新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

ジャズファンと言われて

2015-05-12 14:51:53 | コラム
小唄・浪花節・藤本二三吉(木遣り崩し):

「頂門の一針」の3654号の主宰者・渡部亮次郎氏がご自身のコラム「ラジオ歌謡の頃」で、

「投稿して下さる常連の前田正晶さんは大変なジャズファンでもあり、クラシカル音楽ファンでもあるが、日本の演歌だけは願い下げだと言う。ところが私はジャズだけは願い下げ。クラシカルと演歌の大ファンである。そのきっかけが少年の頃、毎日聴いたNHKの「ラヂオ歌謡」だった。」

と言っておられた。これに対する特段の異論もないが、私は良いと思うと言うか、好みの音楽は何でも聴いてやろうという姿勢なので、意外な裏の顔とでも言いたい好みがあるので、以下に敢えてご披露する次第。

その第一に挙げたいのが小唄かも知れない。決してお座敷で遊んだからこれが好きになったという訳ではない。何を隠そう、大学1年の頃(1951年=昭和26年)に偶然の切っ掛けから藤沢に当時は一軒しかなかった河豚割烹料理屋さんの中学1年生の男の子の英語だけの家庭教師をお引き受けしたのだった。

そこは子供には解らない粋な世界で、蓼派の垢抜けしたお師匠さんが来られて旦那と女将さんの他に何人かのお客様に小唄を教えていたのだった。かなり広い料亭だったが、その歌声が私にも聞こえてくるので何時の間にか「何とも格好良いものだな」と、その良さが解らないままに聞き惚れるようになっていったのだった。既にアメリカかぶれし始めていた私にも「矢張り日本のものは良いな」と思わせてくれたとでも言えるのだろう。

浪花節だが、2~3週間前だったか、日曜の早朝の桂文珍の番組に国本武春が出て、往年の広沢虎造だの玉川勝太郎の「天保水滸伝」などを回顧しているのを聞いて、自分が往年は彼等の浪花節が好みで矢張り「俺は日本人だったから「堪えられない」と感激しながら聞いていたのを思い出せてくれた。

余談だが、早稲田大学の応援団長をしていた広沢虎造の息子さんが当方と同学年だと知って、何となく親近感さえ覚えていたものだった。あの「江戸っ子だってね、寿司食いねー」や「利根の川風袂に入れて」などの名調子は忘れがたいものだし、もう一度聞いてみたい気がする。少なくともあの良さは数十年間に流行った魂が抜けたようなフォークソングやサザンオールスターズ等が遠く及ぶところではないと思う。

さて三番目の二三吉である。大学生の頃には彼女が歌う「木遣り崩し」に惚れ込んで、まさかレコードを買いはしなかったが、二三吉が出るラジオ番組は「木遣り崩し」を歌ってくれると期待して聞き逃さなかった。実際に、自分でも人のいないところでは小声で歌ってみたものだったし、社内の旅行の宴会で歌うことを強制された時に、ジャズではなくこれを歌って満場をアッと言わせて悦に入っていたのだった。

クラシカルは1945年(昭和20年)4月13日に小石川にあった家を空襲で焼かれて大方の、母か父の何れが蒐集したかもかも知る由もない大量のレコードを焼かれて音源を消失したので聞けなくなったが、小学校に入るまではジャズの「ジャ」の字も聞いたことはなかった。ジャズに走ったのは戦後のことで、それも当時住んでいた鵠沼で流行っていたハワイアンから入っていったものだった。

その私がラシカルを再び聴くようになったのは、2006年1月に第1回目の心筋梗塞で入院した際に、長年お世話になっていた紙業タイムス社の編集長が見舞いにと差し入れて下さった、あのAVEXが出したモーツアルトの10枚組のCDを毎日聴いて大病と闘う心の支えとしていたことにあった。本当に心が落ち着いて、何の迷いもなく19日間の厳しい病院生活を過ごせたのだった。

そして、退院後はジャズよりもクラシカルのCDを買うことも聴くことも増えたし、1999年にイタリアに行った時にはルチアーノ・パバロッティのカンツオーネを移動中のバスの中で聴いて、帰国後直ちにそのCDを探しにHMVに行ったほど感動していた。

以上、「良いものと好きな音楽を聴いていれば良い」と言えば格好がつくかも知れないが、少し節奏がないのかなと多少反省している「何でも聴く音楽好きの弁」である。

英語とは?

