新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

英語の学び方

2015-03-21 14:30:12 | コラム
我が国の英語教育の問題点:

President誌の2015.4.13号は表紙に「英語の学び方」を特集するとうたってある。実は、そこを飛ばして147頁にある茂木健一郎氏の連載コラム「英語は高収入を目的に学んではならない」の最後の一節にある「私自身、日本人の中ではかなり英語ができるほうだと思うが、英語圏の文化に興味を持ったことが英語上達のきっかけなったように思います」に大いなる興味を感じた。

偽らざる感想から入れば「今頃こんな事を言われてもね-」となる。“日本語と英語との間に余りにも厳然と存在する思考体系の違いと、我が国と英語圏の諸国(端的に言えば我が国のとアメリカの間でも良いが)との文化の相違を認識せずして、英語を話す事と言うか会話などをしない方が良い”のである。私はこの言語と風俗と習慣との違いがあることを長年力説してきた。

即ち、我が国の「科学としての英語」の教育では何時まで経っても「文化の相違」を知らせずして教えてきたために「思うように自分の考えが相手に理解して貰えない」ともどかしがったり、「無意識の非礼」を侵すような結果になってしまうと指摘し続けて来た。そして、「英語で話す時には頭の中のギアを切り替えて英語だけで考えるようにせねば、話すことなどの上達は望めない」とも主張してきた。だが、残念ながらこの説の賛同者は極少数だった。

茂木氏の主張は正しいのだが、英語をある程度以上話すようになって初めて文化の相違に気が付いて深刻に悩ん漸く真の意味での上達があるのは間違いない。だが、その「相違」を認識するためには「自国の文化とは何か」と「自分は何者か」を理解するのが必須のなのだ。そこに至るための基礎は学校教育の何処かで徹底的に教え込まねばならないのだが、そこが出来ていないのが我が国外国教育の欠陥だ。この点はフランス文学のTK博士も強調されている。

だが、我が国の教育では「この単語のアクセント一は」等という試験問題を繰り返して出しているようでは、その境地に至る子供も児童も生徒も学生も滅多に出てくる訳がないのだ。実は、かく申す私もW社に転じて10年後辺りになって、初めて「文化の違い論」を本気で唱えるようになり、漸くアメリカ人と真の意味での「意思の疎通」が可能になってきたのだ。

言わば「鶏が先か卵が先か」的な議論かも知れないが、相違を知るのは大変重要なことなのだ。私の場合は「英語で思うように言えるようになること」が先だったが、それだけではアメリカの会社では通用しないという厚い壁にぶつかって、漸く「文化の相違論」に至ったのだ。即ち、英語を媒介にしない限り「相違」の認識と問題解決に至るのは極めて難しいと思うのだが。

また、President誌の「英語の学び方」の32頁に東大大学院・酒井邦盛教授が「たとえば日本人が英語をうまく話せないのは脳が日本語にチューニングされているからです」と指摘されている。誠にご尤もだ。これは当方にギアの切り替え論と同じ議論だと思っている。故に?これも重要な点であると敢えて指摘する。

私の「英語の勉強法」では、1945年に日系米人のGHQの秘書の方に英語で話すことを教えられた際に、最初に言われたことが「英語だけで考えなさい。聞こえた英語を日本語にして考えては駄目。また英語で何か言おうと思う時に、先に日本語の文章を思い浮かべてそれを訳すようなことをするのも駄目」と厳しく教え込まれたという辺りから始めてある。

上記のような重要な点はこれまでに何度も繰り返して書き、機会を与えられれば語り且つ講義してきた。しかし、このような学習法は学校での「科学としての英語」で直ちに試験で好成績を残す結果にも結びつかないようだし、TOEICでの高得点を産み出さないと判断されたようで、賛同者も極少数だったし、今後とも支持者が増えると期待してはいない。だからこそ、TOEIC対策や入試対策の参考書が売れるのだと思っているが、如何。

なお、私がいう文化とは「ある集団ないしはグループの言語・風俗・習慣と思考体系を指す」のであり、英語にすれば"culture"であって、"civilization"ではない、念のため。