新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

カタカナ語零れ話

2014-07-26 08:35:17 | コラム
サンドイッチ談義:

コンビーフ・サンド   corned (corn)beef sandwich、
解説)我が国で「コンビーフ」と言えば(国分か野崎の?)梯形の缶詰を思い出す方が多いだろう。corn ないしは corned beef とは「塩漬けの脂肪分を排除した缶詰の牛肉」のことである。少なくとも私はそう思い込んでいた。

しかし、アメリカに頻繁に出張するようになり、一寸困ったことは土・日には自分で三食を高価なホテル外の何処かで自分で選んで食べねばならないことだった。そこで同僚に「美味である」と教えられたのがこのサンドイッチで、店も指定された。早速土曜日に出向いてみた。そして注文した。先ずは「パンは何を選ぶか」を訊かれるのは承知だった。シアトルでのことだ。

出てきたサンドイッチは想像を超えた大きなものだった。その昔にドン・マローニという人が上梓した「外人はつらいよ」(原題=It’s not all raw fish)というベストセラーがあった。これには「日本のサンドイッチはパン90対ハム10の比率であるが、アメリカではその反対」との指摘があった。アメリカのサンドイッチには馴れていた私にも、そこに出てきたのはコンビーフが100でパンは10にも満たない巨大なもので「これを食べきれるか」と不安になった。そして「外人はつらいよ」ノアの一節を思い出した次第だ。

しかも、コンビーフは文字通りの塩漬けの肉の塊で、国内で馴れていた缶詰のものとは大違い。薄い肉が何十枚?も重なっていて、辛うじて両手で持てる面積と重量だった。しかし、アメリカの食べ物には珍しく美味かった。だが、日本人の私にはこの半分で十分だった。これでは晩飯は抜いても問題ないと確信させられた量だった。何れにせよ、それからは方々で何度も食べた。私が知る限りではアメリカには缶詰のコンビーフは見当たらなかったのは何故だろう。

ルーベン・サンドイッチ   Reuben sandwich、
解説)実は、これはカタカナ語でも何でもない。アメリカで食べて上手いなと思わせられたもう一つのサンドイッチの話しだ。これも同僚に「コンビーフだけではなく、これもtryせよ」と聞かされたものだった。これで「ルーベン」と読むのだそうだ。実は、上智大学出身なるが故に?キリスト教に暗い私は、これが「JacobとLeahの長男」とは知らなかった。

だから、「リューベン」か「ルーベン」かも知らずに、「リューベン」では中国語の「日本のことか」などと一瞬思い込んでしまった始末だった。これはパストラミ、ザワークラウトにチーズが入ったサンドイッチだった。余り記憶は鮮明ではないが、東海岸では一般的なもので、シアトルでは食べた記憶もない。しかし、これもアメリカらしくない美味いものだった。

要するに、アメリカで美味いものとは材料(原料?)の味をそのまま活かした食べ物が良いであって、生半可に手を加えない方が無難だと言えると思う。だが、そうかと言って「アメリカの食べ物は不味い」という俗説には与さない。いや、それは嘘だと断言する。レストランの選択さえ誤らなければ、我が国との対比でも劣らないものが寧ろ我が国より安価で食べられると言える。不味いというのは、パック旅行などの経験者が言われているのかとすら疑っている。

余談になるが、ビーフ・ステーキ(=beef steak、ステイク)だって、これという食堂を選べば多少噛み応え(chewy)であっても、我が国の肉とは違う美味さが十分に味わえると確信している。これは経験上も言えることで、我が国よりも遙かに安いのだから「美味くない」という批判は不適切かとすら思う。矢張り、当方はアメリカには甘いのかな。

近頃気になるニュース

2014-07-26 07:00:16 | コラム
来年度予算が100兆円超え他:

*巨人がゼロ敗:
巨人嫌いの当方にとって良いお知らせだったのが昨25日に名古屋に10対0で負けたこと。今年は巨人のリーグ何連覇だったかは決定的だとは思うが、昨夜のような負け方は少しだけ気分を良くしてくれる。残念ながら負けた菅野は良い投手だが、解説の誰かが言っていたように変化球で外すだけの投手になってしまった感が深く、力一杯の速球を投げないのでは野球の面白さを消すし、迫力(とスリル)がなくなる。

