新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

カタカナ語の発生期を回顧すれば

2018-12-22 16:58:10 | コラム
ドラスティックにやらねば:

昭和30年に私が新卒で採って頂いた紙パルプメーカーの販売部門の子会社では、戦前の三井物産から転じてきた取締役営業部長(東京商大って昔は呼ばれていました大学出身)は既に話の中にカタカナにした英語の単語が出ていました。しかし、どのような言葉を使っていたかまでの記憶はありませんが。

私は戦後間もなくは、我々の間に「アメリカに対する憧憬」と「英会話が上手い」ということに憧れがあって、英語がペラペラに出来ることが極めて格好が良かったようです。その一歩か二歩手前の人たちが格好を付けて、話の中にカタカナ語を入れる傾向がありました。昭和30年代前半で既に「ドラスティックにやらねば」などというカタカナ語を使っていた管理職もいました。

ということは「話の中にカタカナ語を挟めるということは、十分に英語を知っているぞ」と顕示していることになったかと思います。私は余り気にしていませんでしたがが、そういう流れが昭和30年代前半に既に出始めていたと記憶します。その頃の私は「何故、英語の単語を入れて話すのかな?」くらいにしか感じていませんで、現在のような排斥論者にまでなっていませんでした。でも「格好が良いつもりなのかも知れないが嫌みだな」とは思っていました。

話が変わりますが、そういう「格好の良さ」に惹かれる者たちが、反安倍というか反自民が格好良いのだと思って、立憲民主党如きが良いと錯覚しているのかなとも思う時があります。そう言えば戦後には「ファッション左翼」や「格好付けの共産党気取り」なんでいうのがありました。



テレビ局も新聞社も良く聞け

2018-12-22 09:49:52 | コラム
おかしななカタカナ語の使用を止めよ:

これは、これまでに何度主張したか記憶もないほど唱え続けてきたことで、何度繰り返しても広く徹底させたい事柄だ。それは「本来の英語にはないような意味のカタカナ語を創り上げて、朝から晩までテレビで流し、新聞紙上で使うのを止めろ」との主張だ。止めるべきだという最大の理由の一つが「小学校3年から英語を教えるなどと愚かなことを言っていながら、誤ったカタカナ語を垂れ流して、児童や生徒や学生を混乱させることが英語の教育上では誠に好ましくないから」である。

即ち、私が強調したい点は「間違いであるか、英語には本来そういう使い方がないようなカタカナ語が、児童や生徒や学生たちに英語の単語乃至は表現として実在するなどと思い込ませない為でもある」ということのだ。言い方をかれば「カタカナ語は如何にも本当の英語にそういう使い方があるのか」と錯覚を起こすほど巧妙に出来ている言葉もあるのが怖いのだ。

近頃テレビで余りにも頻繁に使われるので憂慮しているのが「トラブル」である。彼らは「事故」でも「故障」でも「揉め事」でも何でも、一寸困った事態が生じるとマスコミは躊躇わずに全て「トラブル」と表現してしまうのだ。テレビでも新聞でもシナリオかニュース原稿の担当者が、数分でも費やして英和や英々辞書を見れば「トラブル」(=trouble)に「事故」だの「故障」だのという使い方はないと即刻解るはずだ。私には彼らは視聴者は何も知らないのだと舐めているとしか思えない。

念の為にジーニアス英和はどのように出ているかと言えば「①心配、苦労、悩み、~の持つ心配事、苦労(悩み)のタネ」が最初に出ている。これが常識的な trouble の意味だ。Oxfordには「1.~with a problem, worry, difficulty, etc. or situation causing this」とある。何と「2.Illness or pain」となっている。何処にも故障も事故もない。「3. Something that is wrong with a machine, vehicle, etc.」が出てくる。これらを全部「トラブル」で括って良い訳がない。

ここから先は既に「日本語の表音文字かを憂う」として採り上げた例と重複するかも知れないが、おかしいか誤った使い方であるカタカナ語を挙げていく。サッカーの中継などで無知な解説者が言う「滑りやすいピッチ(その昔はグラウンドと呼んだ」を「スリッピー」(slippyとでも綴るか)と形容するのは間違いであり、本当の英語では slippery なのである。だが、この捏造された言葉は放送用語としては登録済みのようなので遺憾だ。私は最初にこれを使ったのは松木安太郎だと思っている。

