旧制高校論からエリートを考える:
私は「エリート」というカタカナ語に接したのが何時頃のことかの記憶はないが、早くても昭和20年代の後半かそれ以降だという気がする。当初は「お金持ちの知識階級の人たち」辺りを言指す言葉かと思った程度で余り気にしていなかった。私が知る限りの戦前と戦後間もなくの我が国では、現在とは比較しようもない格差があり不平等な時代だったと、今になって考えている。それが普通に受け入れられる長閑な時代だったと思っている。
即ち、先日述べたように名門中等学校から一高を始めとするナンバースクールに進学し、そこから旧制七帝大に散らばっていった人たちが官庁や大手企業に採用され、学歴と年功序列で昇進して行くものだと解釈していた。政治家になる人たちもこのような層から出て行っていたし、戦前は貴族院などという組織もあったのだった。現代の若者に「貴族とは」と問い掛けても、もしかすると焼き鳥屋くらいしか思い浮かばないのではないか。
偶々昭和20年4月13日の空襲(だったと思う、というのは転地療養兼疎開で住んでいなかった)で焼かれた小石川区駕籠町の我が家の周囲には総理大臣以下の閣僚や皇太子殿下(今上天皇)の学習院初等科でのご学友に選ばれた幼稚園の同窓生、財界人等がいたりというやや変わった住宅地帯。その中でも未だに交流している友人がいるが、皆一様に誇り高く、強烈な自尊心の持ち主。我が家を除けば所謂名門の集まりといえる。
アメリカに目を転ずれば、私が経験した限りでは”elite”という言葉を聞いた記憶がない。余談だが、WASP等を云々するのは我が国の中だけではないか。私が常に論じてきた「アメリカを支配するのは上位にある精々3~5%の人たちの層」は、そもそもそれぞれの出身地の名門か裕福な良家で構成され、Ivy Leagueかそれと同等の私立大学のMBAかPh.D.であるのが一般的である。裕福でなければ進学出来ない私立大学出身者が多い。
そういう連中が企業に入れば”speed track”と言われる出世の軌道に乗って30歳台で幹部候補生の位置を確保し、嘗ては40歳台で経営幹部に入っていなければ”40 out”(四十にしてならずば去れ)等と極端なことが言われていた時期すらあった。要するに年間500万円以上(5万ドル)もする学費を6年間いとも容易く負担出来る家に産まれた者がspeed trackに乗れる「エリート」となって支配しているのがアメリカだと、私は実感してきた。
ここで、「eliteとは」を先ずOxfordで見てみよう。”a group of people in a society, etc., who are powerful and have a lot of influence, because they are rich, intelligent, etc.”とある。アメリカのWebsterには”2, a small group exercising power by virtue of real or claimed superiority or technical competence”とある。金持ちと言っていないところがUKと一寸違うようなのは興味深い。
では、広辞苑ではどうかと言えば「選り抜きの人々、優れた資質や才能を持ち、社会や組織の指導的地位にある階層・人々。選良」となっていて、一般的な我が国での認識を表している。ここにもUKと違って”rich”に触れていない。私はこの点に外国、それもWebsterにはなかったアメリカやUKとの違いを見るのだ。何れにせよ、欧米には我が国ような平等はなく格差も差別も社会通念で受け入れられていると言えると思うのだが。
漸く我が国を論じるところに来た。我が国で広辞苑に表されている「エリート」は確かに存在すると思う。だが、アメリカのようにHarvardのMBAを引っ提げて20歳台後半で入社し(途中ではない、念のため)瞬く間に管理職に上がっていく”speed track”は存在しない。だが、一定以上の地位というか偉さまでは平等に昇進していける崩れかかった年功序列制も残っている。
また見方を変えれば、マスコミが常に言ってきた中央官庁や金融機関や総合商社のエリートたちは一流の大学出身者が多いのは確かだが、必ずしもOxfordが言うような裕福であり知的水準が高い家族の出ではない場合があるではないか。いや、小学校から大学まで真面目に勉強していればアメリカのような裕福な家柄でなくても上記のような世界に入って行けて、末は社長か大臣かという仕組みになっているのではないか。
我が国はアメリカのような分け隔てがなくて、極めて平等な世界ではないのか。それは確かに親が良い学習塾の高額な授業料負担に耐えてくれないと、優れた私立の中学や高校に進めないという傾向はあるが、私は未だアメリカほどの階層による違いというか差別に近い区分けはない悪平等に近い状態が我が国の長所であり、反面では欠陥にもなりかねないと危惧するのだ。
後難を怖れずに言えば、我が国のエリートには未だアメリカのように始めから『選ばれし者』という強烈な意識を持つまでに至っていないと思わせる。アメリカ人の中にいて驚いたことは「ある日突然どこからともなく昇進してきた青年に近い本部長や副社長が、何時の間にそれほどの指導者としての見識と意欲と方針を勉強してきたのかと思わせる立派な就任演説と施政方針を述べること」だ。「これから勉強して」などと謙っていう者はいなかった。
以上を締めくくるのに「文化の違い」と言ってしまえばそれまでだが、私は率直に言って「矜恃」を持っている点ではアメリカのspeed trackに乗ったか乗ろうと努めている者たちの方があらゆる意味で上昇傾向が高いような気がしてならない。だが、アメリカでは上にけば行くほど、我が国にはないと言える「職と地位と身分の安定性が危うくなる危険性」を秘めていると言えるのだが。
