新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月26日 その2 甲子園野球の雑感

2021-08-26 09:20:47 | コラム
冷静な評論家が見る甲子園の野球:

日本高野連は必ずしも私が好ましいと評価している組織ではないのだが、今年の大会開催についてのご苦労のほどなどは十分に理解しているし、「さぞかし大変だっただろう」と同情すらしている。そこで、紆余曲折どころではなかった今年の大会を通じて、私の高校野球観を述べていこうと思う。

*主催者の物心両面の負担:
朝日新聞社に同情するほどお人好しではないつもりだが、さぞや苦労が多かっただろうとは見ている。詳しい事は知らないが、参加する高校とその野球部に対しては朝日新聞社が選手18人と監督さんの旅費や宿泊費を負担する取り決めがあると聞いた気がする。これが正しければ、あれほど雨天順延が続けば日程の遣り繰りにも苦労しただろうし、経費の負担分の急増したのではないかと思うのだが、誤りだろうか。それだけではなく、時節柄ウイルス感染の予防策は非常に大変だっただろうとしか思えないのだ。そこを乗り越えて善くぞ開催されたと評価すべきだろう。

*素材論:
偏見かも知れないが、私は今でも一級かそれ以上の素材は野球部に集中していると見ている。簡単に言えば「サッカー界に大谷翔平級の者が出たか」なのだ。この度Jリーグに戻ってきた大迫勇也程度を「半端ない」などと言っているように、サッカー界には大谷翔平が出ていないではないか。本日の準々決勝戦に残っている学校には体格だけ見ても大迫なんていうもんじゃない者が数多く揃っていると見た。野球に向かってしまう子供たちの数は減っても、質は落ちていないように思えるのだ。

私は永年言い続けてきた事には「松井秀喜やイチロー級の素材が、例えばテニス界にでも進出したら、アッという間に世界制覇でも何でもしてしまうのではないか」がある。サッカー界には人材発掘の力を向上させるべきだと言ってやりたい。

*技術論:

矢張り、長年の主張である「トーナメント勝ち抜きのため」の育て方をしている監督さんが圧倒的に多いようだ。特に投手を見れば、高校生でありながら既に小宇宙を形成している者が多く、プロの投手かそれ以上に多彩な球種を操り、私が投球術の基本というか王道だと思っている速球(fast ballであって「ストレート」ではない)を、これでもかとばかりに投げ込んでくる投手は極めて少なかった。解説者もいい気になって「スライダーのコントロールが素晴らしい」などとお追従を言うが、それでは本末転倒ではないか。

永年言い続けてきた事だが、だから甲子園に出てこなかった無名の高卒の投手がプロで名を為してしまうのだ。トーナメント勝ち抜きのための小細工だけを仕込まれるから、速球を投げる事を教えられていないのだ。西武の高橋光と今井は優勝投手だが、何年経てば一人前になるのか。ソフトバンクのエース千賀滉大は無名の育成上がりだという事を忘れてはなるまい。概観すると、高校生は平均して130 km台の速さで、NPBで140 km台だが、MLBに行けば猫も杓子も150 km台を軽々と投げるという違いがある。

何回も指摘して来た事で、「甲子園に出て勝つための技巧(小細工でも良いか)を教えるのか、大学やプロかまたはMLBに行っても使えるような素材を育てるのか」を、指導者たちは良く考えるべきだと思う。何時まで経っても「1回の表、ノーアウトで走者一塁」の場面でバントをさせる「自己犠牲」の精神や、物理的に滑り込んだ方が遅いと立証されている一塁への頭から滑り込む精神主義から脱却しても良い時期ではないのか。因みに、あの滑り込みは「ヘッドファースト・スライディング」というのが正式だ。

*精神論:
私のような高齢者には「戦時中の風俗」を想起させられる「坊主刈り」を、何故続けさせるのかが理解できない。それくらい各自の自由裁量に任せても良いとしか思えない。我が湘南高校がたった一度昭和24年に初めて出場して優勝してしまったときには、半数以上の部員が長髪で話題になった記憶がある。だが、叱られたとは部員たちから聞いていない。「負ける試合の最後の打者が一塁に頭から滑り込むのか闘志の見せ方だ」と言いたいような非合理性は私の好みではない。

*名前:
こればかりは、ついつい興味を持って見てしまっている。後難を恐れずに言えば「酷い」の一言だ。先日も「希」という字を「キ」と読ませる名前が多いといったが、目の前に「遙希」と書く「ハルキ」が出てきた。これを見て「ファイターズの西川は遙輝だった」と思い出した。2文字目を「太」、「斗」、「平」としているのが多いが、その前に「翔」を付けた名前も多いのだ。昨日見ていた試合では「翔」を使った者が両方から3人も出てきた。

思うにと言うか勝手に想像すれば、こう言う奇を衒ったとしか思えない命名の裏には、人気のアニメーションか漫画の主人公でもいるのかななどと考えている。我々の時代とは違ってそういうものが遍く読まれるか好まれる時代なので、そういう所に出てくるヒーローにでもあやかろうという現代の親御さんたちが多いのだろうと、正直なところ慨嘆している。極端な事を言えば、名前はどうでも良いから、しっかりとした基礎を固めて大学やプロで通用するような選手になって、それだけで生計が成り立つような大人になってくれれば十分だと思うのだ。


日本大学危機管理学部教授先崎彰容氏が指摘した

2021-08-26 08:07:13 | コラム
菅義偉首相の原稿棒読み:

自民党総裁選挙が迫り、菅義偉内閣の支持率低下に伴って、方々からその主たる原因の一つとして、あの「原稿棒読み」に批判が集中している。だが、菅氏は幾ら批判されても、一向に自分の口で語ろうとはされない意地を張っておられるように見える。強情な方のようである。

もう1年近く前のことだったと思うが、Prime Newsに出演された若手の学者とされている先崎教授が流された菅首相の棒読みの後で、珍しくも原稿無しで語られた音声が流れてきた。それを聞いた先崎教授は「このように原稿無しであれば菅義偉首相の個性がそのまま表れるし、相手に聞かせるだけの十分な迫力が出ているのが惜しい」と指摘された。聴いていた私も「なるほど、尤もだ」と感じたほど、大袈裟に言えば別人の感があった「菅義偉」という人の個性が溢れんばかりに出ていた。先崎教授と同様に「惜しい」と痛感した。

その頃には現在ほど「原稿の棒読み」が云々されていなかったので、何時かは自分から即興ででも語られるようになるのかなと期待していた。だが、残念ながらと言うべきかどうかは知らないが、菅義偉首相の語りの姿勢は変化しなかった。しかも、官房長官の頃と同様に口数が少ないというのか、言葉の数が少なく具体的に物事を表現されない恨みが残っている。それが、どんな事をどれほど着実に実行されても、一向に一般大衆に印象づけない原因のように思えるのだ。

その菅総理・総裁の対抗馬となるだろう岸田文雄氏もまた、何が言いたいのかがハッキリしない語り口なのだ。しかも、菅義偉氏とは個性が違うのだが、尋常ではない慎重居士で率直に自分の意志を表明しない人物のようだ。そのお二方が次期総理・総裁の座を争うとなったら、如何なる論戦の形になるのだろうか。