*来年度予算が100兆円超え:
来年度の税収がどれほど増えるのかハッキリ報じられていないと思うのだが、これで果たして良いのかとやや気懸かりである。アベノミクスはこれまでに一定の効果を発揮してきたとは思うが、私には景気回復が本物とは思えないし、未だに原発再稼働を押し切れておらず、エネルギー源の輸入が増加の一途で、それ故の物価上昇を止め切れていないのは不安材料である。何とか言う規制委員会の在り方を見直す時期に来たのではないか。

*慰安婦問題:
UN如きに河野談話と我が政府の主張との矛盾を衝かれてしまった。一刻も早くこの矛盾というか河野談話を何とかする必要があるのではないか。朝日のような国賊的新聞の虚偽である主張を抑えて貰いたいと切に希望させられた。

*舛添都知事の朴大統領との会談:
あの大統領にあの何ともならない妄言を冒頭から切り出させて、あの会見に何の効果というか国益があったのだろうか。あの大統領が嬉しそうに切り出してきた顔を見ると、彼女には寧ろ「絶好の機会来る」と思わせていたのではないかとすら思わせられた。それでは大統領と都知事の双方にとっての「スタンドプレー」の機会を設定したのではないかとすら考えさせられた

日米間の労働力の質の違い

2014-07-25 08:58:43 | コラム
我が国とは異なる文化と社会の仕組み:

私が表だってアメリカの労働力の質の問題を論じ始めたのは、1994年のW社リタイヤー後のことだった。この問題を簡単に言えば「労働力の質に疑問があるが、そこにはアメリカ市場と需要家と最終消費者の受け入れ基準が我が国との対比では非常に甘く且つ寛容であること」にあると思っている。

私はこれまでに何度か「アメリカには気の毒な面がある」と指摘してきた。その「気の毒さ」が端的に表れている例の一つが労働組合員の質なのである。回りくどいことを言わずにハッキリと言えば、我が国よりは質が低いのである。その原因を敢えて分析すれば、

*社会に歴然とした階層があり、労働組合員になれば先ずそこから他の(ないしは上の?)の階層には移行していくことが例外的にしかないのだ。この辺りは我が国では新卒が先ず組合員として工場の勤務を経て行く場合があるシステムとは非常に異なっている。

*雇用機会均等法(The Equal Employment Opportunity Law)があり、少数民族(と身体障害者)を雇用する義務があること。そこには屡々指摘される「英語を十分に話し且つ聞く力がない者」も入っていることであり、これが折角用意されたマニュアルの読解力がないか読んだ振りをする者が出てくることを意味する。これでは中には紙製造の必要最低限の技術を身に付けていない者がいるという重大な問題を生ずるという意味でもある。

我が事業部では私も含めて全員で何度も繰り返して組合員の直開けの後で残業料を払って集まって貰って「品質向上が如何に大切で、君たちと我々の職の安全に直結する」と語って聞かせた。私も何度も語った。ある時にそこで質問に立ち上がった者の一人が真剣に片言の英語で話したので問題を生じないように出身の国を尋ねた。するとヴェトナムで、機会を求めて移住してきたと知った。このように移住してきた者も数多くいるのが組合であると思っていて良いだろう。

*カーラ・ヒルズ大使が指摘された「初等教育の改善と識字率の向上」は上記とは別のことで、嘗てFRB議長だったポール・ヴォルカー氏は「基本的計算能力(=numeracy、一桁の足し算と引き算が出来ること)の向上を付け加えておられたとも聞いた。

*アメリカの消費者は我が国ほどの細かく且つ厳密な品質に対する要求していない。一方、我が国では厳格な要求に応えて高度な製品を市場に送り出している製造業の高度な技術水準と労働力の質の高さはそれほど認識されていない気がする。寧ろ、その質の高さが当然であり、そういうものだと捉えている感があると思う。私はこの状態を事業部も者たちに「我が国の消費者はスポイル(カタカナ語だが)されてしまった」と表現したものだった。

即ち、アメリカの製造業は我が国との対比で大甘の市場の受け入れ基準に甘んじていただけだったので、私の業界の紙パルプでは日本の市場で大いに苦労させられたのだった。カーラ・ヒルズ大使はこの辺りを十分に認識されて、労働力の質の改善のための上記の2項目を掲げられたと解釈している。私にはポール・ヴォルカー議長の指摘も尤もだと思ったものだった。