次も解説者とアナウンサーが使う言葉に「キャプテンシー」(captaincy)というのがある。これは歴とした誤りで「末尾に“cy”と付けると主将としての地位か役目」の意味になってしまうのである。彼らが言いたいのは captainship (=主将としての資格;統率の才)なのだ。良く考えなくと解ることで、 leadership という言葉があるではないか。語尾に“y”乃至は“cy” を付けるのではなく、shipを付ければ良いのだ。これなどは英語をチャンと教えられていれば犯すことがない誤りだ。とすれば、「教育の問題」ではないのか。因みに、大統領としての地位は“presidency”だと覚えておくのも良いだろう。

次は私がテレビに登場する学者や教授や有識者や専門家が恥じることなく使う「フリップ」を挙げておこう。有識者もテレビ局員も「表」か「チャート」の意味で「フリップ」と言うのは奇怪であり、情けなくもあるほど英語を知らないのだと思わせてくれる。それは “flip“という言葉を如何なる辞書で調べても「表」乃至は「チャート」の意味が出てこなから指摘するのだ。

思うに、英語で flip chart という大きなレポート用紙のような模造紙(製紙業界では「上質紙と言うが」を束ねたもののことを、(インフルエンザを「インフル」としたように)頭の「フリップ」だけを捉えて、「表」のつもりで言っているのだろう。このフレーズの頭取りの手法は広く使われているのだ。「辞書くらい引けよ」と言ってやりたい。先生方はおかしいとも恥ずかしいとも思っておられない点が怖いのだ。

次は文法的には誤りではないが、何故カタカナ語を使う必然性があるかという例を挙げよう。先ずは「オープン」だ。この言葉を彼らが導入したところで「開店」か「開業」か「始業」という漢字の熟語が消滅してしまった。私は「オープン」というカタカナ語を使う必然性を未だに見いだせていない。「何、開店よりもこの方が格好が良いし、近代的だと」言いたいのか。そんなのは錯覚の近代性で格好も良くはないと言っておく。中には「オープンさせた」というのもある。「させた」って何だろう。

「スタッフ」(=staff)も「職員」、「部員」、「社員」、「従業員」等の漢字を使った言葉を死語にしてしまった。私には「スタッフ」を好んで使う意味というか意義が解らないのが辛い。中には「ホールスタッフ募集」などというのも見かける。一瞬 “whole staff ”(従業員全体)かと思ったが hall staff という意味らしい。スタッフとした方が応募者が多く来るのだろうか。それとも「従業員募集」で求職者に受けないという理屈でもあるのだろうか。

こういう例を挙げていけば明日の朝までやっていられると思うが、この辺りで止める。でも後から後から良く飽きもせずにカタカナ語化していくものだと感心している。つい先日も所謂「食レポ」というのに「ボリューミー」というのが出てきて感心した。「沢山の量がある」と言いたいようだったが、volume の語尾に y を付けてみても、そういう意味にはならないし、そんな単語はない。voluminous という派生語はあるが「服などがゆったりした」か「書物などで巻数の多い」という意味である。でも、yを付ければ形容詞になると知っているのは偉いと褒めておくか。

兎に角、テレビ局や新聞社の担当者たちが学校で一所懸命に数多くの単語を覚えるように勉強したので、単語を数多く知っていると誇示したい気持ちは解らないでもない。)だが、おかしなカタカナ語を広めることは我が国の英語教育と青少年の英語の勉強の為にはならないと、もう好い加減に目が覚めても良い頃ではないのかな。まともに英語を勉強してきたのならば、あのような言葉の誤用であるカタカナ語を使いたくなるはずがないと思っているが、如何か。

小学校・中学校・高等学校等で英語を教えておられる先生方は、奇妙か誤ったカタカナ語の氾濫をどうお考えか、一度でも良いからご意見が伺いたいものだ。「もしかして重宝に使っていますが、あれは間違っていたのでしたか」だと言われそうな気もするのも怖い。最後に言って置くが「カタカナ語をお使いになるのを阻止する気はない。ご自由にされたら良い」というのも私の年来の主張である。