私は「エリート」というカタカナ語に接したのが何時頃のことかの記憶はないが、早くても昭和20年代の後半かそれ以降だという気がする。当初は「お金持ちの知識階級の人たち」辺りを言指す言葉かと思った程度で余り気にしていなかった。私が知る限りの戦前と戦後間もなくの我が国では、現在とは比較しようもない格差があり不平等な時代だったと、今になって考えている。それが普通に受け入れられる長閑な時代だったと思っている。
即ち、先日述べたように名門中等学校から一高を始めとするナンバースクールに進学し、そこから旧制七帝大に散らばっていった人たちが官庁や大手企業に採用され、学歴と年功序列で昇進して行くものだと解釈していた。政治家になる人たちもこのような層から出て行っていたし、戦前は貴族院などという組織もあったのだった。現代の若者に「貴族とは」と問い掛けても、もしかすると焼き鳥屋くらいしか思い浮かばないのではないか。
偶々昭和20年4月13日の空襲(だったと思う、というのは転地療養兼疎開で住んでいなかった)で焼かれた小石川区駕籠町の我が家の周囲には総理大臣以下の閣僚や皇太子殿下(今上天皇)の学習院初等科でのご学友に選ばれた幼稚園の同窓生、財界人等がいたりというやや変わった住宅地帯。その中でも未だに交流している友人がいるが、皆一様に誇り高く、強烈な自尊心の持ち主。我が家を除けば所謂名門の集まりといえる。
アメリカに目を転ずれば、私が経験した限りでは”elite”という言葉を聞いた記憶がない。余談だが、WASP等を云々するのは我が国の中だけではないか。私が常に論じてきた「アメリカを支配するのは上位にある精々3~5%の人たちの層」は、そもそもそれぞれの出身地の名門か裕福な良家で構成され、Ivy Leagueかそれと同等の私立大学のMBAかPh.D.であるのが一般的である。裕福でなければ進学出来ない私立大学出身者が多い。
そういう連中が企業に入れば”speed track”と言われる出世の軌道に乗って30歳台で幹部候補生の位置を確保し、嘗ては40歳台で経営幹部に入っていなければ”40 out”(四十にしてならずば去れ)等と極端なことが言われていた時期すらあった。要するに年間500万円以上(5万ドル)もする学費を6年間いとも容易く負担出来る家に産まれた者がspeed trackに乗れる「エリート」となって支配しているのがアメリカだと、私は実感してきた。
ここで、「eliteとは」を先ずOxfordで見てみよう。”a group of people in a society, etc., who are powerful and have a lot of influence, because they are rich, intelligent, etc.”とある。アメリカのWebsterには”2, a small group exercising power by virtue of real or claimed superiority or technical competence”とある。金持ちと言っていないところがUKと一寸違うようなのは興味深い。
では、広辞苑ではどうかと言えば「選り抜きの人々、優れた資質や才能を持ち、社会や組織の指導的地位にある階層・人々。選良」となっていて、一般的な我が国での認識を表している。ここにもUKと違って”rich”に触れていない。私はこの点に外国、それもWebsterにはなかったアメリカやUKとの違いを見るのだ。何れにせよ、欧米には我が国ような平等はなく格差も差別も社会通念で受け入れられていると言えると思うのだが。
漸く我が国を論じるところに来た。我が国で広辞苑に表されている「エリート」は確かに存在すると思う。だが、アメリカのようにHarvardのMBAを引っ提げて20歳台後半で入社し(途中ではない、念のため)瞬く間に管理職に上がっていく”speed track”は存在しない。だが、一定以上の地位というか偉さまでは平等に昇進していける崩れかかった年功序列制も残っている。
また見方を変えれば、マスコミが常に言ってきた中央官庁や金融機関や総合商社のエリートたちは一流の大学出身者が多いのは確かだが、必ずしもOxfordが言うような裕福であり知的水準が高い家族の出ではない場合があるではないか。いや、小学校から大学まで真面目に勉強していればアメリカのような裕福な家柄でなくても上記のような世界に入って行けて、末は社長か大臣かという仕組みになっているのではないか。
我が国はアメリカのような分け隔てがなくて、極めて平等な世界ではないのか。それは確かに親が良い学習塾の高額な授業料負担に耐えてくれないと、優れた私立の中学や高校に進めないという傾向はあるが、私は未だアメリカほどの階層による違いというか差別に近い区分けはない悪平等に近い状態が我が国の長所であり、反面では欠陥にもなりかねないと危惧するのだ。
後難を怖れずに言えば、我が国のエリートには未だアメリカのように始めから『選ばれし者』という強烈な意識を持つまでに至っていないと思わせる。アメリカ人の中にいて驚いたことは「ある日突然どこからともなく昇進してきた青年に近い本部長や副社長が、何時の間にそれほどの指導者としての見識と意欲と方針を勉強してきたのかと思わせる立派な就任演説と施政方針を述べること」だ。「これから勉強して」などと謙っていう者はいなかった。
以上を締めくくるのに「文化の違い」と言ってしまえばそれまでだが、私は率直に言って「矜恃」を持っている点ではアメリカのspeed trackに乗ったか乗ろうと努めている者たちの方があらゆる意味で上昇傾向が高いような気がしてならない。だが、アメリカでは上にけば行くほど、我が国にはないと言える「職と地位と身分の安定性が危うくなる危険性」を秘めていると言えるのだが。