新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

安田純平が英雄か

2018-10-25 08:08:03 | コラム
安田純平が解放された:

彼安田純平は「自己責任」とやら称してシリアに出ていった本来は「フリー」ではなく「フリーランス」と言うべきジャーナリストだそうだ。だが、行ってはならないと言われていた内戦の国シリアに出掛けて行き、そして反体制派に拘束されてしまった。そして3年4ヶ月もの間抑留されていたのだった。我が国にはこういう勇敢なる手前勝手のジャーナリストが多く、中には危険地帯に入ったは良いが怖い連中に掴まって命を落とす者までていたではないか。マスコミ論調は何となく彼らが「英雄」か「悲劇の英雄」の如くに扱われている。同じマスコミの身内だから厚遇するのか?

今回は安田なるものはカタールの協力があったらしくて解放されたのは結構だった。だが、ここ数日は各テレビ局は大騒ぎで記者を派遣して安田の動静を報じているし、中には「国民が心配していた」などと勝手に話をでっち上げる者まで出てきた始末だ。私には遺憾ながらかかる暴虎馮河の遊を発揮する者たちの心情は全く理解できず、掴まってしまった後は政府に目に見えない工作や苦労をかけて国費を使わせていることを意に介しておらず、救出されるのが当然であるかの如くに思っているように見えるのは、誠に不遜であると断じたい。

「自己責任」などと言って危険な地帯に出て行くのであれば、現地で掴まってしまったような場合には政府に救いの手を国費を使って差し伸べて貰いたいと当然の権利のような態度を見せるのはおかしいと思う。何処かの局では「安田氏が帰国した後ではシリアの具体的な情勢を聞かせて欲しい」などとお為ごかしを言っていたが、私にはシリアの内戦の状態などは既に十分にマスコミ報道で知り得ているし、拘束されていた者が何か目新しいことを言うことなどに全く期待などしない。

第一に、マスコミに登場した中近東問題の専門家の方々が言われるには「反体制派であろうと誰だろうと、拘束したからには身代金の支払いなくして解放されない」のだそうだし、官邸の機密費に詳しいという平野貞夫は「今や60億円は準備されているはずだし、その使い道には領収証も不要」と指摘していた。また専門家たちの観測では、液化天然ガスでは我が国を最大の得意先とするカタールが仲介したことであって、一説には身代金は150万ドルとも言われているし、300万ドル説まであるとのことだ。その金額はカタールが代払いしているので何れは弁済するのだろうが、我が国は身代金は払っていないという理屈は成り立つのだそうだ。

が、直接だろうとカタール経由であろうと、国費から出費されることは変わらないのだ。「自己責任」だと称しているとかの安田純平は、それだけの膨大な金額の支出を国に強いていたのだ。そのような人物が無事に解放されたからと言って、お祭り騒ぎで英雄扱いするマスコミの不見識には呆れる他はない。現地のトルコに飛んだ記者たちは「仮定の話ですが」と断った上でも「政府の出費を強いたことをどう反省するか」くらいはぶつけても良くはなかったか。私は「解放されて良かった」と手放しで喜んでいる場合ではないと思うのだ。私は憤慨している。


10月24日 その2 アメリカの労働力の質の考察

2018-10-24 15:39:50 | コラム
内側から見てきたアメリカが抱える労働力の質の問題:

労働組合とは如何なる存在か:

この点を以下の挿話(カタカナ語ならば「エピソード」だ)をを使って表してみよう。ここには経験談と伝聞(secondhand)と二種類がある。

先ず経験談では、1988年にW社のある事業部のマネージャーから副社長までの30数名の集団に混じって我が国でデミング賞を獲得している(TQCに優れた)工場を2週間かけて勉強の為に回った時のことだった。一行がトヨタの系列の工場を「カンバン主義」を学びに訪れたのだった。私は視察団の一員として参加していたのだったが、工場見学する我々の最後尾についてこられた工場の方が「今日は面白いことを準備してありますから」と私に囁かれたのだった。

それは後で解ったのだが、確かに「面白い」どころではない大変な企画で、私は「流石にトヨタで、そこまで熟知しておられたか」と感嘆させられた演出だった。見学が終わった後で講堂のようなところで質疑応答になった。我が方には“Question asking team”が組織されており、質問は準備されていた。ところが、司会役の工場長が壇上に並んだ人たちを紹介して「私の右側が工場の幹部で、左側が組合の幹部」と述べられたところで、我が方は大いに動揺して「何で我々の面前の壇上に組合員如きが並ぶのか」と憤慨したのだった。

