頂門の一針の読者のご要望に応えて感想を:
多少時期的には遅れましたが、「頂門の一針」の読者の一人から下記のようなお尋ねがあったので、何とか答えてみました。やや冗長ですがご一読を。
<立派に通じ米国人に感動を与えたと思いますが、英語学の泰斗、大兄の評価をお聞かせ頂ければ幸いです。>
は大いに光栄に存じます。だが、私は「英語学」については無知で、「泰斗」は過剰評価であり、あの演説を評価するには適任者ではないと本気で考えおります。私は「英語」は「学」ではなく意思伝達の手段に過ぎないと信じており、我が国の学校教育の誤りを指摘してきた者です。
さて、演説ですが、ザット読んだだけで部分的に聞いてだけでの評価は可能でも、原稿全体の評価乃至は批判はその任にあらずと思いますが。
直感的に言えることは「日本人が書いた英語である為か、所謂”big word”と”wordy”な表現と平易な表現が混在しているな」との印象があります。スタンディング・オベイションの数は(”I am afraid I could be completely wrong.”でしょうが)彼等の社交辞令の上手さを考えると・・・・という気もしますが。しかし、私の言うことは飽くまでもビジネスの世界での言葉遣いが基調にあるとお考え下さい。
それに私は子供の頃から言わば第二言語として英語で話しておりましたし、アメリカの会社に転身してからは「アメリカの大手企業内で通用する英語とは如何なるものか」を懸命に覚えただけで、政治の世界での言葉学は存じません。
更に英文の原稿を熟読し終えていない感覚で申し上げれば「美文ですが、私には使えないか使ったこともないような文語的な言葉が多く、立派だが非常に固いという印象があります。我々の間ではというか、アメリカの会社内のプリゼンテーションであるとか、社外の講演やセミナー等でも、もう少し易しい言葉でかみ砕いた表現がされていたと思います。
しかし、書き手が非常に良く文語的英語をご存じだったことは分かりますし、感心しております。特に「避ける」と言いたくて”avert”が使われ、「歴代の総理を継承する」が”uphold”だったのには驚きました。この"uphold"は最初には聞き取れず、何回目かで解って「こういう言葉があると承知していたが、実際に使うのはこういう場が相応しいのかな」と思ったのが、偽らざる感想でした。
言ってみれば、上述のように政治や外交の場では「難しく格が高そうな”big word”を並べて"wordy"(using too many words, especially formal ones と Oxford にあります)になるようなのだと思いました。結論めいた感想を言えば「原稿の書き手は矢張り我が国の学校教育で習い覚えた英語の極めて優秀な使い手なのだろうな」となって、私とは住んでいた世界が違いのかと僻みたくなりました。これは決して皮肉でも何でもありません。私は違っていて当然だと思っていますから。
総理の英語の発音の評価をお尋ねならば(短期留学と駐在のご経験がおありのようですが)日本の学校教育で学ばれた英語としては平均を遙かに超えて正確だったと思って聞きました。だが、最初のところでは多少以上の緊張があったようで、口が思うように動かず聞き取りにくい個所がありました。だが、時間が経つにつれ強調したいところでは声を張られるようにもなり、アメリカ人にも聞き取りやすくなっていったと見ておりました。立派です。
あれだけの長さのスピーチを初めてアメリカの議会でしようと意図されたこと自体は、誠にご立派で賞賛に値すると申し上げました。だから、英語自体には触れないと言ってあったのです。スタンディングオベイションの数が多かったことは、英語自体の巧拙よりもそも内容に対する拍手と理解しております。
以前にも指摘しましたが、余程リハーサル(それもドレスリハーサルまでも)を重ねておられたと見ております。我々は社内の上層部向けのプリゼンテーションでも原稿の段階から事業部の責任者かそういう能力に優れた者が目を通しておりますし、リハーサルは単独と集団で何度もやっております。総理にそういう時間が良く取れたと感心している次第です。
なお、一寸気になったこともありました。総理が壇上から降りられたところで数人の議員がスピーチのハードコピーにサインを求めていたことです。これは感心しません。我々の常識というか習慣では、あれは終わってから配付するか「お帰りの際に出口に用意してあるハードコピーをお持ち帰り下さい」と断るのです。
それは先に配ると、聴衆は読んでいて聞いていないか、聞かないでも後で読めば良いと注意散漫になる危険性があるためです。先に配ったとしたら一寸残念です。あの拍手の数はもしかすると事前に配ったので議員たちは読み終えてあったのかと、一瞬疑いました。
また、畏メル友S氏よりの情報では、あの原稿を書いたのは谷口智彦という1957年生まれの東大法卒の方で、プリンストン大学の客員研究員や日経BPの「日経ビジネス」の編集委員等を経験された多彩な経歴をお持ちで、第二次安倍内閣の内閣官房審議官だそうです。英語の原稿もこの方の手になるとか。
散漫ですが、私は上記のように見ております。谷口氏が書かれたとして、その経歴から見てもアメリカのビジネスの世界で使われる文章とは異なる点が見えるのは仕方がないかと思うのですが。
