台風18号の余波と自衛隊の活動:
余波と言うには余りにも激しい水の流れを見て脅威を感じる前に、復旧・復興が大難事業になるだろうと考えさせられていた。昨10日の午後にはテレ朝にしたままで放置しPCを触っておりテレビの前に戻ると、ドラマだったものが鬼怒川の決壊と救助を待つ人たちの場面に変わっていたのだった。
今日で9.11が丁度4年半になるが、あの日の地震発生時には大久保通りの風月堂の2階にいて、それまでの人生で経験したことがなかった、大袈裟に言えば、店内が崩壊する恐怖から脱出した後だった。そこで、あの津波に襲われた東北地方のテレビ画面は何かCGを見せられているようで、その驚きでその後にあの地方が如何なる経済的・政治的・物理的な困難に曝されるかなどを考えることも想像する余裕がなかった。
だが、昨日はほぼ全テレビ局があの場面を中継し、自衛隊・警察庁・消防庁のヘリコプターが人命救助に出動する様子を見て、あの経験が事態を変えていたかと思うと同時に「自公連立内閣で良かった」と痛感していた。更に、災害に遭った茨城県も各市町村は言うに及ばず、安倍内閣もあれだけの被害から復旧・復興するのは大難事業になるだろうと考えていた。
しかも、堤防決壊の災害は雨の北上に伴って東北地方にも及ぶだろうから、その災害の規模は矢張り9.11と同様に単なる一国民である私には想像すら出来ない規模になるだろうとまで考えが及んでいた。国家としては一大財政的且つ物理的な負担を背負うことになるだろうから、新国立競技場建設やエンブレム問題などはさて措き、あの「9.10」災害対策に可能な限りの努力をせねばならない事態だと思うに至った。
今や以前ほど自衛隊の存在を云々するリベラル派が減っては来たが、その連中も昨日の自衛隊のヘリコプターの災害出動とその救助活動振りを見れば、大いに更に考えが変わるだろうなどとも考えた。だが、私は自衛隊はあのような見事な災害出動の為だけに存在するのではなく、飽くまでも「国を自衛する為」に集まった人たちであると思ってみていた。
私はあの災害の場面を見ながら、安保法制案反対する輩は、万一あの場で自衛隊のヘリコプターを操縦する隊員が何らかの事故に遭い犠牲者が出たならば、何と言う積もりかと考えた。反対派は将来起こり得るかも知れない集団的自衛権の行使以外の場でも自衛隊員は生命の危険を犯してくれているのだと解っているのだろうか。
余波と言うには余りにも激しい水の流れを見て脅威を感じる前に、復旧・復興が大難事業になるだろうと考えさせられていた。昨10日の午後にはテレ朝にしたままで放置しPCを触っておりテレビの前に戻ると、ドラマだったものが鬼怒川の決壊と救助を待つ人たちの場面に変わっていたのだった。
今日で9.11が丁度4年半になるが、あの日の地震発生時には大久保通りの風月堂の2階にいて、それまでの人生で経験したことがなかった、大袈裟に言えば、店内が崩壊する恐怖から脱出した後だった。そこで、あの津波に襲われた東北地方のテレビ画面は何かCGを見せられているようで、その驚きでその後にあの地方が如何なる経済的・政治的・物理的な困難に曝されるかなどを考えることも想像する余裕がなかった。
だが、昨日はほぼ全テレビ局があの場面を中継し、自衛隊・警察庁・消防庁のヘリコプターが人命救助に出動する様子を見て、あの経験が事態を変えていたかと思うと同時に「自公連立内閣で良かった」と痛感していた。更に、災害に遭った茨城県も各市町村は言うに及ばず、安倍内閣もあれだけの被害から復旧・復興するのは大難事業になるだろうと考えていた。
しかも、堤防決壊の災害は雨の北上に伴って東北地方にも及ぶだろうから、その災害の規模は矢張り9.11と同様に単なる一国民である私には想像すら出来ない規模になるだろうとまで考えが及んでいた。国家としては一大財政的且つ物理的な負担を背負うことになるだろうから、新国立競技場建設やエンブレム問題などはさて措き、あの「9.10」災害対策に可能な限りの努力をせねばならない事態だと思うに至った。
今や以前ほど自衛隊の存在を云々するリベラル派が減っては来たが、その連中も昨日の自衛隊のヘリコプターの災害出動とその救助活動振りを見れば、大いに更に考えが変わるだろうなどとも考えた。だが、私は自衛隊はあのような見事な災害出動の為だけに存在するのではなく、飽くまでも「国を自衛する為」に集まった人たちであると思ってみていた。
私はあの災害の場面を見ながら、安保法制案反対する輩は、万一あの場で自衛隊のヘリコプターを操縦する隊員が何らかの事故に遭い犠牲者が出たならば、何と言う積もりかと考えた。反対派は将来起こり得るかも知れない集団的自衛権の行使以外の場でも自衛隊員は生命の危険を犯してくれているのだと解っているのだろうか。