新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

野球 Uー18 W杯

2015-08-30 09:07:43 | コラム
Uー18 W杯に日米間の野球文化の違いを見た:

昨29日は徒然なるままに、この勝って当たり前の高校生野球のW杯での日本対アメリカの試合を見ていた。いきなり観戦の感想と批評を述べてしまえば

「甲子園野球という小宇宙を形成してしまっている我が国 対 これから組織の上部に上がって行こうとする素材を養成しているアメリカとの違いが余りにも明らかに出ているという点では興味深かった」

となる。即ち、「高校野球を頂点に頂いて、そこでトーナメントを勝ち抜く為に研究され開発された細かい技が基本となって大学、実業団、プロ野球が成り立っている我が国の段階的野球の組織とその文化の前にあっては、素材を見出して育成する段階にあるし、その素材が将来野球を選んで大学なりプロなりで続けていくとは限らないアメリカとでは、単なる異文化の衝突に終わった」という感が濃厚だった。

より具体的に言えば、佐藤世那という仙台育英の投手は既に指摘した通り18歳の段階でフォークボールという変化する球(breaking ballと言うが)を中心に組み立てた投球をするある意味で「プロのように」出来上がってしまった投手なのである。一方アメリカの先発投手はアナウンサーも解説の渡辺氏(横浜高終身名誉監督)もプロがドラフト”#1に指名するだろうと指摘した素材だった。重ねて言うが「素材」乃至は「逸材になる途上」の高校生ン集団だ。

従って、このアメリカの投手は速球(もう好い加減にストレートなどという妙なカタカナ語を止めようよ)とスライダーを力一杯投げるだけで、素材としては認めるが未だ制球力(カタカナ語でコントロールだろう)も不十分で、どちらかと言えば古き良き「行く先は球に聞いてくれ」という部類に入る未完成とも言えない段階にあると見た。

話は変わるが、私が知る限りではあの広いアメリカには高校の全国大会などないのだそうだ。精々各州毎にフットボールや野球等の大会を開催する程度だと認識している。考えてもご覧なさい、面積で言えばカリフォルニア州だけも我が国よりも遙かに広いのだし、東西の海岸の間には3時間の時差がある国だ。あの州単位で統治されている国で、連邦政府が全国大会を開こうとするだろうか。そんな奇特なスポンサーがいるのだろうか。

日米間の高校生の野球の質の違いを具体的に言おう。私にはあの高校生たちが何処の州から集められてきたかは知る由もないし、テレ朝はそこに触れようともしなかった。監督をする人は50州を見て回れというのか。あり得ないだろう。その結果というか何と言うか、集まった高校生たちはティームとして纏まっていないというか阿吽の呼吸が合うまでに至っておらず、つまらないミスが多く見られた。

方や我が国の高校生の代表は甲子園に出られるまでの練習であの段階で勝てるようになる為に鍛え上げられているから、寄せ集め集団だったアメリカのような初歩的な失敗もなく、Okoyeなどの相手の隙を突く走塁などで圧倒して見せた。私にはこの質の違いを「立派な勝ちだった」と賞賛すべきか、「異文化の衝突が興味深い結果となって現れた」と、得意の文化比較論に持って行くべきか俄に判断出来ないのだ。

言葉を換えれば「既にある程度以上出来上がっていて、中には既に伸びしろがそれほど残っていない者がいる集団」と「体格と身体能力には優れているが、野球用の素材としてはこれから磨き上げねばなるまいと思わせる集団」の国際試合、しかも予選リーグでの対戦だったのである以上、「勝った、勝った」といって喜んでいたり、褒めあげる報道の仕方をするのは「文化の違い」を正しく伝えていない気がするのだが、如何か。

私が呆れ返ったのは、あの大阪の舞洲という内野に芝生がない野球場を選んで大会を開催する感覚である。それが高野連を従える朝日の決定か、高野連そのものか、スポンサー様の選択かは全く知る由もない。だが、今時甲子園の真似をしたが如きのあの野球場には、アメリカは言うに及ばず他国の高校生・監督・コーチは唖然としたのではないかと疑う。日本は内野に芝生を植えられないほど貧乏だったのかと感心されはしないか。