我々は対日輸出でより一層の成功を収めるためには製品の品質向上は必須であり、そのためには労働組合の協力も絶対に必要であると認識して、繰り返して彼等に質の向上の努力を説いて聞かせたのだった。そして、結果的にはその努力が報いられたのだった。その具体例を挙げてみよう。

*組合員の意識改革の例を挙げよう。私も現場の組合員で最も手強いと聞かされてやや遠慮気味に接していた巨漢がいた。その彼にある時現場を歩いていて呼び止められた。恐る恐る近寄ると「問題だと思う保留にした製品が大量に出た。班長はこれくらい問題ないから合格にしようと主張する。彼は指令通りの生産量を上げて認められようという "product out" 主義者で俺には納得出来ないから、日本市場担当のお前の判断を仰ぎたいのだ」と言い、保留になっている製品の山に案内した。

私は緊張して検品した。それは本来そういう検査をする担当でも権限もない私にも解る限界ギリギリの質で、日本市場では90%以上の確率で拒否されるものだと告げた。彼は安心した表情で「では班長が何と言おうと格下げ品にする」と断言した。私は早速技術サーヴィスマネージャーを呼び出してこの件を伝えた。彼は喜色満面で「彼奴がそこまで言うような意識を持ってくれたか。努力が報われたな」と言ってから検査して不合格品と判定した。

我が国ならば、恐らく話題に上ることもないとしか思えない挿話だが、我々はこの辺を出発点にして日本市場に通用する品質改善を、労働組合員との絶え間ない接触で意識改革に努めたのだった。これは決して自慢話ではないとご理解賜りたい。私は単に日米間の諸事情を違いを述べてきただけである。それほど文化が違う他国の市場に受け入れられるのは容易ではないということだ。

日米企業社会における文化の違い

2014-07-24 15:52:52 | コラム
日米企業社会における文化の違いを考えれば:

何故アメリカが(恣意的に?)世界に誇る?製品が世界市場で遍く受け入れられないのかを考えてみる。

実は、私は「日米企業社会における文化」との題名で、1990年に本社で事業部の全員と工場の幹部に集まって貰って、約1時間30分のプリゼンテーションをした。そして、その後には工場の事務部門の者たちにも何度も聞いて貰った。さらに、社外のビジネスマンと Community collegeの生涯教育学部長にもプリゼンテーションを機会を得た。

これをやらせて欲しいと副社長兼事業部長に願い出た理由は「我が社の我が事業部と雖も日本に出張してくる者たちが余りにも両国間の違いに無神経というか無知であって、要らざる摩擦を起こしている例を見てきて誠に寒心に堪えない。これは必ずしも当部だけではないが、是非とも改善されて然るべきだ」であり、それを彼が了承して実現したのだった。

この細かい内容はこれまでに色々な形で指摘した来たことであり、ここであらためて全容を紹介する気はない。しかし、後難を怖れずに言えば「我が国の相当以上の大企業で海外慣れしておられるはずのところでも、得意の文化比較論の一部にでも言及すると「エッつ、そうでしたか」と言われたことが何度もあったのである。しかし、国内で語り且つ書くようになったのは、リタイヤー後の1994年2月以降だった。

このプリゼンテーションの原稿を作成している時に、東京に本社の製材品の方から派遣されていた駐在期間中に日米韓の相違を把握していたマネージャーに査読して貰った。彼は「これで良いと思うが、是非とも付け加えて貰いたい項目がある」として指摘したのが、

*Representation of the company to the customer,

*Representation of the customer to the company,

の2項目だった。私も瞬間「何のこと?」と訝ったが、これを日本語にすれば前者は「お客様には会社の意向を伝えよ」であり、後者が「会社に向かってお客の代弁をする(な)」だと、暫くして解ってきた。

しかし、これでも「何が言いたいのか?」と怪訝な顔をしておらる方は多いと疑っている。出来る限り解説してみよう。

彼は「後者は多くのアメリカから日本に派遣されてきた者たち(expatriate と言うが、英和辞書にはそうはなっていない場合が多い)が先ず腹立たしい思いをするのが、日本人の社員は会社の意志や命令や意向を客先に真っ向から伝えることを躊躇い、反対にそれらに対するお客の反論なり反対の意見を聞いて我々に伝えてそれに従おうと提案する。彼等は何処から給与を貰っているかが認識出来ていない。お客の代弁をするとは不届きであると、極めて腹立たしい思いに駆られる」ものだ」と教えてくれた。