この時点で工場の方が私に囁かれたことの意味が理解できた。多くの方には直ちに理解できないかも知れない出来事だろうが、「苟も副社長兼事業本部長以下の幹部が顔を揃えた席に、組合員の代表が同席して質疑応答をするのか」という怒りなのである。解りやすくズバリと言えば「身分が違うだろう。ふざけるな」とでも表現すれば良いのかも知れない。アメリかでは労働組合とはそういう位置づけになっていると言うこと。

私は既に会社側と労働組合とは別個の存在であると指摘したが、「別個」とはこのような身分の違いだったのである。海外経験が豊富なトヨタはこのような「企業社会における文化の違い」を十分に認識された上での演出だったのだ。だからこそ「流石」と恐れ入った次第だった。通訳としてずっと一緒に旅をしてきた2人の通訳の女性たちも少し戸惑っていたが、やがてアメリカ側も落ち着いて質疑応答は穏やかに進行したのだった。勿論、帰りのバスの中で私から敢えて「文化の違い」の解説を試みておいた。

委員長は本社ビルの外にいた:
次は伝聞である。これも非常に印象的で、後難を恐れずに言えば「我が国の大企業の経営者と雖も、両国の間に存在する文化の違いをご存じではなかった」という良い(悪い)例だと思う。それは、ある我が国の大企業の社長さんがアメリカの関係先のCEOとの会談をする運びとなって、アメリカに出張されたそうだ。その際に「労働組合の委員長とも会談したいので」とお願いして快諾を得ていたのだそうだ。

ところが、CEOとの会談が無事に終わったが、彼からも周囲にいた誰からも労働組合の「ロ」の字も出てこなかったのだそうだ。この際、社長さんが単身で出向かれたか否かは措くとして、何のお知らせもないとはおかしいと思われたし、あるいはキャンセルになっていたのかとすら考えたのだそうだ。そして、壮麗なる本社ビルを出てみるとそこの外の階段に敝衣を身にまとった男が座っていたのだそうだ。その男が「貴方はXXさんですか。私がお約束を頂いた委員長のQQです」と名乗ったのだそうだ。

当惑した社長さんは取り敢えず挨拶は返したが「何故この本社ビル内の然るべき場所でお待ち頂けなかったのか」と当然の疑問をぶつけられたそうだ。ところが、委員長の答えは「滅相もない。我々如きが本社ビル内に立ち入って、貴方のような方をお待ち申し上げることなどあり得ないのです」だったそうだ。私には十分にその答えが意味するところは理解できる。だが、我が国の常識からすれば「それはないだろう」となるだろう。

だが、これがアメリカにおける労働組合の企業社会におけるstatusだと言えば解りやすいか。これこそが、私が指摘してきた「別個の存在」の意味を具体的に表す一例であると思って採り上げた次第だ。彼らが自分たちの社会が決めたというか、法的に定められた地位をどう考えているかはここで論じようとは思っていない。かかる違いがあるのがアメリカの企業社会の文化であると認識して頂ければ幸甚だ。

労働力の質の問題が何故生じるのか:
この点は先日採り上げた「我が国とアメリカの労働組合の違い」のところで、

「組合員の仕事は年功序列というか勤務年限によって一段ずつ上の段階に上がり、そこで時間給も昇給していく仕組みになっているのだ。我が国との大きな違いは「彼らは時間給制度の下で働いている」のである。」

という表現で概要を説明しておいたのだった。この表現は「言うなれば、こういう形でアメリカの労働力の質が決して高くないのは何故か」という解説を密かに埋め込んでおいたつもりだった。かかる実態は、アメリカの企業の外におられる方に対しては、会社側が敢えて見せようとも思わないだろうし、また一度や二度アメリカの工場の現場を見学したところで「なるほど、そういうことだったか」と認識できるような性質ではない」のである。

即ち、私が「別個な存在」と表現したのは、組合員たちは“union card”という身分証明証を得て何らかの業界横断の職能別組合員となって就職することから始まるのだ。私が教えられた限りのことでは、新入りは先ず雑役というか場内の清掃作業員から始めて、時が経つにつれて段階的に上の(というか熟練を要するような)地位というか仕事に就けるようになって行くのだ。既に何度も指摘したことで、組合員は時間給(hourly wage)であるから、仕事が高度化した技術を求めていくのと勤務年限に伴って、自動的に昇給していくのだ。