2015-05-12 09:19:24 | コラム
私の英語論:

昨日の私の安倍総理のアメリカ議会での演説についての感想を読まれた「頂門の一針」の読者の方が投稿され<英語に対する造詣の深い前田様>と言われていたのには一寸異論がありますので、その辺りについて申し上げてみます。私は現場での英語の経験は十分にあると思っておりますが、それは「造詣」とは別個だと思っております。これは謙遜ではありません。

私は以前から自己紹介のようにして言ってきたことで、戦後間もなくから旧制中学での英語の勉強の他に幸運にもGHQ(の中の経済科学局)の秘書だったハワイ出身の日系二世のご婦人に「英語で話こと」を厳しく教え込んで頂けたお陰で、新制高校とやらに切り替えられた頃にはごく普通にアメリカ人たちと英語で語り合えるようになっておりました。

それは、我が国の学校教育の「科学としての英語」を湘南中学(高校)で学ぶ傍ら、アメリカ人たちが日常的に使う表現を知ることが出来ていたということだったのです。その後に上智大学では千葉勉先生に厳しく”Queen’s English”の真髄を教えて頂けたために、アメリカ英語との違いのみならず「英語の品格」を知ることが出来たのが、後に大いに役に立った次第です。

振り返れば、就職後には約17年間全く英語とは無関係な日本市場での営業を担当しておりましたので、英語はこれかの人生の趣味にでもすれば良いかと思っている時に、本当の偶然の機会でアメリカの会社に転身しました。そこではビジネス、それもアメリカの大手企業における言葉遣い、言葉の品格(教養の程度を表すとでも言えば良いのでしょうか)を学ばせられました。

これが我が国のそれとは全く異なる「アメリカの企業社会における文化」を図らずも勉強させられたと同時に(我が国の大企業でも同様と理解しておりますが)社内の文書でも文法や用語に語彙の広さと正確さと、社内での日常的な会話にまで品位を求められる英語の勉強をもせねばならぬ機会となったのです。「品位」を簡単に言えば「一流会社の社員たる者、戯れにも”swearword”等を使ってはならない」となるでしょうか。

このような言うなれば「言葉学」を私流に解釈すれば「文章は平易な言葉を使って極力簡単明瞭にかけ。長い文章は避けて仮令単調になっても短い文章を積み重ねよ。但し、説明不足になってはならないのだから、多少長くなっても『ここは言わなくても解ってくれるだろう』という類いの推測は避けて細部まで説明するよう心掛けよ」となるでしょう。即ち、「以心伝心」が存在しない国の思考体系に馴れよという意味です。

私は今でこそこのようにしたり顔で理屈を言いますが、在職中は日常の業務を追うのに精一杯で、「英語とは」であるとか我が国の英語教育の問題点などを考える暇は全くありませんでした。自慢話とお考え頂いても結構ですが、1993年一杯は秘書の協力の下に内貨にして年間150億円の対日輸出を担当していたのですが、これが当時のアメリカ全体の対日輸出額の1%に達していたほど対日輸出は不振だったのです。

強調したいことは「私は英語を学問として勉強したことはなく、22年間のアメリカの会社勤務の間に如何にして仕事を捗らせるかとの目的のために覚えていた、英語を媒介にして日米間の文化の違いを探求し、それを知ることによってアメリカ人の中により深く入って行けて、彼らの一員として働いていた」という点です。

回りくどい言い方を避ければ、私は「アメリカ人、それも私が言うところのアメリカ経済を牛耳っている5%程度の階層の人たちの英語は、我が国の学校教育の英語とは違う代物である。その違いの実態を知らない者が教えている我が国の学校教育の英語を見直すべき時ではないのか」なのです。私は経験に基づいて語ってきただけであり、「学」として英語を語ってはいないということです。

