社会的常識の欠如した団体を蘇生させるには:
この件名をカタカナ語にすれば「ガバナンス」辺りになってしまうかも知れない。実は、近頃色々と問題にされたというか話題になった、相撲界の貴の岩騒ぎと体操協会の「パワハラとは認定できない」問題のことを言いたいのだ。
私は1950年代末期から「相撲界は江戸時代からの歴史と伝統に輝く独自の(興行の)世界であり、彼ら独特の文化(言語・風俗・習慣を指す)を持った集団であるので、我々が住む一般社会の常識から彼らを批判したり、彼らの言動のおかしさを云々しても意味がないのである」と唱えてきた。それだけに止まらず、あの興行の世界を「スポーツ扱いするのも誤りである」と主張してきた。
だが、この主張も意見も一向にマスコミに採り入れられることも、また大きく採り上げられることなく60年以上も経ってしまった。私が指摘してきたことは、「その世界に中学を出た頃に弟子入りし、大人になるまでその文化だけに接し来て成長し、大力士になった者たちの成れの果てが協会の理事等の幹部なのだから、一般人の常識とはかけ離れた感覚しか備わっていない」ということだ。その世界では、現在では「暴力」という範疇に入れられて社会的にも「悪」とされてしまった「殴ること」は教え方の手法として存在してきたようなのだ。
そういう独自の文化を持つ歴史と伝統の世界で起きた「殴打事案」を地上最悪の暴挙の如くに捉えて、貴の岩の「「殴打事件」を連日採り上げてマスコミは騒ぎ、結局は引退せざるを得ないように追い込んでしまった。即ち、彼ら独自の文化の中で起こった日常茶飯事のようなものかも知れぬ、彼らが言う「可愛がり」的な行為を刑事犯罪のように一般社会の常識から断じていたのは、私には滑稽に見えたし、相撲界から言わせればもしかすると「要らざる介入」だったかも知れないのだ。
この辺りに私が近頃推奨しているスポーツ界の上部団体の運営担当者には「その競技の世界だけしか知らない過去の名選手を当てるのではなく、何もアメリカの有名私立大学のビジネススクールでMBAを取得してきた秀才を起用するまでの必要もないだろうが、せめて元はスポーツ選手であっても大企業で組織の長としての経験を積んできた者を起用すべきではないか」をあらためて推薦したいのだ。とは言っても、この高尚なる理想論は相撲協会には通用することはないと思っている。
そこで、提案したいのは「体操協会の組織を運営する幹部にこそ上記のような人物を当てるべきだ」ということだ。あの第三者委員会が「塚原夫妻にはパワーハラスメントに該当する行為も言動もなかったと結論を出した」という文章を自信なさげに読み上げていただけの専務理事は漫画以上に滑稽だったし醜態だった。何処にも彼というか協会の意見も判断もなくなく、どれだけ体操界に通じているかも解らないような第三者という名の弁護士の出した結論を朗読しただけだった。解りやすく言えば「無能」だった。
ここでも「だから言ったじゃないか」と言ってやりたいのだ。営利事業である株式会社という組織の中で実務を担当したことも、組織の長として部下を指揮した経験もない者たちを、過去の実績だけで理事だの常務に任命するから、あのような事態を引き起こすのである。繰り返し指摘して来たことだが、サッカー協会の優れた点は運営の責任者たちは皆一部上場会社で管理職を経験してきた者ばかりで、「人と組織の使い方」を経験してきている点である。
そういう管理職経験者が必要なのは何も体操協会だけではないようだ。「辞任している私を除名するとは何事か」と喚くような会長を戴いていたボクシング連盟だって同様な欠陥団体ではないか。私は何故マスコミは何時まで経ってもそういう問題点を衝かないのかと、まだるっこいと思っている。もしかすると迂闊にそんなことを論じたら協会から「出入りか取材禁止」にでもなるかと怖れているのかと疑っている。
私はこういう説を畏友のYM氏に「アメリカのビジネススクールには何もビジネスの運営のマスターだけではなく、病院や学校を運営する責任者を教育するコースもある」と聞かされていたから唱えるのである。競技そのものの運営と上部団体の統治と運営では、知識と経験が全く異なる性質であるから、分離している辺りに如何にもアメリカ的な合理主義があると思って受け止めた。だから、失態ばかりの我が国の多くの上部団体にもお薦めしたくなっただけのこと。だが、重ねて言うが「この理想論は相撲協会にだけは通用しない」と危惧するのである。
2020オリンピックとパラリンピックも迫ったことでもあり、陸上競技連盟などはこのように考えても良い頃のような気もするし、外国にも広く普及した為に規則まで外国人向けにねじ曲げられ且つ改悪されてしまった柔道だって、外国人と外国語で渡り合える人材を幹部に登用した方が良くはないかなどと勝手に考えているのだが、暴論だろうか?