即ち、ここには年功序列制があって、技術が向上したかどうかとは別なことで昇給はしていくのである。私はこの辺りに問題があると思っているし、会社側の者たちもその点は十分に認識している。勿論、、経験者からの指導もあるだろうが、アメリカの現場には非常に良く出来た「作業のマニュアル」が用意されていて、英語が解る限り(英語が理解できれば)誰にでも仕事のやり方が解るような、嘗ては多くの日本からの工場の訪問者が感動した指示書が常備されているのだ。

問題はここから先にあるのだ。これまでに何度述べたか解らないが、USTRの代表だったカーラ・ヒルズ大使が1994年に「アメリカの労働力の質を高める為には識字率の向上と初等教育の徹底が必要」と言われた事を想起して頂きたい。工場の管理職は言う「読めない奴がいるので」なら未だ良い方で「読んだ振りをしやがる奴がいるので」と。折角優れたマニュアルが用意されていても「読めない」のではどうしようもないのだ。そういう層に属する者もいれば、トランプ大統領が排除しようとされた海外からの英語もままならず移民もいるのがアメリカの組合なのである。

問題はここまでで終わってはいない。私は年功序列制で職位も上がれば時間給も上がっていくと指摘した。ということは「敢えて向上心に燃えて自らの職場での敢えて「スキル」と表現するが、言い方は悪いが「努力しなくとも時間給は上がっていく」のである。「簡単にこういう環境下にある組合員たちを奮い立たせる為には何をすべきか」については、我が社は色々と創意工夫して彼らを叱咤激励もしたし、何故に品質を向上させねばならないかを機会があるごとに説いて聞かせたし、褒めるべき時は褒めてきた。

また、各シフト明けの組合員に残業料を支給して一堂に集めて「君たちはこれまでも素晴らしい仕事をしてきてくれたが、世界の市場にその地位を確立し、世界の#1のサプライヤーになる為には君等のより一層の努力が必要である。事業部の命運は君たちの双肩にかかっているし、我々は君等ならばやって見せてくれると確信している」といったようなプレゼンテーションを丸一日かけてしたこともあった。兎に角「品質なくして成功もなく、job securityもない」と説き続けた。

ある時、組合員の中でも最もボス的な存在で工場の管理職たちがその扱いに苦心惨憺していた大男が、偶々出張で現場にいた私に「今仕上がっている紙を見てくれ。俺は問題があると思うが、班長が『何でも良いから沢山生産すれば良いのだ』という主義で合格品にする気だ。お前の意見を聞かせてくれ」と申し出てきた。それは私も一目見て「規格外品」と判定した。そこで私は直ちに技術サービスマネージャを現場に呼んで判断を求めた。

勿論、規格外品と判定したのだったが、彼が何事にもまして感激したことは「あの男がそこまでの品質についての意識を持ってくれるに至ったか。我々の積年の組合員たちの意識改革の努力が結実したとは」という点だった。これは決して過ぎた昔の自慢話をしているのではなく、「アメリカの労働力の質の問題は彼ら組合員たちの質の問題でも理解力の有無ではなく、如何に彼らの意識を改革していくかにも大いにかかっている」という経験談を述べているのだ。

彼らに目的意識を持たせ、向上心を植え付けて、何を為すべきかを説いて聞かせる努力を怠れば、何時まで経っても輸出市場での地位は確立できないし、輸入品の流入を防ぎきれない事態が生じるという意味である。


海外の事件に思う

2018-10-24 07:55:12 | コラム
恐ろしい事が多い:

ジャマル・カショーギ氏(Jamal Khashoggi)の殺害:

最初に「かショーギ」と聞いた時には、一瞬サウジアラビアには同じような名字が多いのかなと思った。と言うのは、17年の6月だったかに亡くなったと聞いた有名な大富豪で武器商人だった人物がアドナン・カショーギ氏(Adnan Khashoggi)だったからだ。このカショーギ氏はその最盛期にはヨーロッパ中の保養地を豪華な自家用ジェット機で飛び回って優雅に暮らしていると報じられていた。

