8冊目のパスポートが9月9日で切れた:
失効する日が9月9日であるとは承知していたが、継続しようとは考えてなかったのは残念だったと同時に少し辛い思いがあった。だが、ここまで回復した体調を考えても弱った心臓を抱えて減塩食を続けている身が、アメリカ西海岸ならば往路で8時間以上も機内の閉じ込められていることが好ましいとは思えなかったのである。正直なところ、来年にはW社があの本社ビルから引っ越すと知ったので、その前に何とかもう一度訪れてみたい気持ちはあった。
感情論はさて措き、我がパスポート(旅券)史を振り返ってみよう。私は海外に出られたのは遅い方だと思っているが、初の渡航は70年7月6日に大阪伊丹空港から出発して東南アジアの4ヶ国を回って同月の16日に帰国していたことから始まった。当時の旅券は1回の渡航限り有効で、寸法も縦153 mmに対して幅が95 mmと、現在の125 mm ×89 mmよりも大きかった。表紙も紺色だった。
1970年頃は海外旅行には種々の制約があり、数次旅券と表紙に記載された旅券は2度目からしか発行と記憶する。また、1ドルが360円だった為か否かは知らないが、一度に持ち出せる外貨にも制限があり、私の初の旅券には「渡航費用に関する証明」の頁に東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)がT/Cで$100とCashで$200を手交した旨記載していた。$300で11日の東南アジア旅行を賄えと言うこと。因みに300ドルは10万8,000円でしかない。
この旅券の4ページ目には「効力」として帰国時に失効と記載され、5ページ目には「渡航先」を予め記載するようになっていた。記憶は確かではないが旅行代理店が申請したようで、台湾、香港、マカオ、フィリピンズ、インドネシア、タイ、マレーシア、ビルマ、シンガポールが英語名で打ち込まれていた。しかし、実際にはこれらの国の全部に渡航した訳ではなかった。
2冊目は1971年7月5日に発行され、紺色の表紙に「数次旅券」と刷り込まれ、有効期限が5年となっていた。ここには「渡航先」の頁には北朝鮮、中国本土、北ベトナム、東ドイツを除く世界の国々となっていたのは今となっては印象深い。「渡航費用に関する証明」の頁には71年7月に$400、71年12月に$380、72年2月に$400と記載されていた。実は、ここまでではアメリカには行っていなかった。
この旅券は日本の会社時代に会社の経費で受領したのだったが、その有効期間中の72年8月にM社に転身していて使用するようになっていたのだった。この8月の羽田空港からの出張が人生初のアメリカ行きでもう39歳になっていて、高校と大学の頃にあれほど憧れていたアメリカには「行こうとも、行きたいとも、行けるとも」考えていなかった。正直に言って転身などは考えてもいなかったが、運命がアメリカ行きを与えてくれたのだった。
そこで、羽田出発が4時間も遅れたロスアンジェルス行きのパンナムの機内で、大学の頃に物理の教授が「世の中では諦めていたことが、望んでもいなく可能性もなく考えてもいない時になって実現するものだ」と言われたのを思い出さずにはいられなかった。この初のアメリカ出張の後からは海外出張と言えばほとんどアメリカばかりで、2000年に初めて自費で渡航した以降の分も含めて50回以上は行っていたことになってしまった。
今回振り返ってみて寧ろ意外だったのは、現在の小さな寸法の旅券を受け取ったのが94年1月末のW社引退後の1996年1月だったことで、在職中はあの大判の旅券だったことは全く意識していなかった。3冊目には既に渡航禁止先の記入はなかったが、76年10月のアメリカ出張時には外貨$1,500の持ち出しが記載されていた。30年近くも前には未だ何らかの制限があったのかとの思いがある。
4冊目は1981年4月の受領で表紙が赤くなったが、未だ「数次旅券」と刷り込まれていたし期限も未だ5年だった。1996年5月の6冊目からは「数次旅券」は消えていたが、寸法は大きなままだった。この旅券からそれまでは「所持人自署」に漢字で氏名を手書きし、”SIGNATURE OF BEARER”に所謂「サイン」をしていたものが一つになっていて、私は真似されにくいという漢字での自署にしていた。
この度期限切れとなった8冊目では4回しか旅行しておらずそれも全てアメリカで、2011年11月30日に薬を忘れて出国し慌てて12月5日に帰国したのが最後だった。何となく、費用対効果を考えると勿体なかったのかと悔やんでいる旅券取得だった。大まかな記憶では8冊の旅券を使っての海外渡航は90回強で渡航先は僅か20ヶ国であり、W社の本社出張が大半だったアメリカでも50州中で僅か20州にしか行っていなかった。
本筋から離れることになるが、90年から93年末までの4年間には商売繁盛で年平均6回はアメリカ出張があり、国内での出張を合わせると東京の事務所に出勤していたのは年間で3日に1日くらいだった。またシアトルに飛ぶ為には集中的にノースウエスト航空(現デルタ航空)をアメリカ国内でも利用していたので、同社のWorld Perksには何と55万マイルも貯まっていたのだった。このマイル関連での経験談は何れ後日に機会があれば。