話は変わるが、30年ほど前にW社の本社からの木材部門の駐在者を出張者とともに神奈川県の高校のフットボールの試合に案内したことがあった。グラウンドは勿論ごく普通の高校の野球場兼用のものだった。彼は翌日本社の同僚にFAXで送った感想文を見せてくれた。そこには「驚く勿れ、日本の高校では泥(dirt)の上でフットボールをやっていた」とあった。これって、単なる文化の違いを表しているだけか。

ここまでお読み頂けばお解りかと思うが、私は心中密かにマスコミを批判したくて纏めた一文でもあるのだ。アメリカに行ってご覧。地方の小さな公立の高校でもスタンド付きのフットボール場があるよ。我が国における社会資本の不充実か教育施設の不備か、あるいは両方か。そんなことだから、国立競技場建設問題であれほど不手際が目立つのだ。

運を持ってるヤツを使う

2015-08-29 08:19:25 | コラム
勝負師は「運を持っているヤツを使う」と言う:

週刊文春の9月3日号で、大和ハウス工業会長・樋口武男氏の連載対談で、ラグビーの平尾誠二が私には大いに興味がある発言をしていたので、ご紹介しておきたい。ご存じでない方の為に触れておけば「平尾誠二とは同志社大出身のラグビーの名選手で、同志社の他にも全日本代表の監督を務めた大立て者」である。

その発言とは「如何なる選手(企業社会では「人材」とでもするか)を選んで使うべきか」という話題で、平尾は元の全日本サッカー代表監督・岡田武史の言葉を引用して、大事な試合のメンバーをどう決めるかについて、

>引用開始
「運を持っているヤツを使う」と言われました。サッカーは運良く一点を取れたら逃げ切れることもある。その「運」はグラウンドにたくさんあって、それを掴めるか掴めないかなんだ。では運を掴める選手を見極める秘訣は、と訊くと「ショートダッシュのインターバルトレーニングなどで、決められたラインまで全力で走りきるヤツは運を掴める。ラインの手前で手を抜くヤツは駄目。「最後の十センチまで拘るヤツが運を掴める選手だというのです」
<引用終わる

と言っていた。

私は岡田元監督のテレビでの対談を何度か見たので承知していたが、彼は体育会系にしては極めて落ち着いた理論家であるので、勝負師と言うよりもにこのような醒めたというか理屈と言いたいまでの思考力で選手選びをしていたと知らされたのが興味ある点だった。また「運」という表現にも興味を感じた。

話をフットボール界に変えて、ここでは愚息を育てて頂いた日本大学高校の監督を長年勤められた清水之男氏(故人)は私がこれまで接してきた多くの監督さんの中で最も「勝負師」の名に相応しい勝負カンと同時に、優れた理論の持ち主だった。即ち、ここぞという勝負の際に上記の「運」を持った選手を選ぶ独特の勝負カンを持っておられたということ。

清水氏の表現は「『星』を持っている子供を使うこと」だった。「星があるか否かは日頃の練習を見ていれば解ることで、大きな勝負である試合の場合などは敢えてその星を持つ子供を温存しておくことも辞さない」だった。同時に清水氏は「その試合の最も重大な勝負の分かれ目となる時を見極める目も必要である」とも言われていた。

身贔屓というか親BAKAを笑われるのを覚悟で言えば、日大高が東日本代表決定戦に進出できるかを決める慶応高校との試合でタッチダウン2本の差をつけられた劣勢で残り時間も僅かとなってところで、それまで使わずに置いておかれたランニングバックの愚息を起用され、しかも2本連続でパスのレシーバーに使うフォーメーションで見事に同点に持ち込み、抽選勝ちで出場権を獲得された。

監督は「あの場であのプレーが出来る星を持っている子なので、敢えてあそこまで使わないでいた。そして見事に読み通りの結果となった」と述懐されたが、恐らく相手側も「まさか」のプレーをされて慌てたのではないかと思わせられた見事な逆転だった。実は、観戦に来てくれていたW社本社からの駐在員は「今日はもう駄目だ」と帰り支度をしていたほど劣勢だった。

