アメリカで学んだ技法:
今月上旬に某新聞社の論説委員の講演を聴く機会があった。その内容は兎も角、聞かせようとしておられるのか、配られた“resume”=レジメ(Oxfordにある、アメリカ語の発音は「レザメイ」だが)即ち概要を読ませようとしておられるのかが、判然としなかった気がした。率直に言えば、この辺りから「我が国におけるpresentationの技法の普及未だし」と思わせられる点が見えてくるのだ。
偉そうに言うが、私などはアメリカの会社に転身してから3年も経った後で、漸く何かを大勢の前で発表する為の技法というか方式が確立されていることを学んだのだった。
上智大学の4年間に私は「白人の世界の文化では『何事もキッチリと割り切って箇条書き的に纏めて発表できるようにしまう技法』という考え方が普遍的なのだ」と学んであった。だが、アメリカの会社ではpresentationのやり方にも原理と原則を設けて、聴かせやすく理解して貰えるように設計されていた事に驚いたと同時に、感心させられたのだった。
今回はそのアメリカ式のpresentationの技法をあらためて振り返って解説してみようと思う。「その方式はウエアーハウザーだけの手法ではないのか」という声が聞こえてきそうだ。だが、「アメリカの大手企業は中途入社の集団で構成されている事」をお忘れなきよう。誰しもが以前に在籍した会社で同じ技法に慣れ親しんできているので、齟齬は来さないのだ。因みに、Power pointでも原則は同じだろう。
原則その1。
スクリーン1枚(1頁)に大見出しと共に、それに関連して語りたい事として書き出すか映し出す項目は3点までに限定する。多すぎると、聴衆が読む方に気を取られてしまうのだ。即ち、各頁では項目ごとに大きな余白が出来ている。語り手はその項目以外のことに触れないで語ることが重要。
例えば、1頁には
私が推薦戦する英語の勉強法:
*教科書を音読・暗記・暗唱を意味が解るようになるまで何十回でも続ける。
余白
*知らない/解らない単語に出会ったら、その都度辞書を引いて理解し、意味の書き込みはしない。
余白
*意味が取れるようになったら、教科書を伏せて暗唱を試みる。出来なければ再度音読を続ける。
余白
という具合である。
原則その2。
各頁には細かい表や図表(グラフ)を掲載しない。掲載すると聴き手はそれを読むことに集中するので、聴いていないことが非常に多くなるのだから。私は掲示したら直ちに引っ込めて、その内容を説明していたが、それで充分に意は通じた。どうしても掲示しておきたい場合には、事前にその頁をプリントアウトして配布しておくしかない。
原則その3。
“narrative”。項目毎に発表する内容は事前に充分に練り上げておくこと。プリントアウトしておいてその場で読み上げても良いのだが、それだと不自然になって聴き手の注意を惹かない恐れがある。記憶しておいて即興のように語る方法もある。Narrativeとは発表の内容を纏めたものと解釈しているので、事前に全量を打ち出しておき、終了後に「参考までに」と配布するのが常道。
原則その4。
発表の内容の全文は必ず書き上げて、事前にリハーサルのつもりで何度でも練習しておくことが肝心。その場で初めて全文を読むような事をしないように練り上げておくことに、全神経を集中しておかねばならない。更なる注意点は「聴衆の前で読む」のではなく「如何にして聞いて貰うか」を心がけること。見渡せば慣れていなくても、聴いていない人は直ぐ発見できるもの。
ある練達熟練の強者は、落語の枕のように「当日の主題とは関係がない挿話から入って、一体何処に話を持っていくのだろうか」と集中させる話法を使っておられた。参考になるかもしれない技術。
余談。
Presentationと言う英単語を使ってきた訳はと言えば、presentationは発表するという意味の“present”の動詞形。発音をカタカナ書きすれば「プレズント」が近く、名詞形になったpresentationはアメリカ式では「プリーズンテイション」とカタカナ書きしたくなる発音であり、UK式ではOxfordには「プレズンテイシュン」のようになっていたので、presentationとしていた次第。
要するにローマ字読みした「プレゼンテーション」はおかしいことになるのだと言っているのだ。