小唄・浪花節・藤本二三吉(木遣り崩し):
「頂門の一針」の3654号の主宰者・渡部亮次郎氏がご自身のコラム「ラジオ歌謡の頃」で、
「投稿して下さる常連の前田正晶さんは大変なジャズファンでもあり、クラシカル音楽ファンでもあるが、日本の演歌だけは願い下げだと言う。ところが私はジャズだけは願い下げ。クラシカルと演歌の大ファンである。そのきっかけが少年の頃、毎日聴いたNHKの「ラヂオ歌謡」だった。」
と言っておられた。これに対する特段の異論もないが、私は良いと思うと言うか、好みの音楽は何でも聴いてやろうという姿勢なので、意外な裏の顔とでも言いたい好みがあるので、以下に敢えてご披露する次第。
その第一に挙げたいのが小唄かも知れない。決してお座敷で遊んだからこれが好きになったという訳ではない。何を隠そう、大学1年の頃(1951年=昭和26年)に偶然の切っ掛けから藤沢に当時は一軒しかなかった河豚割烹料理屋さんの中学1年生の男の子の英語だけの家庭教師をお引き受けしたのだった。
そこは子供には解らない粋な世界で、蓼派の垢抜けしたお師匠さんが来られて旦那と女将さんの他に何人かのお客様に小唄を教えていたのだった。かなり広い料亭だったが、その歌声が私にも聞こえてくるので何時の間にか「何とも格好良いものだな」と、その良さが解らないままに聞き惚れるようになっていったのだった。既にアメリカかぶれし始めていた私にも「矢張り日本のものは良いな」と思わせてくれたとでも言えるのだろう。
浪花節だが、2~3週間前だったか、日曜の早朝の桂文珍の番組に国本武春が出て、往年の広沢虎造だの玉川勝太郎の「天保水滸伝」などを回顧しているのを聞いて、自分が往年は彼等の浪花節が好みで矢張り「俺は日本人だったから「堪えられない」と感激しながら聞いていたのを思い出せてくれた。
余談だが、早稲田大学の応援団長をしていた広沢虎造の息子さんが当方と同学年だと知って、何となく親近感さえ覚えていたものだった。あの「江戸っ子だってね、寿司食いねー」や「利根の川風袂に入れて」などの名調子は忘れがたいものだし、もう一度聞いてみたい気がする。少なくともあの良さは数十年間に流行った魂が抜けたようなフォークソングやサザンオールスターズ等が遠く及ぶところではないと思う。
さて三番目の二三吉である。大学生の頃には彼女が歌う「木遣り崩し」に惚れ込んで、まさかレコードを買いはしなかったが、二三吉が出るラジオ番組は「木遣り崩し」を歌ってくれると期待して聞き逃さなかった。実際に、自分でも人のいないところでは小声で歌ってみたものだったし、社内の旅行の宴会で歌うことを強制された時に、ジャズではなくこれを歌って満場をアッと言わせて悦に入っていたのだった。
クラシカルは1945年(昭和20年)4月13日に小石川にあった家を空襲で焼かれて大方の、母か父の何れが蒐集したかもかも知る由もない大量のレコードを焼かれて音源を消失したので聞けなくなったが、小学校に入るまではジャズの「ジャ」の字も聞いたことはなかった。ジャズに走ったのは戦後のことで、それも当時住んでいた鵠沼で流行っていたハワイアンから入っていったものだった。
その私がラシカルを再び聴くようになったのは、2006年1月に第1回目の心筋梗塞で入院した際に、長年お世話になっていた紙業タイムス社の編集長が見舞いにと差し入れて下さった、あのAVEXが出したモーツアルトの10枚組のCDを毎日聴いて大病と闘う心の支えとしていたことにあった。本当に心が落ち着いて、何の迷いもなく19日間の厳しい病院生活を過ごせたのだった。
そして、退院後はジャズよりもクラシカルのCDを買うことも聴くことも増えたし、1999年にイタリアに行った時にはルチアーノ・パバロッティのカンツオーネを移動中のバスの中で聴いて、帰国後直ちにそのCDを探しにHMVに行ったほど感動していた。
以上、「良いものと好きな音楽を聴いていれば良い」と言えば格好がつくかも知れないが、少し節奏がないのかなと多少反省している「何でも聴く音楽好きの弁」である。