ここで言いたいことは「ティームは言うに及ばず、一国の指導者たる者は配下で誰が「運」乃至は「星」を持っているか、誰が最後まで気を抜かずに手を緩めないで任務を達成するかを、常日頃十分に見極めておく必要がある」なのである。岡田監督が指摘したような理論が入った見極め方もあるが、私は「カン」というか「閃き」の重要性も忘れてはならないと思っている。

その点から考えれば、安保法制案の審議における状態から見れば中谷防衛相には手は抜いていなくとも「星」が全く感じられず、国立競技場建設問題で不手際を繰り返す下村文科相とニコニコ顔の遠藤担当大臣には「星」は愚か「運」が無いとしか見えない迫力不足を感じざるを得ないのは残念だ。敢えて言うが安倍総理の任命責任があるだろう。いや、その他にも「星」がない長老がおられるのも好ましくない。

全く話の方向は変わるが、プロ野球で目下打ちまくっているスワローズの山田哲人が初めて出てきた時に、私の目には何となく「変わった星を持つ新人だな。もしかすると化けるかも?」と思わせられた何かがあった。だが、確信などなかった。しかし、短期間であそこまで伸びてしまった。マスコミは素質もあるか質の良い猛練習をしたと報じている。果たして今の若手議員に質の良い勉強をさせれば次代を担う星か運を背負った者がいるのだろうか。


8月28日 その2 新国立競技場建設問題に思う

2015-08-28 17:07:17 | コラム
国立競技場新設の予算不足を補う方法を考えれば:

お断りして置くが、以下は純粋に一般人である私の経験に基づいて言っていることで、担当大臣や議員諸先生方のご参考に供したいなどとう大それたというかお思い上がった心で言うつもりなどない。あるいは「過剰になりかねない予算を救う為」とでも言うべきかも知れないが。

2010年の1月に私はSM氏に案内されてカリフォルニア州のBerkeleyにある”University of California”(通称”Cal”乃至は「バークレー」でアメリカ最高の州立大学)に、UC対UCLA(カリフォルニア大学ロス・アンジェルス校)という言わば身内同士のバスケットボール・ゲームを観戦に出掛けた。会場は”HAAS Pavilion”と名付けられた12,000人収容という大規模の室内体育館だった。

“HAAS”とはジーンズで有名なLevi’sの社長の名字で、彼が寄付したのでその名前がついているのだと聞いた。またその観客席の中でもコートサイドにある良い席はUCに100万円相当だっかの寄付をすれば、その個人のものとなって年間一定の数の試合を観戦出来る仕組みになっていると知らされた。仮に半分の6,000席が100万円の寄付を受けたとすれば、それだけで60億円である。

仮に新国立競技場に8万席置けたとして、そのうち2万席にオリンピック終了前でも後でも、法人でも個人でも100万円の寄付を募れば、200億円が出てくるではないか。勿論その指定席がオリンピック期間中のものではないとしても、東京ドームなどで行われているように、その席には所有者の社名なり何なりは記載されて、広告収入にも繋がる可能性がありはしないか。

下村文科相は確か新競技場の命名権を云々していた時期があったが、それは飽くまでもオリンピック後のことになるだろうか。だが、それも予算の獲得の一補助手段にはなり得るだろう。だが、その種の収入にIOCが関連するか否かは私が関知するところではない。

先程、関連業者に協力を要請することに触れた。それは簡単に言えば形を変えた価格交渉だが、それにしたところで何の見返りもなしに交渉するのは野暮というもので、例えば椅子関ならば納入乃至は製造会社名を何処かに記載する広告を取ることも条件に出来はしないか。鉄鋼関連にしたところで、競技場の何処かに納入か製造会社名を記載したプレートを有料で埋め込むことだって可能ではないか。歴史に名を残す広告だ。