ところが、矢張り今回大きな話題になっているジャマル・カショーギ氏はアドナン・カショーギ氏の甥御さんだったと報じられている。そのような華麗なる一族の方が、反政府的な記事を書くジャーナリストだったというのはやや意外だった。私が恐ろしいと言うのは、そういう記事の事ではなく、イスラム教なのかイスラム教国のサウジアラビアという国そのものの方針なのかは知らないが、反政府的な人物を如何に治外法権があるとはいえ、自国の総領事館内で殺害してしまうような事を敢えてする点である。

私が僅かに大学時代に勉強した宗教学では世界三大宗教であるイスラム教とは、そのような恐ろしい事を敢えてさせるような教義ではなかったという微かな記憶しかない。だが、近年においては現実にISのような集団が現れて乱暴狼藉のやりたい放題であったと報じられていた。私には「イスラム」と名乗っているあの集団が、果たして「イスラム教」という宗教を代表しているのかという疑問を抱かざるを得なかった。

そして、ここ新宿区の実態を見れば、誰が名付けたか知らないが新大久保駅のすぐ前に「イスラム横町」が出現し、ハラルフードを商うイスラム教が運営する店が陳腐な言い方で恐縮だが、それこそ雨後の竹の子のように増えてきたし、あのサウジアラビアの長くて白い衣装を身にまとった者まで闊歩しているのだ。未だ現実にイスラム教徒による刑事的犯罪こそ発生していないが、正直に言って薄気味悪い事は確かだ。

政府はそんな一市民の恐れを知らないのだろうが、労働力としての移民の増加であるかとか滞在期間の延長を言い出している。私には彼らが現状を知らないのか、あるいは人手不足解消策の前には何事が起きても関知しないとでも言うのかと、不安感を覚えさせられている。

中国へのODAを終了:
これが40年も続けられ、漸くこの度の総理の中国訪問で「終わりにする」と李克強首相と合意する事になったと報じられている。以前に聞かされた話で、北京(だったと思うが)の空港は我が国のODAによって建設されたが、空港の何処に行ってもそういう表示はないのだそうだ。如何にも「大国」中国ならばやりそうな事だと思って聞いた。そのODAの恩恵を受けていた国がGDPでは我が国を追い越して世界第2の経済大国になってしまったのだ。

その成り上がった経済大国且つ軍事大国をトランプ大統領は徹底的に叩く決意を示され、既にマスコミ的に言えば関税賦課の応酬による「貿易戦争」という事態に突入していた。先日聞く機会があった産経新聞前副社長の斉藤勉氏はその講演で「アメリカは中国が駄目になるまで叩く方針である」とまで言われていた。そのような「叩くべし」、「潰すべし」という存在になり果せた中国に、我が国は40年にもわたってODAを続けていたのでは、トランプ様もさぞかしお怒りかなどと考えてしまう。安倍総理に李克強氏は感謝の意を表明するのだろうか。そこが疑問だ。

台湾の列車の脱線事故:

本日辺りから報じられるようになった事は「あの脱線は運転士が安全装置を切っていた事」が原因であったようだという点である。何処のテレビ局だったかは失念したが、事故の一報では「車両は日本製で名古屋の日本車輌製造が納入したもの」と嬉しそうに報じた。彼らはかかる自虐的な報道の仕方が好みらしいのだ。私に言わせて貰えば、「何も真っ先に如何にも日本製の車両が原因であったかの如き事を言う必要があるのか」なのである。

彼らがこんな事を言うはずもないが「当該車両は日本製だが、恐らく運転士が何らかの誤った運転をしてこの大事故を引き起こしたものと推察している」と言って見ろという気がした。近頃の我が国の一部の製造業では「製品の物性値を改竄する」などという論外な不正を犯すところが増えたのは極めて遺憾だが、いきなり日本製の車両までを疑うかのような自虐的な報道の姿勢にはウンザリである。


我が国とアメリカの労働組合の違い

2018-10-23 09:00:35 | コラム
我が国とアメリカとの企業社会における文化の違いの一例である:

この件は2014年に最初に取り上げたところ、今日に至るもお読み頂いているようなので、今年になって一度加筆・訂正した見た。だが、未だ説明不足だと思われる点があるので、この際敢えて再度加筆・訂正しようと考えた次第。

