新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

昭和20年8月15日の回顧ーあれから76年も経っていた:

2021-08-16 08:45:28 | コラム
昭和20年8月15日の回顧―あれから76年経っていた:

今年はさしたる理由もなく、1日遅れの回顧になってしまった。今でも覚えていることは、正午からの玉音放送を聞き終えて放心状態というか、ほぼ思考停止の状態で「矢張り、こういうことになったのか」と「やっとこれで戦争が終わって、解き放されるのだ」と感じていたのだった。「矢張り」としたのは、あの何日か前に「日本は戦争に負けるので、そのことを天皇陛下が御自ら語られる」と、何処からともなく聞こえていたのだった。それを聞いても「嘘だろう」とは思えない状況だったように記憶していた。

当日は抜けるような晴天だったし、その玉音放送を聞き終えた後で見上げた空の青さは、未だに目の中に残っている。その空をボンヤリと眺めていると、また何時ものようにアメリカ軍の艦載機が飛んできたのだろう「バリバリ」という機銃掃射の音が聞こえてきたのだった。「そんなはずはないだろう。全面降伏したのだし、戦争は終わったのじゃなかったか」と、その無慈悲な音を虚脱状態で聞いていた。

あの当時の雰囲気では「戦争に負ける」などと言えば「非国民だ」と指摘されて、大変なことになっても不思議ではなかった。だが、事実そういう声が聞こえてきていたのだった。今にして思えば「負けるはずがなかった聖戦に負けたのかという喪失感と、もう苦しまなくても良くなったのだろうという開放感がない交ぜになっていたのだろう」という状態だった。記憶では、家にいる誰とも、隣の叔父一家とも暫くの間は語り合っていなかった。

昭和20年には私は中学1年生だったのだが、農村動員で藤沢市内の農家に派遣されるとか、鵠沼から辻堂の海岸にかけての松林というか防風林に入って、戦闘機の燃料になると聞かされた松根油を取る為に、松の木の根を切り出す作業もしていた。だが、13歳の子供たちでも「こんな物から本当に戦闘機の燃料になる油が取れるのか」と疑問に感じながら作業をしていた。

当時はごく普通にアメリカ軍の艦載機が襲ってきて、無差別に機銃掃射を仕掛けてきた。私は学校から徒歩で帰宅中に襲われて、偶々近くにあった松林の中に逃げて難を免れたことがあったが、その時には急降下してきた機内の兵士の顔が見えた気さえするほど低空飛行だった。同級生の1人は膝に弾が当たって大怪我をさせられた。彼等は情け容赦なく機銃掃射して来たのだった。私は高射砲で撃たれたと聞いたB29が、真っ赤になって相模湾に落ちるのを夜間に見に行った記憶すらあった。

以上が76年前の8月15日に関する記憶だ。私は評論家、有識者に加えてマスメディアがあの戦争中のことを採り上げてしたり顔で語るのには、余り好感を持っていない。彼らの年齢層で、あの当時というか「戦時中」を経験しているとは思えないのだ。小学校3年の12月に戦闘状態に入り、中学1年の8月に終わるまで、子供心にもこれでもかというほど「戦争」を経験してきたのだ。彼らにあの頃の「本土決戦」を語られるような事態と、我ら「少国民」の心中の何が解るのかと問いかけたい思いだ。

私は戦時中の我々の心理状態は、とても正常とは思えないところに追い込まれていたと思っている。私は上記以外にも未だ未だ色々と「戦時中」を記憶しているが、それらを思い出したり、詳細に語ろうという気になどにはてもならない。私は戦争反対論者でも何でもないが、あの頃の記憶は絶対に開けられない金庫の中にでも厳重に閉じ込めておきたいだけだ。