新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月17日 その4 今日もまた雨降りか

2021-08-17 15:31:34 | コラム
源実朝の和歌を思い出していた:

それは、検索までして確かめた「時により過ぐれば民の嘆きなり八大竜王雨やめたまえ」である。私はこういう方面の知識は貧弱なのだが、何となくこれは覚えていたのだった。それほど長い間、ウンザリさせられるほど降り続いているのだ。やっと2日間だけ開催できた甲子園の野球も、本日は辛うじて第1試合を8回までだったか強行した後で降雨のために、大阪桐蔭高校の勝利で打ち切りになっていた。「ゲーム」とコールされた東海大菅生高は、さぞや無念だっただろう。恐らく「雨止め給え」の心境だったのではないかな。

この降り続く雨は予想と言うか予報されていたことで、もしかして8日のオリンピック閉会式に当たってしまうのではないかとも懸念されていた。だが、幸運にもそれは避けられたようだったが、私が知る限りでは閉会式の中継放映は尻切れトンボのようだった。と言うのは、私はそもそも開始の前から寝てしまっていたし、開会式などは報じられていた不手際や、電通の横暴というのか勝手な振る舞いとやらに嫌気がさして、翌日になって如何なる様子だったかをニュースで細切れに見ただけだった。

実は、あの過去における苛めの暴露や、ナチス対ユダヤ人の件を揶揄したとかで切り捨てられた演出家の話を聞かされだけで、関心が薄れていた。私は開会式なるものは華美というか華々しい演出をして国力なり何なりを世界に誇示する必要があるのだろうかと考えていた。今回のようにあれほど多くの関係者の不手際で恥を曝していたのだったら、いっそのこと甲子園の野球のように参加各国の選手団の先頭に美しく着飾った若い女性に国名のプラカードを掲げて貰い、威風堂々たる行進曲に合わせて行進して貰う程度の演出にすればどうかいうようにすら考えていた。

こう言うのには経験上の根拠があるのだ。それは、昭和23年に福岡市で開催された第3回国体に、神奈川県代表として参加したときのことである。私は当時は高校1年生で、湘南高校は確か8地区だったかに分かれていた関東代表で、前評判が高い優勝候補だった。そして、私は神奈川県代表の一員として、開会式の入場行進に並んでいたのだった。子供心では「開会式なんて何ほどのことがあるのか」と舐めてかかっていた。

ところがである、いざ始まってみると、その荘厳な雰囲気と国民体育大会であるということの凄さに圧倒されて、極度の緊張感で体も足も震えて思うように動かなかったのだった。解りやすくいえば「上がり切っていた」のだった。全く思いがけなかった事態で「大変なところに来てしまった」と痛感していたと同時に「素晴らしい経験だ」とひたすら感動していたのだった。

そこで、言いたい事は一都二府一道四十三県の選手団が行進すれば、それだけでも感動させて貰えるのだから、何も一部がイスラエルまでに知られてしまい、ケチがついた者たちの演出などは忘れて、入場行進だけで済ませてみれば「世界的な新機軸ではないか」などと考えていたのだった。あの時の緊張感と威厳ある行進を思い出すときに、スマートフォンなどを持ち込んで写真を取り合ったり、私が毛嫌いする相互にチョキを出し合って楽しんでいる風景などは、単に「時代が変わったのだ」などという感想ではとても追い付かないものを見せられた感があった。

あのような光景を見せられるに付けても、現代の選手たち(現在では、これは死語と化したようで「アスリート」と言わねばならないようだ)が大きな試合に臨むときに「楽しんできます」であるとか、試合終了後に「十分に楽しみました」と言うのが、少しは解るような気もするようになった。私は全国制覇を目指していた高校にいたためにか、大学までを通じてどれほどの数の試合に出たか記憶はないが「試合を楽しんだこと」などは皆無だった。リクリエーションとして楽しむ境地に到達したのは、40歳を超えてから参加した四十雀のクラブの試合でだけだった。

ここまでで何が言い高かったのかの焦点がボケてしまったようだ。だが、振り返ってみると、近頃は何故か知らないが超後期高齢者となったせいか、「回顧談」と言うか、古い話のようなものが多くなってしまった気がする。


8月17日 その3 「Nelly Kordaさんの名字のカタカナ表記は」の訂正版です

2021-08-17 14:22:04 | コラム
Kordaさんは「コルダさん」か「コーダさん」か:

私はオリンピックも終わった1週間ほど前に、女子のゴルフで優勝したNelly Kordaという女性の名字を「コルダ」と表記し、発音するのは適切ではないという主張をしてきた。それについて、畏メル友のRS氏から色々と彼女の父祖の出身国であるチェコにおける発音等を調査され、言わば反論的な意見を頂戴したのだった。そこで、私がやや慌てて右往左往して空疎な意見を述べていたために、私の「コーダであるべきで、コルダはおかしい」との主張が空回りしていた。

数日を経過して私が漸く我を取り戻して考えついたことは「そもそも、私が言いたかった事はKordaという文字の中のrの後に、ありもしなかった母音のuを付けたのが怪しからん」だったのだった。そして、その悪い類似の例としてワクチンの製薬会社Modernaを「モデルナ」もおかしいのだという例を挙げていたのだった。

そこにRS氏の広く調査された理詰めの指摘にあって自分の主張を見失って、訳が解らない反論めいたことを言って、要らざる混乱を生じさせていたと気が付いたのだった。換言すれば、「我が国の英語教育の至らざるを責めたかった」だけだったものが、自縄自縛に陥っていただけのことだった。