多少時期的には遅れましたが、「頂門の一針」の読者の一人から下記のようなお尋ねがあったので、何とか答えてみました。やや冗長ですがご一読を。
<立派に通じ米国人に感動を与えたと思いますが、英語学の泰斗、大兄の評価をお聞かせ頂ければ幸いです。>
は大いに光栄に存じます。だが、私は「英語学」については無知で、「泰斗」は過剰評価であり、あの演説を評価するには適任者ではないと本気で考えおります。私は「英語」は「学」ではなく意思伝達の手段に過ぎないと信じており、我が国の学校教育の誤りを指摘してきた者です。
さて、演説ですが、ザット読んだだけで部分的に聞いてだけでの評価は可能でも、原稿全体の評価乃至は批判はその任にあらずと思いますが。
直感的に言えることは「日本人が書いた英語である為か、所謂”big word”と”wordy”な表現と平易な表現が混在しているな」との印象があります。スタンディング・オベイションの数は(”I am afraid I could be completely wrong.”でしょうが)彼等の社交辞令の上手さを考えると・・・・という気もしますが。しかし、私の言うことは飽くまでもビジネスの世界での言葉遣いが基調にあるとお考え下さい。
それに私は子供の頃から言わば第二言語として英語で話しておりましたし、アメリカの会社に転身してからは「アメリカの大手企業内で通用する英語とは如何なるものか」を懸命に覚えただけで、政治の世界での言葉学は存じません。
更に英文の原稿を熟読し終えていない感覚で申し上げれば「美文ですが、私には使えないか使ったこともないような文語的な言葉が多く、立派だが非常に固いという印象があります。我々の間ではというか、アメリカの会社内のプリゼンテーションであるとか、社外の講演やセミナー等でも、もう少し易しい言葉でかみ砕いた表現がされていたと思います。
しかし、書き手が非常に良く文語的英語をご存じだったことは分かりますし、感心しております。特に「避ける」と言いたくて”avert”が使われ、「歴代の総理を継承する」が”uphold”だったのには驚きました。この"uphold"は最初には聞き取れず、何回目かで解って「こういう言葉があると承知していたが、実際に使うのはこういう場が相応しいのかな」と思ったのが、偽らざる感想でした。
言ってみれば、上述のように政治や外交の場では「難しく格が高そうな”big word”を並べて"wordy"(using too many words, especially formal ones と Oxford にあります)になるようなのだと思いました。結論めいた感想を言えば「原稿の書き手は矢張り我が国の学校教育で習い覚えた英語の極めて優秀な使い手なのだろうな」となって、私とは住んでいた世界が違いのかと僻みたくなりました。これは決して皮肉でも何でもありません。私は違っていて当然だと思っていますから。
総理の英語の発音の評価をお尋ねならば(短期留学と駐在のご経験がおありのようですが)日本の学校教育で学ばれた英語としては平均を遙かに超えて正確だったと思って聞きました。だが、最初のところでは多少以上の緊張があったようで、口が思うように動かず聞き取りにくい個所がありました。だが、時間が経つにつれ強調したいところでは声を張られるようにもなり、アメリカ人にも聞き取りやすくなっていったと見ておりました。立派です。
あれだけの長さのスピーチを初めてアメリカの議会でしようと意図されたこと自体は、誠にご立派で賞賛に値すると申し上げました。だから、英語自体には触れないと言ってあったのです。スタンディングオベイションの数が多かったことは、英語自体の巧拙よりもそも内容に対する拍手と理解しております。
以前にも指摘しましたが、余程リハーサル(それもドレスリハーサルまでも)を重ねておられたと見ております。我々は社内の上層部向けのプリゼンテーションでも原稿の段階から事業部の責任者かそういう能力に優れた者が目を通しておりますし、リハーサルは単独と集団で何度もやっております。総理にそういう時間が良く取れたと感心している次第です。
なお、一寸気になったこともありました。総理が壇上から降りられたところで数人の議員がスピーチのハードコピーにサインを求めていたことです。これは感心しません。我々の常識というか習慣では、あれは終わってから配付するか「お帰りの際に出口に用意してあるハードコピーをお持ち帰り下さい」と断るのです。
それは先に配ると、聴衆は読んでいて聞いていないか、聞かないでも後で読めば良いと注意散漫になる危険性があるためです。先に配ったとしたら一寸残念です。あの拍手の数はもしかすると事前に配ったので議員たちは読み終えてあったのかと、一瞬疑いました。
また、畏メル友S氏よりの情報では、あの原稿を書いたのは谷口智彦という1957年生まれの東大法卒の方で、プリンストン大学の客員研究員や日経BPの「日経ビジネス」の編集委員等を経験された多彩な経歴をお持ちで、第二次安倍内閣の内閣官房審議官だそうです。英語の原稿もこの方の手になるとか。
散漫ですが、私は上記のように見ております。谷口氏が書かれたとして、その経歴から見てもアメリカのビジネスの世界で使われる文章とは異なる点が見えるのは仕方がないかと思うのですが。