新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月11日 その2 甲子園の野球では何が起きるか解らないと言うが

2021-08-11 16:32:01 | コラム
横浜高校は流石に強かった:

本日は私にとっては縁が深い神奈川県の代表の横浜高校が登場するというので、時間を取って期待して見ていた。相手は広島の広島新庄高校という高校球界では強い部類に入る学校で、NPBには巨人がヤクルトに売り払った田口麗斗や日本ハムの堀瑞輝等の良い投手を送り込んでいる。広島新庄が先発に起用した5という背番号を付けた投手は、軽々と140 km台の速球を投げて横浜高校を抑えて見せた辺りで来た「閃き」では、「横浜高校に分がなし」だったので、敢えて観戦を中断して予定していた買い物に出てしまった。

そして、12時半頃に帰宅してみると、9回の表で横浜高校は0対1とリードされている状況で、1年生投手を起用してきたところだった。そこで新庄が1点を取って2対0としたところで、本格的に諦めて、我慢していた手洗いに立ってしまった。そして戻って見ると、何と横浜高校の選手たちがベンチ前に整列して校歌を歌っている場面に出くわしたのだった。感覚では、横浜高校が9回裏に3点を取ってひっくり返すこともあろうかと思ってはいたが「まさか、そんなことはあるまい」と、自分から否定して離席したのだった。

そこで聞こえたアナウンサーの台詞は「流石に横浜高校で、1年生があの場面でサヨナラホームランを打つとは」と賞賛していた。実は、5回までだったかの見ていた場面では、横浜高校が3塁手を兼務する投手の速球に抑え込まれていたので、勝ち目は薄いと判断していたのだった。その誤った見方のために劇的なサヨナラホームランを見る機会を失ったとは何たる「ドタカン」と我が身の至らざるを嘆く結果になっていた。

私は「甲子園には魔物が住む」などという言い慣わしは採らないのだ。それは単なる言い訳乃至は感情論だと見ているから。即ち、故野村克也氏が指摘していたように「勝ちに不思議あり、負けに不思議なし」を信じているので、勝った方が本当に強いのだと思っている。そこで「なるほど。横浜高校には実力が備わっていて強かったのだ」とあらためて認識した次第だった。


オリンピックは終わっていたのだった

2021-08-11 08:19:29 | コラム
NHKにチャンネルを変えてみれば:

昨10日の朝は、何時も時計代わりにチャンネルを合わせてあるテレ朝の羽鳥のショーを見ていると、又ぞろ「ほれ見ろ。コロナウイルスの変異株はこれほど怖いのだ」と、最早常連のコメンテーターとなった某大学の教授を立てて、恐怖感を煽り立てていた。確かに、一般大衆に感染の恐怖というか生命の危険に陥りかねないデルタ株の恐ろしさを伝える必要はあるのだろう。だが、恐怖感を煽り立てるだけで、内閣が指摘するように自粛している先に何があるのかという道筋を一向に示すことがない報道姿勢は、百害あって三理くらいしかないのではないのか。

これまでの西村康稔大臣や田村憲久厚労省が懸命に(賢明に?)説いて聞かせてくれている内容には感染の「恐ろしさ」と「危険性」の説明こそあるが、耐えて忍んだ先に何があるのか、何らかの光明かご利益があるのかには、まるで触れられていないのだ。言うなれば「お先真っ暗の話」ばかりだった。菅首相にしたところで「ワクチンの接種率を上げれば」という点だけを強調されていた。これが確かに有効であるとは私にでも解るが、その先に何が待っているかをお示しにならないのでは、カタカナ語に言う「インセンティブ」にはなりきれていないのだと思う。

人様を勝手にミーハー扱いにする感覚:
という具合で、羽鳥のショーの内容には食傷気味だったので、何となくオリンピックの我が代表選手たちの健気な大活躍の状況でも見せてくれるかとNHKにチャンネルを変えれば、何とそこに出てきたのは甲子園の野球だった。どうやら入場式だったようで、何とか言う芸人があの高校野球の歌を歌っているのを見て、彼らの感覚は何時まで経ってもミーハーを相手にしているとウンザリで、テレビを切ってしまった。私にはオリンピックの開会式で(古い言葉である流行歌手の)MISHAだったかに国歌を歌わせた感覚に幻滅を感じていたのと同様に、情けない思いだった。

この時点で漸く「そうだ。オリンピックは8日で目出度く終了していたのだった」気が付いたのだった。私はオリンピックにおける我が代表選手たちが懸命に国旗を付けたユニフォームを着用して善戦健闘している様子を見るのを十分に楽しんでいた。マスコミその他が「メダル、メダル」と言って騒ぎのを苦々しい思いで見ていた。彼らは恐らくその重責に極限まで緊張して、ときには持っていたはずだった力を出せなかった場合もあっただろう。そうではあっても、一所懸命にやった選手たちを、メダル云々だけではなく「良くやった」と褒めて挙げるべきだと思っている。

代表選手たちを賞賛しよう:
団体競技の出身者である私は、去りにしオリンピックにおける女子と男子のバスケットボール、ソフトボール、男女のサッカー、野球等々の代表テイームの一所懸命の試合振りを緊張感と体格の劣勢さをものともせずにプレーする様を、楽しさをも味わいながら観戦していた。これらの種目の中で「金メダル」とやらはソフトボールと野球しかなかったが、彼ら代表選手たちは持てる力を限界まで発揮してくれだだけで十分だと言いたいのだ。例え負けてしまっても、それが明日から3年先のパリ大会における勝利の対策の基になるのだ。

私はこのような視点でオリンピックを鑑賞していたので、それなりに楽しませて貰えたと、代表選手たちに感謝している。私が強調したい点は「メダルとやらを獲った選手だけを持て囃すのを止めよ」なのだ。また、この広い世界では思いがけないところから、100 m走のイタリアのヤコブスだったかのように国際的に無名な選手が出てきてメダルとやらをかっ攫っていくのも、オリンピックならではの出来事で、あらためて「世界は広い」と痛感させて貰えたのだった。