しかし、私が唱える「繰り返して音読・暗記・暗誦」という勉強法を認めようとしない勢力が多いのは寒心に堪えません。この勉強法での成功例が限られているという説を聞きますが、「それでは我が国の学校教育でどれほどの成功例が出たのか」と問い返したいのです。簡単な例を挙げれば「何時まで発音が綺麗に聞こえる帰国子女を尊敬し、何処の馬の骨かも解らない”native speaker”を有り難がるのか、TOEICを追いかけさせれば気が済むのか」という問題です。

あれから早くも3ヶ月だ

2015-05-12 08:04:17 | コラム
漸く3ヶ月が過ぎた:

昨11日であの心不全の大病から退院出来て3ヶ月が過ぎていた。この間に少しは回復したので「遙か遠くに来たものだ」という気がする一方で「何だ、未だ3ヶ月か」とも思う。この間に「今年の9月でパスポートの期限が切れるが、取り直して海外に行けるまで回復するのだろうか」であるとか「シルバーパスの有効期限も8月だが、再度取得する必要があるほど回復できるのだろうか」などと思い悩んだりしていた。

特に家内に苦労をかけている減塩食は「果たしてこれを続けることが本当に効果があるのだろうか」と疑うよりも何よりも「これから仮令残り少ない人生かも知れないが、こんなものしか食べてはならないのか」と思う時には誠にやるせなく、偶には羽目を外してやろうかと多少自棄になりかけたこともあった。実は、心不全の前の12月30日の入院から考えれば、実質的にはもう4ヶ月以上も減塩食を続けていることになる。

毎週水曜日のリハビリテーションでは理学療法士に「ここまで回復するとは思っていなかった」と言って貰えたほど復調の速度は上がっていたが、入院中の2月初旬から始まっていた腸の調子の悪さは私を徒に疑心暗鬼に陥らせてくれたし、脚力の衰えは昨年12月末から2度で合計41日以上の入院の後では如何ともしがたく「こんな調子では私はもう駄目ではないのか」と、何度か諦めかけたほどだった。

しかし、理学療法士の励ましとも取れる言葉を聞いて「この先にはきっと何かがあるのだろう」と思ってリハビリに通ってきた。さらに退院後毎朝毎晩測り続けてきた血圧は安定しているし、体重もここ3週間ほどは51 kg 台で推移している。12月30日の入院前には 56 kg もあったものが、一時は49 kg 台まで落ちたのだから、減塩食を続け間食を徹底して排除した効果が出たのだろうと思っている。

脚力の回復と訓練のためと、4月からはある程度以上の時間をかけて、電車やバスまで利用して外出もしている。しかし、効果のほどには未だバラツキがあって、いくら歩いても草臥れない時もあれば、去る8日の暑さと日照りにやられてようにほうほうの体で帰ってきたこともあるのだ。PCもそうだ。どれほど時間をかけていても、何ともない日もあれば、眼精疲労とでも言いたいような状態になって直ぐに打ち切ってしまう日もある。

それは「高齢化でもある」と言われればそれまでだろうが、矢張り昭和一桁の魂からすれば「何とか努力してここを乗り切れば、必ず明るい未来が待っているのだ」と思いたいのである。事実、そう思い込んでいる。また昨年12月まで毎月続けて来た商社2社の友人たちとの懇談会も再開したいし、二つの勉強会への参加も復活させたいのだ。

明13日には循環器科の医長先生の外来での定期的診察と検査があるし、その後にはリハビリではなく体力測定が待っている。この測定は2月の退院前にも受けたが、エアロバイクを使って何処までの負荷に耐えるかを測定して回復の度合いを見るものだ。過度に緊張する癖がある当方(本当です!)は、もうソロソロ怪しくなってくる頃かも知れない。何としても無事に乗り切ろう。イヤ、乗り切ってみせる。