これまでに述べて来たことはアメリカの紙パルプ産業界で経験したことであるとお断りしてあったが、他の産業界でも会社対組合の関係の在り方は同じだとは聞かされている。ご一読願えば、我が国とアメリカに於ける労働組合の在り方の違いを認識して頂けると考えている。

私は我が国とアメリカの根本的な違いは「アメリカの製造業では我が国のように大学の新卒者を定期的に採用し、先ずは月給制の組合員として工場勤務を経験させ教育することが一般的である点」にあると認識している。アメリかには(銀行等を除いては)そもそも新卒を採用してその企業独特の方法で教育するというシステムはないし、組合員という身分から始まって係長なり課長代理なりに任じられて組合員から会社側に移るという制度も勿論ないのである。

この他の我が国とアメリカの労働組合の在り方の最大の相違点は、アメリカではその業界を横断する職能別組合(Craft unionという)であることは、既に何度も指摘してきた。アメリカの労働組合員は「法律により保護された会社とは別個の存在」なのである。彼らは組合に入って、その上で各社の工場等に配属されると思えば解りよいかと思う。

組合員の仕事は年功序列というか勤務年限によって一段ずつ上の段階に上がり、そこで時間給も昇給していく仕組みになっているのだ。我が国との大きな違いは「彼らは時間給制度の下で働いている」のである。

その工場の現場の実態をより具体的に言えば、アメリカの紙パルプ工場の現場には紙パルプの労働組合員の他に、製造の作業に関連するあらゆる種類の組合員がいるということなのだ。即ち、電気関係、営繕、輸送等々の職業の労働組合員が入り交じって作業をしているということ。ここまでで、我が国との著しい相違点がお解り願えたと思うのだ。

私がこのような現場の在り方が如何なる時に難しい事態を引き起こすかを経験したのは、アメリカの製造業の会社に転進してから何年か経った後だった。

即ち、私のように日本の会社で育った本社機構に属する者が現場に入っていって、組合員と会社の関係が如何なるものかという事を知る機会はそう滅多にあることではないのだ。また、実際のところ、本社機構にいる者(管理職等)が工場を訪れて組合員と業務のことで語り合うとか打ち合わせをすることは先ずあり得ないと言って良いだろう。

労働阻害行為になる:
その事故が発生した時には、私は偶々工場の事務棟にいたので、製紙工場の原料部門に問題が発生して抄紙機が停止した緊急事態発生と知らされたのだった。

そこで居合わせた会社側のパルプ部門の製造担当者(我が国でいえば係長辺りか)と現場に駆けつけたのだった。私はその担当者が組合員から転出してきたという珍しい経歴の持ち主と承知していた。この点も以前に述べたことだが、法的に別組織である労働組合に属している者が、会社側に転進することは例外的なのである。

繰り返してより詳しく言えば「アメリカでは新卒で入社してきた者が、先ず工場に配属されて経験を積んでから本社に移動するといったような過程を経ることはない」という意味である。職能別組合に加入した者は会社側とは別個の組織に属するのだから、別組織の会社側に転進することはないし、会社側に移れば「職の安全」(=job security)の保証はなくなるのであるから、そのような危険を冒す者は希である。

彼は現場に着くやいなや、事故の原因を把握して組合員にテキパキと指示をした。しかし、彼は現場が指示通りに動かなくても黙って見ているだけだった。それを疑問に思ったので「何故貴方は手を拱いていているだけで、直接手を下さないのか」と尋ねてみた。

彼の答えは「現場の作業は組合員である者たちが進めるもので、言わば別の組織である会社側である私が直接手を出せば、彼等組合員の労働を阻害した行為となって、労使間の係争問題になる。故に、私は成り行きを見守っていることしか出来ない」だった。私は会社側対組合の問題を多少は認識していたが、そこまで厳密というか厳格なものとは思っていなかったので、大いに勉強になった次第。念の為に確認しておくと、同じ会社の中にあっても、労働組合員は法律で保護された組合という別な組織に属しているということだ。

即ち、労働組合員は業界を横断する職能別の組合員で、言うなればその上部団体からW社の工場に派遣されてきているのだと考えれば解りやすいと思う。その職能別組合には紙パ労連もあれば電機労連もあるということだ。