失効する日が9月9日であるとは承知していたが、継続しようとは考えてなかったのは残念だったと同時に少し辛い思いがあった。だが、ここまで回復した体調を考えても弱った心臓を抱えて減塩食を続けている身が、アメリカ西海岸ならば往路で8時間以上も機内の閉じ込められていることが好ましいとは思えなかったのである。正直なところ、来年にはW社があの本社ビルから引っ越すと知ったので、その前に何とかもう一度訪れてみたい気持ちはあった。
感情論はさて措き、我がパスポート(旅券)史を振り返ってみよう。私は海外に出られたのは遅い方だと思っているが、初の渡航は70年7月6日に大阪伊丹空港から出発して東南アジアの4ヶ国を回って同月の16日に帰国していたことから始まった。当時の旅券は1回の渡航限り有効で、寸法も縦153 mmに対して幅が95 mmと、現在の125 mm ×89 mmよりも大きかった。表紙も紺色だった。
1970年頃は海外旅行には種々の制約があり、数次旅券と表紙に記載された旅券は2度目からしか発行と記憶する。また、1ドルが360円だった為か否かは知らないが、一度に持ち出せる外貨にも制限があり、私の初の旅券には「渡航費用に関する証明」の頁に東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)がT/Cで$100とCashで$200を手交した旨記載していた。$300で11日の東南アジア旅行を賄えと言うこと。因みに300ドルは10万8,000円でしかない。
この旅券の4ページ目には「効力」として帰国時に失効と記載され、5ページ目には「渡航先」を予め記載するようになっていた。記憶は確かではないが旅行代理店が申請したようで、台湾、香港、マカオ、フィリピンズ、インドネシア、タイ、マレーシア、ビルマ、シンガポールが英語名で打ち込まれていた。しかし、実際にはこれらの国の全部に渡航した訳ではなかった。
2冊目は1971年7月5日に発行され、紺色の表紙に「数次旅券」と刷り込まれ、有効期限が5年となっていた。ここには「渡航先」の頁には北朝鮮、中国本土、北ベトナム、東ドイツを除く世界の国々となっていたのは今となっては印象深い。「渡航費用に関する証明」の頁には71年7月に$400、71年12月に$380、72年2月に$400と記載されていた。実は、ここまでではアメリカには行っていなかった。
この旅券は日本の会社時代に会社の経費で受領したのだったが、その有効期間中の72年8月にM社に転身していて使用するようになっていたのだった。この8月の羽田空港からの出張が人生初のアメリカ行きでもう39歳になっていて、高校と大学の頃にあれほど憧れていたアメリカには「行こうとも、行きたいとも、行けるとも」考えていなかった。正直に言って転身などは考えてもいなかったが、運命がアメリカ行きを与えてくれたのだった。
そこで、羽田出発が4時間も遅れたロスアンジェルス行きのパンナムの機内で、大学の頃に物理の教授が「世の中では諦めていたことが、望んでもいなく可能性もなく考えてもいない時になって実現するものだ」と言われたのを思い出さずにはいられなかった。この初のアメリカ出張の後からは海外出張と言えばほとんどアメリカばかりで、2000年に初めて自費で渡航した以降の分も含めて50回以上は行っていたことになってしまった。
今回振り返ってみて寧ろ意外だったのは、現在の小さな寸法の旅券を受け取ったのが94年1月末のW社引退後の1996年1月だったことで、在職中はあの大判の旅券だったことは全く意識していなかった。3冊目には既に渡航禁止先の記入はなかったが、76年10月のアメリカ出張時には外貨$1,500の持ち出しが記載されていた。30年近くも前には未だ何らかの制限があったのかとの思いがある。
4冊目は1981年4月の受領で表紙が赤くなったが、未だ「数次旅券」と刷り込まれていたし期限も未だ5年だった。1996年5月の6冊目からは「数次旅券」は消えていたが、寸法は大きなままだった。この旅券からそれまでは「所持人自署」に漢字で氏名を手書きし、”SIGNATURE OF BEARER”に所謂「サイン」をしていたものが一つになっていて、私は真似されにくいという漢字での自署にしていた。
この度期限切れとなった8冊目では4回しか旅行しておらずそれも全てアメリカで、2011年11月30日に薬を忘れて出国し慌てて12月5日に帰国したのが最後だった。何となく、費用対効果を考えると勿体なかったのかと悔やんでいる旅券取得だった。大まかな記憶では8冊の旅券を使っての海外渡航は90回強で渡航先は僅か20ヶ国であり、W社の本社出張が大半だったアメリカでも50州中で僅か20州にしか行っていなかった。
本筋から離れることになるが、90年から93年末までの4年間には商売繁盛で年平均6回はアメリカ出張があり、国内での出張を合わせると東京の事務所に出勤していたのは年間で3日に1日くらいだった。またシアトルに飛ぶ為には集中的にノースウエスト航空(現デルタ航空)をアメリカ国内でも利用していたので、同社のWorld Perksには何と55万マイルも貯まっていたのだった。このマイル関連での経験談は何れ後日に機会があれば。