新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

アメリカ連邦政府の見識を問いたい

2015-03-29 14:12:46 | コラム
アメリカの紙パルプ産業界を批判すれば:

その昔「腐っても鯛」と言ったものだが:

アメリカの紙・板紙の生産量が4年連続で減少:
紙業タイムス社のFUTURE誌 15年第9号によれば、「今や中国に次ぐ世界第二の紙・板紙生産国に成り下がったアメリカの14年度の総生産量は対前年比△1.2%の7,210万 ton に止まっていた」とある。1990年には8,754万 ton を誇っていたアメリカの凋落傾向は著しいものがあるという見方は成立するかも知れない。実は、不景気論を除いて言えば、我が国でも同様にマイナス成長が続いているのだ。

だが、私の見方は「そういうことも言えるだろうが、現実には先進工業国ではICT化の進行と共にこのような減産傾向には広まりつつあり、悲観的に考える必要はない。寧ろ紙パの減産傾向は、その国の文明度の進展を表すと受け止めても良いほど」なのである。それが証拠に、既に13億の人口を擁する中国では生産量が経済発展につれて急増し1億 ton を超えているのが実情なのである。この2ヶ国の何れの文明度が高いかは論を待つまい。

アメリカは輸入のコピー用紙に反ダンピング関税を賦課:
私は以前にアメリカの商務省が製紙業界の請願を受けて、中国やインドネシアや韓国等の新興国からの印刷用紙(コート紙)に反ダンピング関税(ADD)と相殺関税(CVD)をかけて、アメリカ市場から閉め出した事実を指摘して「アメリカにTPPで例外なき関税撤廃を言う資格があるのか」と批判した。しかし、この関税は後に国際貿易委員会(ITC)の指示で廃止されてはいた。

だが、今回はそのITCが輸入のコピー用紙(非塗工上質紙のカットサイズとの表現もある、念のため)にADDとCVDをかけると決定したのだ。その対象はオーストラリア、ブラジル、中国(香港)、インドネシア、ポルトガルの6ヶ国の由だ。私が奇怪に思うのは、生産がない香港や先進国であるはずのオーストラリアと遙か遠方のポルトガルまでが入っている辺りだ。

アメリカではW社が2005年に洋紙事業部門を分離したように、インターナショナル・パーパーを始めとして大手メーカーが相次いで洋紙部門を売却乃至は整理して毛経営体質の転換を図った結果で、輸入しに依存せねばならない事態が発生していた地方があったのである。それでも、残ったメーカーは政府に輸入紙の脅威を訴え出ねばならないほど経営状態が思わしくないのである。

何度でも言うが、このような国内産業の保護を打ち出しておりながら、未だにTPPの早期締結を目指すが如き政策に拘泥する連邦政府の見識を疑いたくなるのだ。敢えて言えば「フェアーではない」のだ。また、経産省やJETROがこの度の関税賦課策を知らないはずがないだろうし、我が国のマスコミでもこの程度のニュースは承知しているはずだと思う。だが、一向に報じられていないのは何故だろう。如何に何でもアメリカに腐って貰いたくはない。

なお、この件はFUTURE誌の第11号から引用した。

英語論

2015-03-29 09:41:16 | コラム
英語での自己の表現力について:

今月中旬に畏友尾形美明氏が言わば仲介して下さった形でMI氏と「英語による自己の表現」について下記のような意見交換が出来ましたので、そこを私なりに纏めて見ました。MI氏と私の間にはTOEIC等について等で、意見が一致する点が多々ありました。

MI氏から寄せられたご意見:

>引用開始

私も数年間米国滞在経験がありますが、私の英語は日本人英語で、多少のコンプレックスもありました。

ある時、当時の米国総本社に、税務か、法務かもう忘れてしまったのですが本部総務部門の専門職に、日本の専門家の方々が来社し、質疑応答する会議がありました。私は、その日米間の会議アレンジと、アテンド、及び当日の必要に応じての通訳を責務として同席していました。

幸いこの団体は、通訳を同行していました。日本最大の旅行会社の方で、在米かどうかは不明でしたが、流暢な英語をある意味自慢げに話されていて、出出しは自信満々の通訳をされていました。

徐々に会話が専門的な話になった途端、翻訳がしどろもどろになりはじめ、ついには、黙り込んでしまいました。勿論私が、その後の通訳を続けた次第です。

もう1つの経験は、基礎研究所に、日本企業の専門的技術者が、研究者を訪れ、意見交換するケースがあり、私は同様に同席しました。出だしは私が通訳していましたが、質疑応答になると、余り英語がスムーズに出ない日本の研究者が、その内単語を並べ、身振り手振りで質問の細かいことを表現し、それが相手の研究者にも十分すぎる程伝わり、結果として双方大満足の訪問となりました。

以上よりお分かりの通り、
1.As if natives speak, とかFluentlyとは、ビジネス会話には全く不要です。(勿論上手な方が良いに決まっていますが)

2.問題は、当事者に話して説得したい目的があるかどうか、日本語でもいいから専門的な知識や、説明できる論理と内容があるか

3.情熱をもって、話せるかどうか。(訪問目的を達成する意図、意思、熱意)

だから、当時日本本社ではTOEIC受験が全員に課せられていたし、その点数評価が、海外出張NG、短期出張OK、長期滞在OKの3段階がありましたが、実際にアサインされるのは、その出張区分において、決して評価点数の最高者ではなく、実務能力、交渉能力がある社員でした。

