新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

東京2020オリンピックは成功だった

2021-08-10 11:37:12 | コラム
恙無く閉会式を迎えていたではないか:

成功とは:

ここに私が言う「成功」とは広辞苑にあるような「目的を達成すること。事業などをなしとげること」だと捉えているのだ。広辞苑が2番目に掲げている「転じて、地位や富を得ること」や3番目の「事業を成就した功績」の意味で論じているのではない。

今回のオリンピックは何処の国が発生させたのか知らないCOVID-19の為に1年延期され、その1年の間に色々と大小取り混ぜた問題が発生していたし、開催反対を真っ向から唱えた政党や新聞社もあるという具合で、開催そのものを危ぶむも声も高かった。またIOCに対する不信論とそのバッハ会長に対しても批判的な意見も多かったのも事実だっただろう。だが、本来は「自分には中止などの権限はない」と明言された菅首相に一任された格好で「安全・安心の大会」は予定通り開催されたのだった。

冒頭に広辞苑の解釈を掲げたように、私は「成功とは」を「華々しい成果を挙げて満天下を感心させることではない」と解釈しているので、諸々の批判やマスコミが挙げ続けた雑音にもめげずに組織委員会も菅政権の後押しに支えられて、8日の閉会式に漕ぎ着けたのは広辞苑にあるように「立派にオリンピックを成し遂げたのである」と考えている。それは、私が批判的なマスコミのように、その気になって大・中・小のプレーブック違反等々を論っていればキリがないだろうが、何ら中断するここもなく終了できたのは「成功だ」と見ている。

国内の反対勢力が何を言おうと、私は菅内閣も兎角の評判があった組織委員会も、海外のメデイアが粗探しをしようと「余計な雑音である。この変異株までが猛威を振るい始めた悪条件下で、恙無く閉会式まで漕ぎ着けられる國が他にあるか。余計なお世話だ」と開き直って良いのではないかと見ている。要するに「イエスかノーか」で割り切って評価すれば「良く出来ました」と考えているということ。

代表選手たちを賞賛する:
そうとは言ってみたが、技術的というかスポーツという点から振り返ってみれば、私は我が国の各種目の代表選手たちは、メダルとやらを獲ったとか獲れなかったとかいう問題を離れて考えれば、実に良くやってくれたと躊躇せずに賞賛しておきたいのだ。同時に、私は「このオリンピックほど我が民族とアメリカやヨーロッパ勢(解りりやすい表現にすれば白人だが)に加えるにアフリカ系の人たちとの間に存在する『体格』と『身体能力の差』に圧倒された試合が多かった事はなかった」と痛感させられていた。

その典型的な例として挙げたいのが輝く「銀メダル」(私の好む表現ではないのだが)を獲得した女子のバスケットボールがある。彼女ら代表選手たちは実に立派なプレー振りで、並み居る世界の体格と身体能力に優れたバスケットボール先進国を撃破して、世界最高峰のアメリカとの決勝戦にまで進出した。誰だったか失念したが「彼女らがアメリカとの決勝を戦うと予想した人がいたか」と指摘したのは同感で、かく申す私はそういう事態が来るとは考えてもいなかった。

結果としては「アメリカの技術水準は彼女らよりも遙かに高いことを、イヤと言うほど見せつけてくれた試合にはなった。更に、恐らくアメリカ側は徹底的にスカウティングの技術を駆使して我が方を分析してあったのだろう。だが事はそれだけに止まらず、得意の3Pシュート体勢に入ろうとする場合や、『ここぞ』という好機にシュート体勢に入るときとか、絶妙なパスを通そうとするときに、悉く身長差と腕の長さを活かして阻止するか、厳しいマークで封じ込めたのだった。私はスポーツの専門家と観戦していたが「あの身長と身体能力の差は如何ともし難い」と慨嘆していた。

これらの差を補うために求められていたのが「我が民族独特の敏捷さと器用さ」なので、あの女子のバスケットボール代表の町田(#13)は類い希なる敏捷さと運動能力を遺憾なく活かして、アメリカの大柄な選手たちに対抗していた。だが、自分自身が小柄だったためにその悲哀は十分に味わってきたので、体格に優る者たちを相手にして敏捷さだけでは対抗しきれないと、哀しいほど学習してきた。結論に飛躍すれば「如何にして我が民族の体格を向上させるか」だと思うのだ。即ち、八村塁君を見よとなるのではないのか。

敢えて再度申し上げて置けば「我が国の全ての代表選手たちは、その精進努力の結果を十分に示していたし、体格と身体能力の差を積み上げた練習量を遺憾なく補っていた」となると思う。マスコミのようにただ単にメダルが何個というような本当に意義があるのかと疑わせるような賞賛をするのではなく、我が国の代表選手たちの努力と健闘振りを詳細に分析して称えるべきではないのか。私は「メダルを取れなかった選手が謝っていた」というような事態を今後二度と生じさせるべきではないと思っている。