新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

12月1日 その2 飲酒の文化の考察

2018-12-01 09:55:36 | コラム
我が国には独自の文化であると思うのだが:

このところ、大手航空機会社のパイロットたちの業務前の飲酒が問題となっている。飲めない私には好きだから飲むのか、彼らが弁明するようにプレシャーがあってのことかなどは解らない。だが、趣味趣向を節制しなければならない職業とは大変だなと思って見ている。私のように体質に合わず飲めなければ問題も起こさずに済んだだろうとも考えた。だが、彼らの職業を考えれば同情はしない。

恐らく、多くの方に私は「体質的に飲酒が出来ず、また好きでもない」と思われているだろうが、ここで私の酒に対する歴史を振り返ってみよう。その前に、現時点では我が家にはアルコール飲料の在庫はないと確認しておこう。家では自発的に自費でも何でも飲むことはない。

私は大学卒業までには「飲まされた事」がアルバイト先で強制されて1度あっただけで、その際直ぐに酔い潰れて銀座から藤沢の家にまで帰れなくなった。就職後も「飲めません」で通したが、それは「あんな美味くも何ともないものを何で皆が好むか」と嫌いだったことに加えて、大学在学中に母親に「煙草と酒の分の小遣いは支給しない」と厳しく言われていたからだった。

しかし、会社で営業担当を命じられると「酒が飲めなくては仕事にならない」(=接待をする側であるという意味)と言われて、少しずつ仲間内の付き合いもあって飲んでみたが、到底楽しめるものではなかった。そこに、細かく言えば学校年齢は1期下だが大学院中退の秀才が2年遅れで入ってきて直ぐに親しくなった。彼は東京育ちでありながら失礼だったらお詫びするが、言わば九州人的な酒豪というか何と言うべきか、「飲むこと」以外に趣味も知恵もないようで、有無を言わせずに付き合わされた。

そこで、母親に(父は昭和12年に当時としては非常に珍しかった交通事故で死亡)「営業担当である以上酒飲みの心理と実態を知る為に2年間彼と付き合って飲みまくる生活をする。2年経っても辞めなければ馬鹿な息子を失ったと看做して下さい」との了解を取って飲み且つ遊びまくった。強くもなった。飲む人たちのことも理解できた。だが、幾ら多く飲めても会社から評価されて昇給することは絶対にないと解って、2年で打ち切った。勿論、この2年間には何度か酔い潰されて自分が何処にいるのかも解らない酩酊状態も経験した。

W社在職中はアメリカ人たちは「帰りに一杯皆で」ということが出来ない車社会である事と、「飲めない」、「好きではない」という私に飲酒を勧めることがなかったので、安心して仕事が出来た。第一にアメリカには日本のような飲み屋はないし、一応「飲酒運転」は法律違反となっている。だが、彼らは体内にある消化酵素?が我々よりも強力だとかで、先ず日本人のような酔い方はしない。であるから、部内でも誰が強いかなどは知らなかった。故に、飲めないことは障害にならなかったのは幸せだった。

そして、W社リタイア後の1990年代半ばにはビールをコップ半分でも失神するほど弱っていたので、もう既に20数年間は「乾杯!」という時に形式的にビールでも何でも入った容器を持ち上げるだけだ。

私は我が国とアメリカの「酒を飲む」ということに関する文化が違いすぎると思っている。我が国では「彼は強い」と言う時には一種の尊敬の念の如き点が組み込まれていると思う。だが、アメリカ人にはそういう視点でものを見る文化はないと思う。飲酒は多くの場合に次に来る食事の味を高めるか、食前に楽しく会話をする時の気分を高揚させる潤滑油のような存在だと思って見てきた。何処まで行っても「強さを競い合う」性質ではないと思って観察してきた。それに、ほとんどの場合に宴が終われば、自分で運転して帰るという作業が待っているのだ。

UKで禁固刑を言われたり、乗務を降ろされたパイロットたちは、ある意味で日本の飲酒文化の象徴のような気がするのだが、如何だろう。私はUKの警察や判事は我が国と彼らの飲酒文化の違いをご存じではなかったのだろうと疑っている。だが、航空会社にとっては一罰百戒の警鐘となった意味はあるのではないだろうか。私は例によってあのLALの副操縦士の件は「文化の違い」があったと言って結論にしたい。


テレビ局は誰を対象にして番組を作っているのか

2018-12-01 08:52:29 | コラム
マスコミが対象にしている先は:

メルマガ「頂門の一針」の主宰者・渡部亮次郎氏は12月1日の第4880号の「身辺雑記」で次のように指摘されていたので紹介しよう。

NHKで記者として20年近く在籍した者としての意見を言えばテレビのレ ヴェルは国民のレヴェル、それ以上でも以下でもない。勘違いしてはいけ ない。なぜならテレビは視聴者たる国民に迎合する以外に生きる道は無い からである。>

であったが、これは将に仰せの通りだと思う。渡部亮次郎氏は以前に頻繁にマスコミ批判をする私に「無駄なこと。彼らは自分たちの為に存在しているだけだから」と忠告されたことがあった。これも尤も至極だと感じた。今回の渡部氏のテレビ批判は「マスコミのカタカナ語の乱造と濫用を批判した私に向けられているのか」とすら受け止めた次第だ。

因みに、敢えて社名は伏せるが、ある大手広告・宣伝会社の社員が、それぞれ別の機会に某大学教授と大手クライエントの管理職に「あなた方を対象にしてテレビCMを作っているのではない」と言ったそうである。彼らがその程度の考え方で動いていることくらいは、何もわざわざ言われなくても解ることだ。