勿論英語教育を否定する必要はありませんし、英会話能力が高い方が良いに決まっています。会議後の私的な会話となると、確かに英会話力が必要になることも理解した上ですが、小学生が多少の日常会話を覚えても、時間の無駄だとはいえると思います。寧ろ10人に1人が、必要なら、徹底的に高校あたりでも必要と判断した時からでいいから勉強すればいいのです。

昔東大の総長か、学長かが、英会話普及の為に象牙の塔に籠るなと言った風潮の時代があった時に、反論していました。要は、東大は英会話を教えるところではない。学問を教えるところだ。とのことで、東大が良いわけではないが、この発言には大いに共感した記憶があります。


我々の世代の日本人の問題は、英語を喋ることが学問であり、喋れないことは恥だと潜在的に思い込み、本来頭の中にある中学程度の英語能力がありながら、外人の前に立つと、どぎまぎし、突然何も喋れなくなるのです。それが当時の殆どの日本人の性向でした。(中略)

ということで、
1.気にせず、相手に伝えたいことはブロークンでもOK

2.ただし、英語を長年必要とすると判断するなら、その時から、必死に勉強すればいい。

3.だから、小学生には英語の授業など止めて、国語、日本語の語彙や、文章構成など文法を徹底的に教えるべきだ、と思います。
>引用終わる

上記に対する私の意見:
MI氏の言われることには立派であり賛成出来る点が多いと思って拝読。私の考えを申し上げておけば「私は常に『通訳も出来る当事者』として日米の大手企業の重要会談に出席して、ほとんどの場合通訳は私が引き受けてきました。その背景には「私には紙パ業界とその関連業界の専門語(technical terms)についての十分な知識があるとの自信がありましたし、日米両国の会社側の主張を理解出来るだけ日常的に業務に関わってきた」と確信していたからです。この点は通訳を生業とする方との厳然たる違いです。

話が逸れますが、その意味から私総理を始めとする大臣やは政府高官が女性の通訳を使う意味が理解出来ません。日常的に通訳をして上げる方と接し、人となりを知り、当日の感情の動きが読め、言葉遣いの癖を知っていてこそ、漸く意味がある通訳が出来ると私は確信しています。私は初見の方の通訳をお断りしたことすらあります「良い仕事が出来ない危険がある」と言って、鄭重に。

しかも、所謂”direct report”という間柄だった副社長が来る場合には、事前に両社の言い分というか主張の重要な点を調査し把握しておくことを欠かしませんでした。即ち、通訳を始める前に会談を仕上げておくという努力です。

「英語での会話」という表現は私は採りません。寧ろ”I know how to express myself in English.”こそが重要です。何度も言ってきたことで(物議もかもした)「ペラペラ」は往々にして「薄っペラペラ」に堕する危険性があります。私独自の「通訳論」は機会があれば別途述べることにます。

特に下記に引用するところも”決して評価点数の最高者ではなく、実務能力、交渉能力がある社員でした”と言われている辺りを、興味深く拝読しました。但し、私が徹底的なTOEIC排斥論者であることは確認させて下さい。

また、”当時日本本社ではTOEIC受験が全員に課せられていたし、その点数評価が、海外出張NG、短期出張OK、長期滞在OKの3段階がありましたが、実際にアサインされるのは、その出張区分において、決して評価点数の最高者ではなく、実務能力、交渉能力がある社員でした。

勿論英語教育を否定する必要はありませんし、英会話能力が高い方が良いに決まっています。会議後の私的な会話となると、確かに英会話力が必要になることも理解した上ですが、小学生が多少の日常会話を覚えても、時間の無駄だとはいえると思います。寧ろ10人に1人が、必要なら、徹底的に高校あたりでも必要と判断した時からでいいから勉強すればいいのです。”

とのご指摘にも賛成します。

そこで、僭越ながら上記の1.2.3.の3点について私の考えをお知らせしますのでご参照下さい。

1.については反対です。ブロークンで教養を疑われる世界があります。それが私は入ってから気が付いた「アメリカ全体の5%程度に過ぎない人たちが支配する大手上場企業の世界」でした。何度か書きましたが、”swearword”を使うことを注意され、文法の誤りを公衆の面前でも訂正されるような育ちの人たちが占める世界でした。換言すれば「時と場合による」ということですが。

最もいけないのが「これで良いのだ」と尊敬されない英語に満足してしまうことです。そういう日本の英語教育で育ってきた方の失敗れを知るだけに敢えて指摘します。そういう階層を相手にするのならば、それでも良いかという意味です。望むらくは「文法の正確さも言葉の選択も最上となる」事を目標を設定して勉強しておきたいものだ」となります。

2.は賛成ですが、これも目標を低く設定しないことが肝心だと、敢えて申し上げます。W社に我が国の大手企業を55歳で定年されてから転身してきた方がいました。最初の数年間は苦労の連続でしたが、何時の間にか最も難しい電話での業務連絡を立派にこなされるようになりました。これには周囲の協力とお世話もありましたが、ご本人の努力の他に「環境が支えた」とも言えると思います。因みに一橋の出身でしたが、失礼を顧みずに言えば、それほど支えになっていたとは思えませんでした。

3.は大賛成です。小学校から英語などという愚かな考えは長年真っ向から否定してきました。この詳細をここに再録の要はないと思いますが。この点では言わば同志の仏文学のTK博士と国文学のKS氏(修士ですが)も同意見です。