今週は私的に密かに回顧させられることが多かった:
*1985年8月12日:
この日は午後から横浜市都筑区にあり、JRの最寄り駅が鴨居という大日本印刷・横浜工場を訪問していた。そして、用事が終わってからその頃に住んでいた藤沢市の家に直帰をしていた。今にして思えば、36年前のことだった。帰宅してテレビのニュースを見れば、日航機が事故を起こしてフラフラと彷徨う様子と、迫り来る墜落の危険性が報じられていた。記憶にあるのは、何となく室内も暗かった日で、如何にも哀しい事故が起きるのだと思わせられていたことか。
その後どのように墜落してどのような事故になったかを、ずっと何とも言えない恐怖感で見ていた。私がアメリカ出張の際に乗っているのはノースウエスト(現在のデルタ)だったので、日本航空とは縁が無かったとは言え、ボーイングの飛行機が墜落事故を起こすとは他人事とは思えなかったので、緊張感を強いられていた。あの事故には色々とあった中で未だに覚えているのが、川上さんと言ったか少女が救助されている様子だった。しかし、墜落と解っていた乗客の方々の覚悟を決められた対応振りの報道には、言葉を失う思いだった。
飛行機が落ちたらどういう事になるかと十分に学習させて貰えていた数時間だった。飛行機とはこのような危険性を孕んでいるのだと知ったのだが、その後も躊躇することなく、年間に6回も7回もアメリカに向かって飛んでいく生活というか仕事を、93年末まで続けていたのだった。
この事故の2ヶ月後にアメリカ出張があって、本社のあるワシントン州タコマ(その後フェデラル・ウエイとの表示に変わったが)とアトランタで開催されるコンベンションに参加する予定だった。しかし、アメリか時間の10月4日に出張してこられた最大の取引先のM常務とM課長の工場見学のご案内を終え、シアトル空港から宿泊予定のシアトル市の南にあるホテルの30 m程前で左折中に、直進してきた女性のMustangの車に横から衝突されて、(奇跡的に?)に私だけが肋骨2本骨折と頸椎損傷の重症を負ったのだった。
この事故は当たってきた方に問題があったと思うが、M常務が我々の制止を振り切って前の座席に座られたので、その結果で後部座席に座ることになった私だけが被害者になったのだった。社内で出ていた冗談に「君が常務に代わって被害を受けたことが・・・」というのがあった。それは本来ならば、常務は後ろの席に座って頂くはずだったのだから。
1971年8月15日:
この日のことなどまるで覚えていなかった。だが、この50年前の8月15日がその後の私の人生に非常に大きな影響を与えた一日だったのだと、昨日の新聞記事で「ニクソンショック」を取り上げていたので「なるほど。あの日のことだったのか」と、個人的に感慨に耽っていた。今更ながら「あれは50年前のことだったのか」との回顧である。
私は新卒で採用して頂いたその会社で16年間、特に英語が解ることなど一度も言い出したことなどなかった。と言うよりも、アメリカの会社に職を求めて英語を使って仕事をすることの大きな負担を避けていたのだったから。それが、本当に偶然の積み重ねと、向こうからやって来た運命で、70年の8月に生まれて初めて海外出張で東南アジアの諸国を回って、私が初代の責任者となる海外の事務所を開設する場所の選択をしてきていたのだった。
その事務所開設のときを待って、私は準備のために国内市場担当の仕事から外れていたのだった。そこに、8月15日のニクソンショックが発生して為替レートが一気に¥360から朧気な記憶では¥308となって、経営陣が海外事務所開設計画をご諦めたのだった。そして私は社内における居場所を失ったのだった。そこに、私の海外出張の切っ掛けを作った形になった日系カナダ人で業界の有名人だったN氏が「君は日本の会社の組織には向いていない」と言って、パルプのマネージャーを探していたM社を紹介したのだった。
そこで、M社のオウナーとのインタビューがあったりして、71年中に急速に事が進み「あれよ、あれよ」という間に辞表提出となってしまったのだった。運命というものの凄さというか、何と表現すべきか知らないが、「移りたい」とも「移るか」とも「移る機会が来る」とも思ってもいなかった、アメリカの会社への転出が決まってしまったのだった。君には意志がないのかと問われそうだが、流れの中で「これが私に与えられた運命なのだから、思い切って転出しよう」と決意をしていた。
自分としては、向こうから自分に向かってきた「運」というか「運命」の流れに逆らわずに受け止めて当たっていった結果が、一生お世話になると思っていた会社を辞めて、大学卒業の際に避けていたアメリカの会社に転進することになったのだった。そして今日の私があるのだが、偶然が生み出した運命の流れに如何に感謝すべきだったかは、棺を蓋いて事定まるのかと思っている。