正直に言って、私は「矢張りか」と納得した。即ち、前者は「会社ないしは本部の意志を間違いなくお客に伝えて、それを無事に納得させてくるのが社員の使命であって給与を貰っている会社の命令を忠実に実行するのがであるのが本分である」なのである。解りやすい例を挙げれば「本部が値上げをすると決めた以上、お客様にはそれを受け入れさせるのが社員の仕事で、それに対する反論であるとか延期の要望を聞いて帰ってくるのは "job description" の内容に違反している」という簡単な理屈である。要するに "From where does your pay check come?" ということだ。

しかしながら、この簡単明瞭な理屈はアメリカ国内だけで通用するもので、我が国の企業社会にはこのような一方通行の交渉が認めらることは先ずないだろう。だからと言って、アメリカ人の上司にはお客の拒絶と反抗は受け入れらない理屈なのだ。二進法の思考体系であれば「命じられたことは、実行してくる」との選択肢しか残っていないのだ。

しかし、日本の事情に精通していたマネージャーは言った。「これは間違った捉え方で、日本市場には通用しないと認識すべきことだ。特に短期間の出張者などは直ぐにこのお客の代弁者に腹を立てて怒りまくる傾向がある。そこで教えてやることは、兎に角日本人社員が言うことを何が何でもじっくりと聞いて見ろ。するとそこに日本市場に真実の姿が見えてくるものだ。短気は禁物だ。君に必要なことは『良き聞き役』に徹することだ」と言って説得すると解説してくれた。

この2点は非常に重要であり、日米間の企業社会における大きな文化というか思考体系の相違点である。これを知らない日本のお客様は「アメリカの会社の日本人社員は何と高飛車なのだ。本部の意向を伝えに来るだけで当事者能力が皆無では交渉に進めようがない」と言って激怒された例もあったと聞く。アメリカ側も日本の会社がどのような組織というか、どのような経路で報告が上がっていくかを知るべきだったと何時かは理解出来るようになって行くものだ。

この2点は有り難いことに私のプリゼンテーションの重要な項目の一つとなった。そして我が事業部では "representation of the customer" 精神に徹する者が増えていった。言うなれば「目出度し、目出度し」だった。このように我々は常に「日米企業社会における文化の違い」というデコボコ道を歩み続けていたのだった。要するに「この道路をどれだけ速く滑らかな舗装道路にするかが成功の鍵を握っているのだ」ということだ。

アメリカの物作りは軽視出来ない

2014-07-23 08:28:49 | コラム
アメリカの製造業を回顧する:

畏メル友・尾形氏に日経が「アメリカは何処へ・飽くなき革新。米国で先端分野研究の官民連携が加速している。」との記事を載せていたと教えていただけだ。長年アメリカの製造業の会社にお世話になっていた経験から、アメリカの製造業とは如何なるものかを振り返ってみよう。

私はこれまでに常にアメリカを批判することを書き続けてきたと思っている。W社在職中に同社ジャパンの社長(言うまでもないがアメリカ人である)に「何故君はそこまで何事に就いても批判的ないしは否定的なのか」と尋ねられたことがあった。私の答えは「それは何事につけても常に追求し広範囲な知識を身に付けようと努めたので、長所以外にも短所というか欠陥まで見出してしまうからだ」だった。

私は合計22年半もアメリカの製造会社に我が身を置き、自分なりに「アメリカとは」を追い求めてきた。そしてアメリカが如何に優れた立派な国かは専門家やマスコミが余すところなく伝えてこられたので、私は誰も触れてこなかったその絢爛豪華なコインの裏側を語っていこうと考えただけのことなのだ。

アメリカの製造業や多くの研究機関の「研究開発」(=R&D)に費やす資金と人的資源は我が国のそれとは桁違いに大きく、そこから続々と新た研究の成果が発表され、常に世界の先端を走っているの疑いもないことであろう。

やや我田引水的になるかも知れないが、1975年にW社に転身して幹線道路5号線(I-5=アイ・ファイヴ)を南下してその東側に見える豪華絢爛たる本社ビルの裏側にあるI-5からは見えない中央研究所(WTC)に案内されて、その規模と合理的な設備に驚かされた。そこには大袈裟に言えば紙パルプ・林産物産業関連の研究者が世界中から集められ、博士号(Ph.D.)を持つ者が圧倒的に多いのだった。