彼は言葉を継いで「仮にマシン設備全体がここで停止したとしよう。そして問題が電気系統にあって、一度何処かで電源を抜かねばならない事態と判明したとしよう。その際に紙パルプ労働組合員は電源を抜く行為をしてはならないのだ。飽くまでも電機労連の者が駆けつけるまで待たねばならないのだ。それが職能別組合の法的な決まりというものだ」と教えてくれた。

私は後刻、我が国のある大手メーカーの人事・勤労部門の権威者にこの話をして、ご意見を伺ってみた。彼は「我が国でも戦後間もなくは職能別組合制を採っていた業界もあった。しかし、今貴方が言われたような問題に直面して大いに難渋させられたのだった。そこで、現在我が国の多くの企業が採用している企業別の組合制が導入されたのだった。しかし、アメリカの紙パルプ産業界は未だにその職能別組合制を採っている。その当否を論じるよりも、そこに企業社会の考え方の違いが認められる」と解説された。

即ち、既に述べたように組合員はその会社の工場で仕事をしていても、飽くまでも上部組織である業界横断の職能別組合に所属していると解釈すると解りやすいと思う。

W社の我が事業部では90年代に入ってから、紙パルプの組合員たちに自分たちが生産した紙が日本の印刷・加工と小売店等の現場でどのように使われているかを見せる為に、何名かの組合員を選抜して日本に派遣したことがあった。

その目的は「何故、諸君が一層努力して品質を常に改善し同業他社製品以上に向上させない限り、日本市場に定着して占有率を伸ばして行かねばならいか。その努力が君らの職の安全に繋がっていくこと」を理解させて、これまで以上に品質向上を心掛ける為の発憤材料にさせることを企画した。そして、何名かを順次に日本に出張させることにした。

その際に工場側(会社側でも良いだろう)が先ず手を打ったことは、職能別組合の上部組織の代表者と「出張する者たちが海外にいる間の時間給をどのように計算するか」を話し合ったのだった。即ち、工場での勤務ならば一直は8時間で簡単明瞭だが、海外ともなればどの時点から時計の針を動かすのかというのが、重大な案件だったのだ。

実は、意外にもW社では(アメリカでは?)本社機構に所属している者でも容易には日本等の外国出張の機会は巡ってこないのである。従って労働組合員の海外出張という先例がなかったことでもあった。これも日本とアメリカの企業社会における典型的な文化の違いの例と言えるだろうと思う次第だ。


10月22日 その2 何故にカタカナ語を濫用するのか

2018-10-22 14:51:51 | コラム
日本語を破壊しつつある恐るべきカタカナ語の氾濫:

これは16年の10月18日に一度発表したもの。しかしながら、その後でもマスコミの世界で余りにカタカナ語の語彙の拡張と濫用が続くので、それは余りにも好ましくないと痛感したので、ここに再度加筆・訂正してご高覧に供したいと思うに到った次第だ。こういう主張は何度でも繰り返しておくべきだと信じている。

レガシーって何:
これはカタカナ語排斥論者を憂鬱にさせてくれた現象の一つである。16年の小池都知事の就任以降“legacy”という難しいというか文語的な言葉がカタカナ語化されて普及し始めて、独り歩きをしているのだ。残念ながら私のW社在職中の英語力を以てしても、仕事の面でも日常的な会話の中で使う必要もなかったし且つまた使った記憶がない言葉である。それがカタカナ語化されてスラスラと出てきて、テレビでも新聞でも当たり前のようにオリンピック関連の施設について使われるようになったのだった。

本当に恐れ入る我が国の学校教育の英語における単語重視の笑うに笑えない無意味な成果であると切り捨てたい。「貴方はこの単語を使って何か英語の文章が書けるのか」と問いかけられて「出来る」と言える人がいたらお目にかかりたいほどだ。

Oxfordを見ると、“money or property that is given to you by ~ when they die.”となっていた。「何方かが亡くなった後で貴方に与えられる金銭か資産」のことのようだ。ジーニアス英和には「(遺言によって譲られる)遺産(inheritance)、《一般に「相続財産」はheritage》」となっていた。次には「受けつがれたもの、名残、遺物」と出ていた。何となく元の英語の意味からすると違和感を覚える使われ方だが、最早誰も止められない形で普及したようだ。

このように目下濫用しまくられているカタカナ語を使った文章を戯れに作ってみたら、このようになった。

“「イベント」の「キーワード」は「チャレンジ」であり「リアル」に「インパクト」があって「パワー」を感じるので「シリアス」に「コメント」することも「イメージする」ことも出来ない”という具合になった。

