新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

安倍総理の戦後70年談話計画

2015-03-17 09:04:04 | コラム
「謝罪の文化」がない国が何を言うだろうか?:

我が国のマスコミは「中国の総理・李克強は未だ出るとも出すとも決まっていないかのような70年談話を、全人代終了直後の演説で牽制した」と報じていた。例によって、彼等がこれを「戯言だ」という批判的な表現を使うことなどはなかった。

振り返れば、村山談話には「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。」という文言がある。謝っていたのだ。これは我が国の美風である「謝罪の文化」からすれば自然であり、何の不思議もない表現だと思う。しかし、中国(に限ったことではないが)や韓国や欧米の諸国のように「謝ること即ち経済的にも精神的にも全面的に責任を負う」という精神構造の持ち主から見れば、「謝罪したものを幾ら叩いても構わない」と思い込ませる効果があるのだ。

しかも、彼等の文化と思考体系では「謝罪したものに向かっては、水に流してやろうではないか」という寛容さはなく、過去の出来事に対して何時まで経っても執拗にその一件を捉えては「謝罪がない」の「歴史認識がどうの」と言っては責め立てる権利を留保したと思い込んでしまうのだ。その執念深さは「フェアープレー」と「潔さ」の文化が深く根付いている我が国では容易に理解出来ないものだろうと、私は長年懸念し続けて来た。

彼等は「水に落ちた犬を撃つ」文化を持っていると知れば、その執念深さには何ら奇異な点がないと解ると、私は考えている。

安倍総理が如何なる発想の下に「70年談話構想」を開始されたかを知る由もない。有識者委員会を招集されたとも聞かされている。その委員の中には「侵略戦争だった言いなさい」という意見を持つ大学長がいるとも報じられている。

何はともあれ、「謝罪の文化」の持ち合わせがない近隣の諸国は、安倍総理が有識者まで集められ十二分に構想を練られて、付け込まれる隙がない談話を仮に発表されたとしても、既に村山談話の時点で「謝ってしまっていた」のでは、彼等は如何なる理屈をつけてでも叩きに出るだろう事は予想出来ると思っている。彼等は国内の事情からしても、そうする以外の方策がないのだと思っている。

一部の識者は「談話不要説」を唱えている。それにも一理はあると思う。だが、出てもいない時点で牽制するような総理を戴く国が既に現れている。また、アメリカ大使を自国民が襲って重症を負わせても、大統領を始めとして大新聞が挙って「心の底からの謝罪の意」を表明しない国があったではないか。これが「謝罪の文化」の持ち合わせがない近隣の諸国の思考体系であることが明白だ。

だが、遺憾なながら、この態度の方が国際的標準であるかの如きに見えはしないか。彼等には「潔く自らの非を認める」事は美徳でも美風でもないという文化があるのだ。そうとでも思わないと、あの国の新聞論調で「この案件が発生し事によって、アメリカとの関係が一層強化される切っ掛け」等という根拠が見えてこないだろう。

何卒、総理が招集された有識者委員会の諸賢が「文化の違い」を十二分に理解し認識されて適切な助言をなさって、もしも出されるのならば、総理が一分の隙もない談話を出されることを祈念して終わる。