第一、現在の鉄鋼市場には中国のように過剰設備を抱えている国があるではないか。私には中国の鉄関連の製品の質が我が国での使用に耐えうるか否かなどは知る由もない。だが、もしも基準を満たすものならば「これから微力ながら協力に貴国の産業に協力するから、今後は尖閣云々だの何のと言い掛かりは無用。歴史に名を残すことを考慮されては」くらいのことを言っても良くはないのかな。

その他にここまで複雑なことを言わずに、真っ向から国内の企業にあらゆる考え得る形での寄付というか協力を要請することだって出来ると、私は考えている。確か旧国立競技場にはプロ野球場のような広告はなかったが、如何なる形の広告にするかくらいについて、関係閣僚や議員たちは無い知恵を絞ってみたら如何か。また、国内の産業の中には、あの程度の規模の競技場用に受注できれば経営が改善される業種があるかも知れないと思う。

確信はないが、我が母校の某学部の校舎や設備一切は、カトリック信者であるドイツの某鉄鋼会社の寄付によるものだと聞いた記憶もある。嫌みで言うのではないが、予算が足りないので、見直すのと言って会議ばかりする暇があれば、このような浄財を募るとか、広告収入を得る手法を考えていたらどうかと考えてしまう。マスコミだって揚げ足取りばかりしていないで、何らかの知恵を出してお国に協力したらどうだ。


政治屋を叱る

2015-08-28 08:20:33 | コラム
新国立競技場建設問題に見る政治家の愚かさ:

これが国事行為と認識出来ていないのではないかと腹立たしい。歳費分くらいは働けと言ってやりたい。

私はこの度の新国立競技場建設に関して、今日までに見せた政治家どもの、愚かさというか実務を知らぬ無能さに心底から怒り悲しい思いを強いられている。対策とやらで担当大臣を任命したり、無知蒙昧な閣僚と関係者を集めては予算の枠をいじり回しているだけで事足れりとでも信じているだろう姿勢には「政治家に自分たち以上の器量は期待出来ない」との言い慣わしは大間違いだと遅まきながら気付いた次第だ。

何度でも言うが、私は政治家ほどAHOでも無知ではないと確信している。実務の世界を見て経験してきたから確信を持って言う。

事は1千~2千億円という国費を使う大事業である。それだけの大きな実務を伴う「実業」の世界で何れは起きていく仕事である。私には彼ら森喜朗以下の関係する政治家連中は「予算の枠だけをこねくり回していけば、何時か何処かで請け負った民間の企業群が期限内にその優秀な技術と能力を発揮して、自分たちが決議したように事を運んでくれる」とでも安易に考えているのだろうとしか思えないのだ。

彼らは一度政治家が号令をかければ、閣議決定だろうと国会の議決だろうと、自分たちが何事か定めれば関係官庁をも含めた関係者が「良きに取り計らうものだ」とでも思っているのだとしか思えないのが極めて遺憾だ。この競技場問題は最早IOCまで巻き込んだし、何とか言う怪しげなデザイナーが創造した?ロゴマークに疑惑が生じたなど、容易ならざる段階に立ち至ってしまったことが、未だに本当に理解出来ていないとしか思えない。

私は今回のこの停滞しきっている案件に「政治家の実務知らず」と言うか「現実の世界での仕事の運び方を経験すらしたことがない連中が『政治屋』に成り上がって、如何にも権威者の如くに政治的に予算枠だけでも討論していれば良い」とでも思い込んでいるだろう姿勢に限りない不満と怒りを覚えている。それだから今日に体たらくでマスコミにすら論われているではないか。「恥を知れ」と言ってやりたい。

2,520億円だったか何だか知らぬが、巨額の国費を投じる案件を実務を知らぬ者たちというか烏合の衆が寄ってたかって小田原評定を繰り返していても、何ら建設的な結果を生じないことを、彼らは既に証明した。長いこと彼ら政治屋を非難し過ぎたので、ここから先は私なりの具体案を述べていこう。私は曲がりなりにも日米の企業社会で40年も実務を経験してきたから言うのだ。

