新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

9月25日 その2 謝罪の文化がない国と付き合いには

2024-09-25 08:51:53 | コラム
中国政府は公式に謝罪しないだろう:
 
中国の王毅外相がNYのUNの会議に出席している上川外相に会談を申し入れて、この度の深圳での10歳の児童が殺害された件で話し合いが行われたと報道された。王毅外相は飽くまでも偶発的で意図的ではない事案なので、政治問題化しないようにしよう」と提案したという。自発的に会談を申し入れたことが、中国としての最大限の譲歩だったと解釈した。即ち、不遜である事は変わっていない。
 
宮本元中国大使は「容疑者の身柄を確保しただけで取り調べが出来ていないと言いながら、何故意図的ではないと言えるのか」と疑問を呈しておられた。私は事件が複雑化し長期化する前に、最大限(最小限?)の事実だけでは認めておこうという姿勢かと読んだ。
 
私は1972年からアメリカの会社に転身して「謝罪の文化がない国」があるのだという貴重な経験をした。その実態はと言えば「彼等はその問題がどれほど自社の過失によるものだと認識していても、潔く自らの非を認めて“We are sorry for what has happened.”と言って謝ることはしないのである。彼等の考え方では「謝れば全責任を負います」と意思表示したのと同じだから、できる限り抵抗する思考体系なのだ。
 
だが、我が国では何か問題が起これば、謝罪して自己の非を認めることから話し合いが始まるのだ。だが、アメリカ側の絶対に非を認めない姿勢は傲慢で不遜であると非難され、先方様に不愉快な思いをさせてしまうので、一向に補償の話が進まなくなってしまうのだ。
 
そこで、上司やトラブルシューターである技術サービス担当に「日本では水に落ちた犬は撃たないのだから謝っておけば、事は解決する」と繰り返し説得した。その結果で「謝罪する」という異文化に少し慣れてきて、“We regret that quality problem has happened.”くらいは言い出せるようになってきた。しかも、そう言っただけでは全責任を負わされることがないと分かり、話し合いが円滑に進むようになったのだった。
 
異文化の内容であるが、アメリカ人の辞書には「全責任を負って如何なる補償にも応じます」を意味する“I’m sorry.”という言い方はない事なのである。故に、“I (またはwe)regret ~.”と言えば、最大限の謝罪の意思表示であり譲歩なのだ。アメリカ側の交渉役で通訳もしていた私でなければ分からないことだろうと思う異文化の内容なのだ。
 
中国人もこういうヨーロッパ/アメリカの文化(姿勢)と同様に謝罪するという習慣も思考体系も存在しないようなのだ。不思議に感じる文化の一致だ。アメリカと中国の間の似ている点を探せば、精々語順が同じで「主語+動詞+目的語」となる辺りしか思い当たらない。故にというか何と言うべきか、今回の事件でも先ず謝罪をしてこないだろうと確信していた。
 
それは、もしも謝れば「あの子供さんの一家に最大限の補償をすることになる」くらいには考えているからではないのか。だが、自国内でのSNS等への書き込みや、抗日教育を続けていることがあからさまになったので、王毅外相が上川外相との会談を提唱して、火消しに取りかかり「政治問題化しないように」と上から目線の態度に出た辺りに、中国の中国足るところが露骨に現れている。あれでも形を変えた謝意の表れと読んだのは僻目か。

「鋼のメンタル」ではあるまい

2024-09-25 07:05:22 | コラム
「鉄面皮」の誤りではないのか:

言うまでもあるかも知れないが、不信任案が可決された斎藤元彦兵庫県知事のことである。昨日、斎藤知事が可決されて以降初めての登庁でインタビューに答えている場面が放映された。私はこの件は現在進行中の自由民主党総裁選やアメリカの大統領選挙や、敢えて言うが大谷翔平が55-55以上何処まで記録を伸ばすか等の案件と比較すれば、minor league issueだと認識している。

だが、あの知事が答えておられたのを聞いていると「この方は何か根本的に錯覚しておられるのでは」と痛感した。知事は「考えが固まってきたので今週中に記者会見で発表する」と言うのだった。彼は「自分が自分を支えているはずの県議会に不信任されたことの意味を理解しておらず、恰も召使いが反乱を起こしたのは不当であり、過ちを正してやろう」とでも認識しているとしか思えないのだ。

そのインタビュー前にも、日テレだったかでアナウンサー(キャスター)と1対1の話し合いを求めたときにも「辞職して県議会を解散すれば、二度も選挙をすることになって30数億円の費用が」と問いかけられると「自分は県政を改革し合理化したので(それくらいの経費は惜しまない)」とでも言いたげだったにも恐れ入っていた。

これらの言動を総合して聞いていると「自分は改革を推進してきた立派な実績があるので、ここでは失職などは選ばず、再選挙に打って出て再選されて(県民に再選させて)改革を推進すべきであると決意した」と言っているようにしか受け止められなかった。間違っていればご免なさいだが「紛う方なき確信犯であり、何者も彼の進路を遮ることは許さないという固い決意の表明だった」と理解した。

本気で再選挙をする意向なのであれば、最早残された(彼を排除する)手段は兵庫県民の判断を待つしかないのではないか。自由民主党総裁選でも、所属する国会議員と党員たちの良識ある判断を待つしかないのと同様に。

「鋼のメンタル」とは「斉藤知事が鋼鉄のように強い精神力の持ち主」と言いたいのだろうが、私には「鉄面皮」のようにしか見えないのだ。「鉄面皮」とは広辞苑には「鉄のような皮、恥を恥とも感じないこと、厚かましいこと、図々しいこと。またその人」とある。この方が適切な形容の仕方だと思うが。

終わりに、カタカナ語排斥論者から一言。「メンタル」(綴りはmental)は「精神力」という名詞の形で使われてしまっているが、この単語は形容詞であり、Oxford English Dictionaryには「必ず名詞の前に置く」と出ている。それを名詞の前に置くとなっているmainと同じように名詞化して、カタカナ語にしてあるのだ。英語の単語をどうカタカナ語化しようと勝手だが、間違った使い方をするのは看過できない