今になって事態を単純に考えれば、誰にも解って頂けそうな例として電気の「コード」は英語では“cord”なのだが、これは昔から普通に「コード」と表現されていたのであり、誰も「コルド」とは言わなかったである。私の反省すべき点はは「カタカナ語製造業者は一方ではcordを「コード」としておきながら、Kordaを「コルダ」としたのは首尾一貫していない点」を指摘しておくべきだ事である。何も大上段に構えて、我が国の英語教育の至らなさまで非難するほどのことではなかったようだ。


8月17日 その2 Nelly Kordaさんの名字のカタカナ表記は

2021-08-17 10:03:55 | コラム
Kordaさんは「コルダさん」か「コーダさん」か:

私はオリンピックも終わった1週間ほど前に、女子のゴルフで優勝したNelly Kordaという女性の名字を「コルダ」と表記し、発音するのは適切ではないという主張をしてきた。それについて、畏メル友のRS氏から色々と彼女の父祖の出身国であるチェコにおける発音等を調査され、言わば反論的な意見を頂戴したのだった。そこで、私がやや慌てて右往左往して空疎な意見を述べていたために、私の「コーダであるべきで、コルダはおかしい」との主張が空回りしていた。

数日を経過して私が漸く我を取り戻して考えついたことは「そもそも、私が言いたかった事はKordaという文字の中のrの後に、ありもしなかった母音のuを付けたのが怪しからん」だったのだった。そして、その悪い類似の例としてワクチンの製薬会社Modernaを「モデルナ」もおかしいのだという例を挙げていたのだった。

そこにRS氏の広く調査された理詰めの指摘にあって自分の主張を見失って、訳が解らない反論めいたことを言って、要らざる混乱を生じさせていたと気が付いたのだった。換言すれば、「我が国の英語教育の至らざるを責めたかった」だけだったものが、自縄自縛に陥っていただけのことだった。

今になって事態を単純に考えれば、誰にも解って頂けそうな例として電気の「コード」は英語では“cord”なのだが、これは昔から普通に「コード」と表現されていたのであり、誰も「コルド」とは言わなかったではないかと言えば、簡単に済むことのような気がするのだ。何れにせよ、我が国では「英語の言葉に中にある“r”の読み方や表記」は混乱を生じやすいようだということ。


甲子園球児たちの名前に思う

2021-08-17 09:27:26 | コラム
80%以上が解読も推察も不可能だった:

ここ2日ほど長期化した豪雨の晴れ間というか、止み間に開催されている甲子園の野球をほぼ全試合、気が向いたときに見ている。と言うよりも、今や画面に登場する者たちの名前をも興味深く観察している。私にとっては、試合の経過や素材としての高校生の能力を観察するのも興味の対象であるが、今やその多種多様な解読も何も許さない名前にも関心が出てきたのだ。振り返れば、10数年前までは「キラキラネーム」は女性のみのことだと思っていたが、現実は男子の名前もキラキラ以上に複雑怪奇になってきていると知ったのだ。

使われている漢字の例というか種類は既に採り上げたが、如何なる根拠と理想か思想の下に我が息子にあのような命名をしたのかは、包み隠さずに言って完全に理解も何も不可能なのだ。中には「何かの音の流れに憧れたのか」であるとか「こういう漢字を使えば優れた人材に成長するようにと希望しているのか」という程度の察しはつくが、名前と言うには余りにも我々の年齢層には理解不能か奇っ怪な漢字が当て字として並んでいるのだ。

一々メモを取っている訳ではないので、これだというものをお示しできないのが残念だが、関心がおありの方は「もし、本日試合が滞りなく開催できていれば、チャンネルをお合わせ願いたい」とだけ申し上げるに止める。たった一つ覚えている例に「大空」君があった。これを見た瞬間に思い浮かんだことは「大空真弓」という女優さんがいたなということ。恐らく親御さんたちは「あの広い大空のような心を持った大人に成長せよ」とでも願ったのかと、お察し申し上げることにした。

気になっていることもある。それは「ケント」や「ルイ」(漢字は八村塁君の「塁」の字)という、そのままアメリカ等で広く使われているニックネームの音を採った名前が多いこと。これは勝手に想像すると「将来、海外に進出した場合に通用しやすいように配慮したのか」と見ている。実は、この「塁君」は対戦している両方のテイームにいたが、高校生の年齢では未だ親御さんたちがNBAで大活躍の八村塁君にあやかろうとした訳ではあるまい。

そこで、目をオリンピックでアメリカを退けて「金メダル」とやらを見事獲得した「侍ジャパン」に転じてみよう。トップバッターから山田哲人、坂本勇人、吉田正尚、鈴木誠也までは良かったが、私の基準では浅村栄斗と柳田悠岐は失格とせざるを得ない。次は菊池涼介、村上宗隆、甲斐拓也(梅野隆太郎)投手では初戦に先発した山本由伸等は先ず問題なく読めているではないか。思うに彼らの年齢層では、男子の名前はキラキラ化乃至は超キラキラ化していなかったようだった。

私は先頃述べたように、最早このような命名の方針を否定するとか非難する気を失って、時代の変化の象徴かと看做すようにしている。そして、最後に言っておきたいことは、何年か前のことで慶應義塾高が全国大会に出場したのだったが、そこに出てくる選手たちの名前は全て昭和一桁の生まれの私には何の困難もなく読めていたのだった。何となく、「そういう事か」と思わせられたのだったのだが。何が言いたいのかはお察しを。なお、私は「下の名前」というような間抜けな表現は否定する。