これを読まれた多くの方はこの例文の意味がお解りになるだろうと思う。私は解ってしまうのはかえって困ったことだと本気で考えている。近頃テレビ等に登場する無知蒙昧な輩や有識者風の先生方のご愛用のカタカナ語を冗談半分で使って作文してみるとこうなっただけのことなのだ。私は「これでは最早日本語ではなく、何か異質の言語である」と言いたい思いである。試みに漢字と熟語を使って日本語に焼き直してみれば「この催し物の鍵となる言葉は挑戦であり本当に衝撃的で勢いを感じるので、本気で論評することも何かを思い描くことも出来ない」辺りになるかと思う。

私が恐れ且つ嫌っていることは「何処まで漢字文化を避けるのか、あるいは無視し日本語を破壊すれば気が済むのか」という点なのである。更に「そもそも、英語の言葉をカタカナ語化することで、漢字本来の意味を表現できると思うの誤りである」のだ。だが、それだけではなく、恐らく彼らカタカナ語乃至は借用語崇拝者どもは最早漢字文化が理解できないので、格好を付ける為に習い覚えさせられた(自発的に習い覚えたのではないと敢えて断じる)英語の単語の意味の一部だけを切り取って代替しているに過ぎないのではないのか。その意味を取り違えないで使われていれば未だ救いがあるが、誤解か誤認識している例が多いのが甚だ宜しくないのだ。だからこそ、私は「単語は流れの中でその使い方をと意味を覚えよ」と主張するのだ。

このままにカタカナ語の濫用が進めば、私が危惧するところは「漢字文化を排除して全てハングルに置き換えてしまった韓国にも似た事態になりはしないか」なのである。仮令無意識であろうとも、決して真似るべきことではないと断言する。だが、私には「現実はその方向に進んでいる」かのように見えるのだ。

死語と化しつつある漢字の熟語:
テレビ局がおかしなカタカナ語を濫用し続けると「耳から入る言葉の影響力は読むよりも強烈だ」という私の持論が現実となりつつあり、最早「催し物」という熟語は死語と化し「イベント」にされた、「挑戦」も「チャレンジ」に置き換えられた。ここには採り上げなかったが、松坂大輔が使い始めた「リベンジ」も「仕返し」を消し去ってしまう猛威を振るっている。“revenge”は他動詞であり目的語が必要だとだけ言っておこう。英語では“retaliate”という言葉があって、この方が適切であると思うが、多分、難しすぎて誰も覚えていられなかったのだろう。

「思い描く」は「イメージする」にされてしまった。「パワー」も困ったもので「身体能力に優れ、力があること」を全てこれで置き換えてしまった。Oxfordに始めに出て来るのは“the ability to control people or things”とあるし、次でも”political control of a country or an area”であるに拘わらず。

「シリアス」という表記も細かいことを言えば困ったもので、発音記号を見るまでもなく「シアリアス」と表記する方が原語に近いのだが、例によって例の如くにローマ字読み式に準拠してしておかしな表記にしてしまった。何処かに英和辞書すら持っていない通信社が何かがカタカナ語化したのだろうと疑っている。因みに、Oxfordを見ると、いきなり出てくるのは“bad or dangerous”で、次が“needing to be thought about carefully; not only for pleasure”と出てきて、間違った言葉を引いたかの感すらある。

英語での日常会話では“Are you serious?” などと言えば「君は本気かい?」という意味になるのだが、「シリアス」は「深刻」という意味で使われているようだ。

兎に角、ここで声を大にして指摘しておきたいことは「単語帳的知識に基づいて英語の言葉を漢字の熟語の代わりに、格好付けて使うのを好い加減に止めろ」なのである。こんなことを続けていれば、我が国の漢字文化を破壊するだけではなく、国語自体を訳の解らない代物にしてしまうだろうと危惧する。その結果で英語に訳そうとしても意味を為さない言葉にしてしまいかねないとシリアスに案じているのだ。また、おかしなカタカナ語を読んだり聞いたりする方たちも、解ったように気分になっては貰いたくない。

「カタカナ語は元の英語の言葉の意味と使い方を正しく理解できていない為に、誤用された上に濫用されて日本語を破壊しているのであり、無闇に格好を付けて使うべきではない」と認識して欲しいのだ。