その内部はパーティションによる研究室が設けられていた。私が先ず驚かされたことはその当時で既に研究者たちは論文を各人の席にある電話機に向かって話しかけ、それを専門のタイピストたちが打ち出しているシステムになっていた点だった。さらに「何れはこのやり方を音声入力に切り替えてタイピストはなくしていく」と説明された。

研究室以外の実験室等の設備も凄いと思わせられたが、その当時で既に樹木の「クローニング」の研究が進んでいたのだった。ここでは "Tree Growing Company" のスローガン通りに "cone" (球果または松かさ)に始まる樹種の改良を始めとする木材のR&Dに大いなる力が注がれていた。その敷地面積は2,300~2,500坪くらいを思うが、地上2階に地下1階の構造だった。

私は何もW社の提灯を持とうというのではなく、アメリカの製造業の会社ではこれくらいの規模の設備投資と人材を投入するのは珍しいことではあるまいと言いたいだけだ。事の序でに触れておけば、WTCの各階の天井には超音波が流されていてしたから上がっていく如何なる音もそこで吸収する仕掛けになっているので、所内に入れば物音一つ聞こえないとでも言いたい静寂さが保たれ研究員の集中力を保つ工夫が為されているのだ。

思うに何もW社だけに限られたことではなく、アメリカに数多く存在する先端技術のメーカーではW社以上の規模で投資(ないしは先行投資)が行われているものと推定している。私はここまでには「アメリカの製造業には侮ってはならない世界最高の力があると考えている。繰り返すが、ここまでである。

因みに、マイクとソフト、アップル、グーグル等の会社は製造業の範疇にあるとは思えないが、R&Dには十分な投資を行っているだろう。だが、これらの会社は自社内での最終製品の生産活動は極めて少ないのではないか。これは考えようによっては賢明なことではないのか。

私は問題はこれほどの投資をして生み出した斬新な着想や基本的概念を如何にして具体的な生産活動というか商業化してこそ、初めてR&Dの成果が上がってくるのだと考えている。ここには繰り返して指摘してきた1974年7月に当時のUSTR代表のカーラ・ヒルズ大使が指摘された「初等教育の改善と識字率の向上」という問題があると認識している。

これは大使が間接的な表現で「労働力の質に問題がある」と指摘されたと解釈している。ここには「職能別労働組合」の問題もあるが、アメリカには我が国には存在しない「一旦労働組合に所属した者が会社側に変わっていく(上がっていく?)ことは先ずないという文化の違い」と、法律で「少数民族の雇用」が義務づけられていることだ。この文化の違いはこれまでに何度も述べたので詳細は省くが、アメリカの会社側の管理職以上に現場で生産業務を経験した者は先ずいないと思って間違いないのだ。

またもや私自身の経験談であるが、組合員の意識改革をしなければ我が国の世界に冠たる厳しい品質の受け入れ基準の達成は不可能であり、そのためには組合員に如何にその点を理解し納得させていくかに事業部を挙げて腐心したものだった。「異な事を聞く」という顔をされた方は多いだろうが、このように会社側と組合とは分離された別組織なのである。

結論を言えば「品質の向上なくして対日輸出に重点指向する我が事業部の存続は危うくなり、君らの職の安全(job security)も同じ運命だ。君たちが奮い立って品質の向上に最善の努力をして貰うことが肝心なのだ。君らは今までも良くやってくれているが、我々の共通の目的のために君らのより一層の技術改善に期待する」と繰り返し説得したことの効果が現れて、世界の何処に出しても最高の評価を得た品質を達せしたのだった。

この成果のコインの裏側にあったことは「組合員の意識改革」なくしては折角世界に冠たるR&Dが産み出した最高水準の発想や基本概念が所期の目標通りの製品を作り出していけない結果に終わってしまうのだ。アメリカ(の自動車等)が世界の輸出市場で成果が上がっていないことの大きな原因がこの辺りにあるのだ。それは関税を撤廃させることや、自由貿易協定を締結することの埒外にあることではないのか。

我が国の製造業の文化にはアメリカのような悩みはなく、優れた労働力の質に基づいた世界に冠たる製造業が厳然として存在するではないか。私はアメリカを侮ってはならないという点には異論はないが、彼等の研究開発の能力と実力と生産現場の力が同じではないと認識しておくことも必要だと信じている。言うなれば「我が国はそれほど優れている」ということだ。