*1985年8月12日:
この日は午後から横浜市都筑区にあり、JRの最寄り駅が鴨居という大日本印刷・横浜工場を訪問していた。そして、用事が終わってからその頃に住んでいた藤沢市の家に直帰をしていた。今にして思えば、36年前のことだった。帰宅してテレビのニュースを見れば、日航機が事故を起こしてフラフラと彷徨う様子と、迫り来る墜落の危険性が報じられていた。記憶にあるのは、何となく室内も暗かった日で、如何にも哀しい事故が起きるのだと思わせられていたことか。
その後どのように墜落してどのような事故になったかを、ずっと何とも言えない恐怖感で見ていた。私がアメリカ出張の際に乗っているのはノースウエスト(現在のデルタ)だったので、日本航空とは縁が無かったとは言え、ボーイングの飛行機が墜落事故を起こすとは他人事とは思えなかったので、緊張感を強いられていた。あの事故には色々とあった中で未だに覚えているのが、川上さんと言ったか少女が救助されている様子だった。しかし、墜落と解っていた乗客の方々の覚悟を決められた対応振りの報道には、言葉を失う思いだった。
飛行機が落ちたらどういう事になるかと十分に学習させて貰えていた数時間だった。飛行機とはこのような危険性を孕んでいるのだと知ったのだが、その後も躊躇することなく、年間に6回も7回もアメリカに向かって飛んでいく生活というか仕事を、93年末まで続けていたのだった。
この事故の2ヶ月後にアメリカ出張があって、本社のあるワシントン州タコマ(その後フェデラル・ウエイとの表示に変わったが)とアトランタで開催されるコンベンションに参加する予定だった。しかし、アメリか時間の10月4日に出張してこられた最大の取引先のM常務とM課長の工場見学のご案内を終え、シアトル空港から宿泊予定のシアトル市の南にあるホテルの30 m程前で左折中に、直進してきた女性のMustangの車に横から衝突されて、(奇跡的に?)に私だけが肋骨2本骨折と頸椎損傷の重症を負ったのだった。
この事故は当たってきた方に問題があったと思うが、M常務が我々の制止を振り切って前の座席に座られたので、その結果で後部座席に座ることになった私だけが被害者になったのだった。社内で出ていた冗談に「君が常務に代わって被害を受けたことが・・・」というのがあった。それは本来ならば、常務は後ろの席に座って頂くはずだったのだから。
1971年8月15日:
この日のことなどまるで覚えていなかった。だが、この50年前の8月15日がその後の私の人生に非常に大きな影響を与えた一日だったのだと、昨日の新聞記事で「ニクソンショック」を取り上げていたので「なるほど。あの日のことだったのか」と、個人的に感慨に耽っていた。今更ながら「あれは50年前のことだったのか」との回顧である。
私は新卒で採用して頂いたその会社で16年間、特に英語が解ることなど一度も言い出したことなどなかった。と言うよりも、アメリカの会社に職を求めて英語を使って仕事をすることの大きな負担を避けていたのだったから。それが、本当に偶然の積み重ねと、向こうからやって来た運命で、70年の8月に生まれて初めて海外出張で東南アジアの諸国を回って、私が初代の責任者となる海外の事務所を開設する場所の選択をしてきていたのだった。
その事務所開設のときを待って、私は準備のために国内市場担当の仕事から外れていたのだった。そこに、8月15日のニクソンショックが発生して為替レートが一気に¥360から朧気な記憶では¥308となって、経営陣が海外事務所開設計画をご諦めたのだった。そして私は社内における居場所を失ったのだった。そこに、私の海外出張の切っ掛けを作った形になった日系カナダ人で業界の有名人だったN氏が「君は日本の会社の組織には向いていない」と言って、パルプのマネージャーを探していたM社を紹介したのだった。
そこで、M社のオウナーとのインタビューがあったりして、71年中に急速に事が進み「あれよ、あれよ」という間に辞表提出となってしまったのだった。運命というものの凄さというか、何と表現すべきか知らないが、「移りたい」とも「移るか」とも「移る機会が来る」とも思ってもいなかった、アメリカの会社への転出が決まってしまったのだった。君には意志がないのかと問われそうだが、流れの中で「これが私に与えられた運命なのだから、思い切って転出しよう」と決意をしていた。
自分としては、向こうから自分に向かってきた「運」というか「運命」の流れに逆らわずに受け止めて当たっていった結果が、一生お世話になると思っていた会社を辞めて、大学卒業の際に避けていたアメリカの会社に転進することになったのだった。そして今日の私があるのだが、偶然が生み出した運命の流れに如何に感謝すべきだったかは、棺を蓋いて事定まるのかと思っている。