この件名をカタカナ語にすれば「ガバナンス」辺りになってしまうかも知れない。実は、近頃色々と問題にされたというか話題になった、相撲界の貴の岩騒ぎと体操協会の「パワハラとは認定できない」問題のことを言いたいのだ。
私は1950年代末期から「相撲界は江戸時代からの歴史と伝統に輝く独自の(興行の)世界であり、彼ら独特の文化(言語・風俗・習慣を指す)を持った集団であるので、我々が住む一般社会の常識から彼らを批判したり、彼らの言動のおかしさを云々しても意味がないのである」と唱えてきた。それだけに止まらず、あの興行の世界を「スポーツ扱いするのも誤りである」と主張してきた。
だが、この主張も意見も一向にマスコミに採り入れられることも、また大きく採り上げられることなく60年以上も経ってしまった。私が指摘してきたことは、「その世界に中学を出た頃に弟子入りし、大人になるまでその文化だけに接し来て成長し、大力士になった者たちの成れの果てが協会の理事等の幹部なのだから、一般人の常識とはかけ離れた感覚しか備わっていない」ということだ。その世界では、現在では「暴力」という範疇に入れられて社会的にも「悪」とされてしまった「殴ること」は教え方の手法として存在してきたようなのだ。
そういう独自の文化を持つ歴史と伝統の世界で起きた「殴打事案」を地上最悪の暴挙の如くに捉えて、貴の岩の「「殴打事件」を連日採り上げてマスコミは騒ぎ、結局は引退せざるを得ないように追い込んでしまった。即ち、彼ら独自の文化の中で起こった日常茶飯事のようなものかも知れぬ、彼らが言う「可愛がり」的な行為を刑事犯罪のように一般社会の常識から断じていたのは、私には滑稽に見えたし、相撲界から言わせればもしかすると「要らざる介入」だったかも知れないのだ。
この辺りに私が近頃推奨しているスポーツ界の上部団体の運営担当者には「その競技の世界だけしか知らない過去の名選手を当てるのではなく、何もアメリカの有名私立大学のビジネススクールでMBAを取得してきた秀才を起用するまでの必要もないだろうが、せめて元はスポーツ選手であっても大企業で組織の長としての経験を積んできた者を起用すべきではないか」をあらためて推薦したいのだ。とは言っても、この高尚なる理想論は相撲協会には通用することはないと思っている。
そこで、提案したいのは「体操協会の組織を運営する幹部にこそ上記のような人物を当てるべきだ」ということだ。あの第三者委員会が「塚原夫妻にはパワーハラスメントに該当する行為も言動もなかったと結論を出した」という文章を自信なさげに読み上げていただけの専務理事は漫画以上に滑稽だったし醜態だった。何処にも彼というか協会の意見も判断もなくなく、どれだけ体操界に通じているかも解らないような第三者という名の弁護士の出した結論を朗読しただけだった。解りやすく言えば「無能」だった。
ここでも「だから言ったじゃないか」と言ってやりたいのだ。営利事業である株式会社という組織の中で実務を担当したことも、組織の長として部下を指揮した経験もない者たちを、過去の実績だけで理事だの常務に任命するから、あのような事態を引き起こすのである。繰り返し指摘して来たことだが、サッカー協会の優れた点は運営の責任者たちは皆一部上場会社で管理職を経験してきた者ばかりで、「人と組織の使い方」を経験してきている点である。
そういう管理職経験者が必要なのは何も体操協会だけではないようだ。「辞任している私を除名するとは何事か」と喚くような会長を戴いていたボクシング連盟だって同様な欠陥団体ではないか。私は何故マスコミは何時まで経ってもそういう問題点を衝かないのかと、まだるっこいと思っている。もしかすると迂闊にそんなことを論じたら協会から「出入りか取材禁止」にでもなるかと怖れているのかと疑っている。
私はこういう説を畏友のYM氏に「アメリカのビジネススクールには何もビジネスの運営のマスターだけではなく、病院や学校を運営する責任者を教育するコースもある」と聞かされていたから唱えるのである。競技そのものの運営と上部団体の統治と運営では、知識と経験が全く異なる性質であるから、分離している辺りに如何にもアメリカ的な合理主義があると思って受け止めた。だから、失態ばかりの我が国の多くの上部団体にもお薦めしたくなっただけのこと。だが、重ねて言うが「この理想論は相撲協会にだけは通用しない」と危惧するのである。
2020オリンピックとパラリンピックも迫ったことでもあり、陸上競技連盟などはこのように考えても良い頃のような気もするし、外国にも広く普及した為に規則まで外国人向けにねじ曲げられ且つ改悪されてしまった柔道だって、外国人と外国語で渡り合える人材を幹部に登用した方が良くはないかなどと勝手に考えているのだが、暴論だろうか?