記者たちはそのくらいのことを知らないはずはないと思う。だが、「政治と金の問題」と言って嬉しそうに採り上げるのには呆れる。

民主党や維新は安倍内閣を倒して政権を取りたいのかも知れないが、彼等特に民主党に再登場させてしまえば、枝野は「3年間の経験で多くを学んだので、次回は政権運営を誤らない」という意味のことを言っていたとは申せ、私には安倍内閣以上の政治を期待するほどの鷹揚さの持ち合わせはないし、第一に頭から左巻きの民主党を嫌悪している。

まさかマスコミは本気で民主党の再登場を願っているかと疑いたくなる。彼等は何時まで経ってもミーハーの民度に狙いを絞っているらしいのが困るし、軽佻浮薄なのである。尤も、彼等を批判するのも詮ないことだと承知しているが。

国語を乱すカタカナ語批判

2015-03-02 08:45:08 | コラム
カタカナ語排斥論者としてあらためて言えば:

私としては20年以上も前から繰り返して「何処の何方がカタカナ語で日本語に戸籍を得てしまったものを使うのを止めなさいと言う気はない。ご随意に」と言ってきたつもりだ。だが、先日のあるメルマガで、この年来の主張を知らなかっただろう方が私の主張に批判的なことを言っていたのを読んで、ここで敢えてもう一度繰り返しておくのも良いかと考えた次第だ。

なお、以下は2008年にある勉強会で行ったプリゼンテーションの導入部に加筆したものである。

私はこの手の言葉が余りにも数多く日常的に日本語に登場するのが不思議であった。だが、よく観察してみると漢字・平仮名・片仮名・ローマ字とともに和製英語やカタカナ語が使われている日本語は融通無碍であるという素晴らしさを見出した。それだけに止まらず、外来語を基にして新たな言葉を創造してきた先人と現代人の優れた知恵と創造性を見る思いがするのだ。

このような言葉を「外来語」と呼んだり「和製英語」と称したりするようだが、その多くはすでに日本語として戸籍を得てしまい、今更外国人登録をせよと迫るのは遅すぎると痛感させられた。これまでにこのことを幾度か採り上げて論じた際に、かなり厳しい反論および反対に出会った。

即ち、「今更それを否定することはない。このまま使い続けよう。最早日本語の一部になっているではないか」という方が多かった。私の論旨は「これらを使うのは各人の好みと自由裁量であるし、日常会話の中で使っても構わないと思う。だが、この種の言葉の実態は純粋な日本製の言葉であり、英語(ないしは外国語)とは全く無関係であるものが圧倒的に多いという認識だけは持っていて欲しい」である。

私はこれらの言葉を英語にしてみれば全く別な意味になる例が非常に多いことを知って貰いたかっただけだ。英語教育改革論者の視点に立てば、カタカナ語の99%以上は我が国の誤った英語教育が原因で、英語の本来の意味からかけ離れた使われ方になっており、間違ってもこれが英語だと思って「会話」などで使って貰いたくないのだ。

何故この主張をするかと言えば、「言葉は耳から入った場合の影響が強いので、テレビなどに登場するコメンテーター、有識者、学者、スポーツ等の解説者、議員等の社会的に認知されるかあるいは尊敬されている人たちが、無意識に使うかあるいは誤用すると、一般人はそれを素直に受け止めて英語だろうと思って使ってしまう結果になる点を好ましくない」と考えているからである。更にこの際、「何も知らずに使っているテレビ・タレント(これも造語だろうと思うが)たちの悪影響も無視できないことも言っておきたい」であった。

プリゼンテーションでは引き続いて「和製英語(=造語)とカタカナ語」の生い立ちを簡単に論じている。そこには英語のように「表音文字」を使っている言語と、漢字のような「表意文字」と「表音文字」のひらがなとカタカナも使っている日本語との違いがあると指摘している。そこに文法の違いが加わるのである。カタカナ語ではこのような違いをほとんど無視している点を問題にしたいのだ。我が国の学校教育で英語を科学として取り扱い、しかも「生徒を5段階で評価するために教えている」辺りがおかしなカタカナ語を生む原因となっていることを指摘しておく。