新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

外国の語学教育の成果

2015-03-23 11:44:46 | コラム
外国の外国語教育の水準が高いのは何故か:

既にこの場以外でも繰り返して述べてきた例を挙げて、我が国の英語教育(の成果?)と比較してみたい。お断りしておきたいことは「我が国の英語教育の結果では読解力は一定以上の水準に達している人が多い」と認めている点である。いや、私如きの力では及ばない方がいくらでもおられるということだ。

2005年12月に出会ったアメリカの大学生:
彼とは偶然に知り合ったオレゴン大学(州立のUniversity of Oregon)から明治大学・政経学部の3年に編入してきた男子学生。彼は偶々W社の林産物部門のcomptroller(controllerでも良いか)の息子だった。編入してきた理由は「高校での不勉強のために州立大学にしか受け入れられず、それでは自分の将来が決まってしまうので、日本語を学んで対日ビジネスの機会を狙って身を立てようと計画した」だった。(この背景にはアメリカでの私立大学と州立大学の格差ということがある)

彼はオレゴン大学の教養課程で日本語を2年間学んだだけと聞いたので「それで大学の授業についていけるのか」と尋ねると「全く何の問題もない」と自信たっぷりに断言した。一寸信じられなかったが、彼と約3時間語り合った結果、アメリカの大学で学んだだけで十分な力がついていたことを知り得て、正直なところ「我が国の英語教育と比較した場合に、アメリカでは如何なる教え方をするのか」との感が深かった。情けない思いを禁じ得なかった。

2010年頃に出会ったジムの韓国人トレーナー:
この青年の日本語の上手さというか実力には驚かされた。また彼がジムの入り口の掲示板に書いた前日の出来事の漢字交じりの文章の見事さと、字の綺麗さには私を含めて多くの会員を感心させられた。

そこで彼には在日韓国人なのかと尋ねてみた。答えは「違います」で、1年半ほど前に日本に来たばかりで、日本語は韓国で約2年間学び、日本では日本語学校に1年通って習得したというのだ。恐れ入ったと同時に「どのように教えられたらそこまでの力がつくのだろうか」とひたすら感心し、我が国の外国語教育の成果と比較して考えれば・・・」と、ここでもやや落胆させられた。僅か3年でこの私が褒めるくらい見事な日本語なのである。

2011年にカリフォルニア州で出会った韓国人の若き女性:
その日は一緒に旅していたYM氏と朝食を買いに出た際に入った韓国料理の弁当屋で、我々を応対した若き女性に英語の上手さに二人で”Were you born here?”と同時に尋ねてしまった。これは「英語が上手いね」という意味であると同時に「現地人か?」でもある表現だ、念のため。答えは意外にも「こちらに来て3ヶ月で、母国で英語を2年間勉強しただけ」というもので、ここでも矢張り落胆させられた。

YM氏はStanfordのビジネススクールでもPrincetonやPennsylvaniaでも多くのアジア人の学生の英語力に接しているので、この若き韓国人の女性の英語がどれほど立派なものかが評価出来るので、私と同じ質問をしてしまったのだった。発音には全く韓国訛(UNのパン・ギ・ムン事務総長の英語を思い浮かべれば何が韓国訛かが解る)がなく、表現力も十分だった。

結論:
たった3例ではあるが、私は十分だと思う。これらの若者は皆外国語を2~3年しか学んでいないにも拘わらず、その力はこの私が褒め且つ感心する水準にあるという点が問題なのだ。即ち、中学から高校と6年間学んだ「科学としての英語」では何時まで経っても「英語が解らない」だの「英語で会話が出来ないので」といった嘆きの水準から脱出出来ないのは何故かということだ。

かく申す私は幾らか話せるようにはなったが、それでも39歳からアメリカの会社に転出して「文化の壁」にぶつかって、漸く真の意味での「英語」が解るようになっただけのこと。

こういう我が国の教え方と、彼等のそれど何処がどう違うのかを何処かで誰かが追求していく必要があるだろうと言いいたいのだ。それ即ち、英語教育改革の必要性を唱えていることになるのだ。同時に「教え方」を再考する時期が来ているとも言えるのだ。

「英語の教え方」を考えるべき時

2015-03-23 08:34:36 | コラム
「英語の学び方」ではなく「教え方」を説こう:

昨日の私の「英語の学び方」の中から

”我が国の「科学としての英語」の教育では何時まで経っても「文化の相違」を知らせずして教えてきたために「思うように自分の考えが相手に理解して貰えない」ともどかしがったり、「無意識の非礼」を侵すような結果になってしまうと指摘し続けて来た。そして、「英語で話す時には頭の中のギアを切り替えて英語だけで考えるようにせねば、話すことなどの上達は望めない」とも主張してきた。”

さらに
”茂木健一郎氏の主張は正しいとは思うのだが、英語をある程度以上話すようになって初めて文化の相違に気が付いて深刻に悩ん漸く真の意味での上達があるのは間違いない。だが、その「相違」を認識するためには「自国の文化とは何か」と「自分は何者か」を理解するのが必須のなのだ。そこに至るための基礎は学校教育の何処かで徹底的に教え込まねばならないのだが、そこが出来ていないのが我が国外国教育の欠陥だ。この点はフランス文学のTK博士も強調されている。”

という辺りについて畏友・尾形美明氏から

<この認識ギャップを埋めるのは至難の業のように思えます。なぜなら、学校の英語教師を含めて、こうした“問題”を理解できないからです。問題の存在すら、殆どの関係者が分かっていないと思います。日常的に外国人と接触しない日本人の多くが、理解できないのは仕方がない様な気もします。>

とのご意見を賜った。有り難いことだ感謝した。

そこで、これについての私の更なる考えを尾形氏宛に下記のように返信したので、ご参考までにここに掲載する次第だ。

>引用開始
誠に適切なご指摘だと思います。私は「英語の勉強法」ではなく、「英語の教え方」を説くべき時が迫ったとすら考えるようになりました。「相互の文化と思考体系に相違があるという問題の所在を知らないか、その所在すら教えられずに英語教育に携わっているか、無邪気に「科学としての英語」を教えて来てしまった人たちの再教育が必要だと言いたいのです。

それだけではなく、近頃憂鬱にさせられていることがあります。それはテレビなどに登場する外国人の日本語が皆一定以上の水準に達していて「上手い」と唸らせられることです。彼等は皆ごく短期間学んだだけで上達しているのです。一体全体如何なる教えられ方をしてきたのかと感心しています。それに引き換え、中学校から大学まで教えられて「英語が話せなくて」とか「解らないので」と嘆く人が多いのは何故かという問題です。

尤も、1990年に紙パの専門誌に連載していたエッセーに書いたことですが(拙著「アメリカ人は英語がうまい」にも出ています)「ある高校教師が話せるようにならない教育を責められて”不当である。我々は生徒たちを5段階に分けて評価するために英語を教科としているのであり、話せるようにするなどは最初から眼中にない”と公開の討論会で述べた」という告白とも開き直りのような言い分を聞いたのです。

文科省や先生方のこのような方法論というか考えというか教え方乃至は思想を変えて行くことは至難の業だと思うのです。あーあ。
>引用終わる

という次第で、「英語の学び方論」も重要だし必要が、ここまで来れば「教え方論を採り上げていかねばならないと考えた次第だ。