「頂門の一針」の3654号の主宰者・渡部亮次郎氏がご自身のコラム「ラジオ歌謡の頃」で、
「投稿して下さる常連の前田正晶さんは大変なジャズファンでもあり、クラシカル音楽ファンでもあるが、日本の演歌だけは願い下げだと言う。ところが私はジャズだけは願い下げ。クラシカルと演歌の大ファンである。そのきっかけが少年の頃、毎日聴いたNHKの「ラヂオ歌謡」だった。」
と言っておられた。これに対する特段の異論もないが、私は良いと思うと言うか、好みの音楽は何でも聴いてやろうという姿勢なので、意外な裏の顔とでも言いたい好みがあるので、以下に敢えてご披露する次第。
その第一に挙げたいのが小唄かも知れない。決してお座敷で遊んだからこれが好きになったという訳ではない。何を隠そう、大学1年の頃(1951年=昭和26年)に偶然の切っ掛けから藤沢に当時は一軒しかなかった河豚割烹料理屋さんの中学1年生の男の子の英語だけの家庭教師をお引き受けしたのだった。
そこは子供には解らない粋な世界で、蓼派の垢抜けしたお師匠さんが来られて旦那と女将さんの他に何人かのお客様に小唄を教えていたのだった。かなり広い料亭だったが、その歌声が私にも聞こえてくるので何時の間にか「何とも格好良いものだな」と、その良さが解らないままに聞き惚れるようになっていったのだった。既にアメリカかぶれし始めていた私にも「矢張り日本のものは良いな」と思わせてくれたとでも言えるのだろう。
浪花節だが、2~3週間前だったか、日曜の早朝の桂文珍の番組に国本武春が出て、往年の広沢虎造だの玉川勝太郎の「天保水滸伝」などを回顧しているのを聞いて、自分が往年は彼等の浪花節が好みで矢張り「俺は日本人だったから「堪えられない」と感激しながら聞いていたのを思い出せてくれた。
余談だが、早稲田大学の応援団長をしていた広沢虎造の息子さんが当方と同学年だと知って、何となく親近感さえ覚えていたものだった。あの「江戸っ子だってね、寿司食いねー」や「利根の川風袂に入れて」などの名調子は忘れがたいものだし、もう一度聞いてみたい気がする。少なくともあの良さは数十年間に流行った魂が抜けたようなフォークソングやサザンオールスターズ等が遠く及ぶところではないと思う。
さて三番目の二三吉である。大学生の頃には彼女が歌う「木遣り崩し」に惚れ込んで、まさかレコードを買いはしなかったが、二三吉が出るラジオ番組は「木遣り崩し」を歌ってくれると期待して聞き逃さなかった。実際に、自分でも人のいないところでは小声で歌ってみたものだったし、社内の旅行の宴会で歌うことを強制された時に、ジャズではなくこれを歌って満場をアッと言わせて悦に入っていたのだった。
クラシカルは1945年(昭和20年)4月13日に小石川にあった家を空襲で焼かれて大方の、母か父の何れが蒐集したかもかも知る由もない大量のレコードを焼かれて音源を消失したので聞けなくなったが、小学校に入るまではジャズの「ジャ」の字も聞いたことはなかった。ジャズに走ったのは戦後のことで、それも当時住んでいた鵠沼で流行っていたハワイアンから入っていったものだった。
その私がラシカルを再び聴くようになったのは、2006年1月に第1回目の心筋梗塞で入院した際に、長年お世話になっていた紙業タイムス社の編集長が見舞いにと差し入れて下さった、あのAVEXが出したモーツアルトの10枚組のCDを毎日聴いて大病と闘う心の支えとしていたことにあった。本当に心が落ち着いて、何の迷いもなく19日間の厳しい病院生活を過ごせたのだった。
そして、退院後はジャズよりもクラシカルのCDを買うことも聴くことも増えたし、1999年にイタリアに行った時にはルチアーノ・パバロッティのカンツオーネを移動中のバスの中で聴いて、帰国後直ちにそのCDを探しにHMVに行ったほど感動していた。
以上、「良いものと好きな音楽を聴いていれば良い」と言えば格好がつくかも知れないが、少し節奏がないのかなと多少反省している「何でも聴く音楽好きの弁」である。