今回は実際に競技場を建設するのは大手ゼネコンの大成と竹中と報じられていたようだ。しかし、当たり前のことでこの2社が直接泥をこねたりセメントミキサー車を走らせる訳ではない。膨大な数の関連業者、二次・三次・四次・・・の下請け業者、建築そのものや鳶職や左官等の熟練の技能者、鉄鋼や建材等の関連の資材納入業者、家具納入業者等々が、それぞれの段階で参入して建設が完成へと進むものだ。

そして、上記のそれぞれの業界と業種には関連し且つ監督する諸官庁がある。私は事に当たっている閣僚乃至は議員は国会会期中である週日でも可能な限り時間を作って、これらの関係先に「周知のように事は国家の威信がかかっている重大な案件で万局に差し掛かっている。この際、御社や業界も諸般の事情を理解の上で、国家のためにコストや納期その他の面で出来得る限りの協力で我々を支えて頂きたい」程度の要請をして回ったらどうかと言いたい。

また、輸入を伴うような材料の場合には関連の官庁とも連絡を密にして、担当の商社だけに止まらず、輸入する諸国に出向いてでも協力方要望して回ることだって可能なはずだ。この案件であると知った先が、無碍に真っ向から協力(価格的なという意味だ)を拒否することがないよう、全力を尽くしてみたらどうだ。

そこまでやって、各方面の全面的な協力が得られず、尚且つ1,500億円だかの新予算を超えざるを得なかったならば、素直に率直に自分たちの無能さを国民に詫びて、予算増額をあらためて願い出るべきではないか。会議ばかりしかしないと怒っておられる国民の方々はおられるはずではないのかな。

私は中でも重要な懸案の中でも大きな課題は、鳩山内閣の失政で生じた熟練した現場の労務者の不足を如何にして補って尚且つ建設の速度を上げていくのかにあると思う。だが、これ即ち大きな労務費の高騰の原因になりかねないと危惧している。遠藤担当大臣には「その対策は如何」と問いたい。

これまでにテレビ報道で見る限りの遠藤担当大臣を始め下村文科相も、森元総理も、遺憾ながら安倍総理にも切迫感を感じさせる悲壮感は全く表れておらず、唯々数字いじりに終始しているとしか見えないのは遺憾では済まない無策振りを見出す。特に「ニコニコ」するのが能事の如き遠藤担当大臣には事を達成しようとする気迫が全く感じられない。あの何処が政策通なのか?政策に通じれば競技場が建つのかとと問いたい。

安保法制案の重大さに比べれば、新国立競技場建設問題は言わばマイナーリーグ・一シューだと私は思う。だからと言って遠藤担当大臣如きに委ねていてより問題ではない。偏向マスコミは無意味な街頭インタビューなどで何も知らない一般人に「アスリートのために良い競技場を」などと言わせ、競技場内を走った訳ではない有森裕子には涙で「アスリートのための競技場を」などと言わせて、あらぬ方向に持って行こうとしている。怪しからん次第だ。

安倍総理、何卒怪しげなマスコミが創り出した与論や世間知らずの閣僚やJSCの言い分などに惑わされることなく、安保法制案に示された指導力を十二分に発揮して、ご自身が先頭に立って関連業界をお国のために奮起させ協力させて下さい。宜しくお願い申し上げます。


8月27日 その3 日本大好き様へ

2015-08-27 12:37:02 | コラム
日本大好き様

何時もの事ながら温かい励ましのお言葉に心から御礼申し上げます。

貴方様も私もごく普通に、当たり前のように国を愛する国民の一人かと思っております。私は我が国全体が普通の国民の集団になって行けば、今日のように偏向したマスコミや愚かな政治家が蔓延っていることにはならないと思っております。

私は20数年間アメリカ人の中で働いている間に「自分の国ほど良い国はない」と「我が国ほど優れた国が他にない」と目覚めて参った次第で、外国と外国人に触れて初めて愛国心が本格的に目覚めてくるものだと知った次第です。

その私を遙かに超えた愛国心と国を憂う気持ちをお持ちの貴方様に心から敬意を表する次第です。

今後とも宜しくご指導・ご鞭撻のほどを。

真一文字拝