興味深い力対力の勝負だった:
観戦記:
20日夜に世界女子ヴァレーボールの決勝戦、セルビア対イタリアの試合を「外国人が優勝を争えば、如何なる展開になるか」と大いに興味を持って観戦した。結果としては予期したように凄まじい「力対力」と「身体能力対身体能力」と「身長対身長」の争いとなった。そこには精密な鍛え抜いたスキルとか守備といったような、我が国のヴァレーボールの特徴となる技巧の影は薄く、まるで異質の競技を見ているかのような感が濃厚だった。
この辺りには何度も採り上げてきたMLBに転出したダルビッシュが初めてアメリカのキャンプに参加して「何か異質の競技をやっているのかと思った」と慧眼にも述べたのにも似た異質感が満載だった。
その特徴というか力強さを形容してみれば「身長が190 cmを超えるアタッカーが3.5 mほどのジャンプをして、相手の高いブロックの遙か上を打ち抜いた力一杯のスパイクが、チャンとそこに待っている相手側の選手の真っ正面に飛んでも、その余りの強さに弾き飛ばされてしまう」という具合で、我が国の精密な技巧と固い守備に見慣れてきた目には「違い過ぎる」と思わせられるだけだった。悪い言い方をすれば「雑に力任せに打ち込んでいるだけで、緻密さには欠けている」となるだろうか。
私の主張:
別な言い方をすれば「女性の体の特長を余り感じさせない男子のような体格をした集団が、懸命に力と力をぶつけ合って「守れるものならば守って見ろ」とばかりに打ち込み、それを「ならば守って見せようじゃないか」とばかりに応酬して、アメリかが発祥の地であると聞くヴァレーボールとはそもそもこういう「力を誇示し合う競技だったのか」と思わせてくれた。その力を発揮する為には体格と身体能力も必須だが、必要にして十分な体力が鍛え上げられていると見えた。その辺りに我が国のスポーツとの違いが見えたのである。
聞くところでは「アメリかではプロにまでなって行く選手たちは「我が国とは仕組みが異なっていて、自分が好むというかやりたいと思う種目を選ぶのではなく、スポーツ選手希望の者を集めてその素質がどの競技に適しているかを専門家が判定して、その種目に集中させ、それで能力を発揮できるように鍛え上げていく組織がある」のだそうだ。その手のスクールの出身者にはテニスのかの錦織圭君がいれば、大坂なおみのような者がいるという具合である。私には「典型的なスポーツの文化」の違いと見えるのだ。
その仕組みがどれほど優れているかを示している例に、錦織圭君を挙げたいと思う。松岡修造はそもそも錦織君に素質があったと主張するが、私は錦織君程度の体で世界のランク第4位にまで上がれたのは、そのアメリカ式適性を判断した上での鍛え方の賜物であったと思っている。私は未だアメリカではフットボールの世界ではひよこ程度の我が国の高校生がそのスクールに留学して、我が国の大学生も及ばない走力がつくまで鍛え上げられたという実例も聞いている。
ここまでで何を言いたかったのかを解説すれば、「我が国の指導のシステムには残念ながら未だにアメリカ式の合理性が備わっていないこと」と「間違っていたらご免なさいだが、我が国の指導者たちは(アフリカ系をも含めて)外国人との体格差を意識する余り、根本的な身体能力の強化とウエイトトレーニングのような科学的且つ合理的な体格を付けることよりも、精密な技巧とスキルの訓練を優先しているのではないか」と言いたかったのである。
別な角度から言えば、アンダーアーマーの我が国の販売権を有するドーム社の社長だった元法政大学フットボール部監督の安田氏は「ラグビーの日本代表選手たちのような体格を備えたサッカー選手を養成して、欧米の諸国に負けないようなサッカーテイームを作ろう」という企画でクラブまで作っている。と言うことは、我が国の代表テイームの選手たちも、体格と身体能力が未だしだと安田氏は見ているという意味である。私も残念ながら彼の見解を支持せざるを得ないと思っている。
確かに、森保監督率いる新生日本代表に抜擢された南野、堂安、中島翔に既存の大迫等は外国人に簡単には当たり負けしないような経験を積んでは来たが、体格と身体能力という点では「もう一つか」の感は拭いきれない。サッカーではヴァレーボールやバスケットボールとは異なって「身長」はそれほど絶対的なハンデイキャップとはならないが、身体能力の差は未だ未だ補い切れていないと見ている。
私は精密な技術や技巧やスキルを養うことを無視しようと言っているのではない。アメリカ式の合理的というか科学的な身体能力の育成に更なる努力を傾けるべきではないかと考えているのだ。その必要性をあのセルビア対イタリアの全力での打ち合いの中に見出したという意味である。だが、その種目に適した者を集めて養成するという方向には我が国では急には変われまい。
遺憾ながら韓国では既に集中的指導の実行段階にあり、ゴルフではあの世界のランキングで第1位になった女子まで養成しているし、現に我が国のゴルフ市場を荒らし回っているではないか。我が国の体育会制度を見直してのアメリカのNCAA方式の導入が叫ばれているが、その前にやっておくべきことがあるのではないかと言っておきたいのだ。
観戦記:
20日夜に世界女子ヴァレーボールの決勝戦、セルビア対イタリアの試合を「外国人が優勝を争えば、如何なる展開になるか」と大いに興味を持って観戦した。結果としては予期したように凄まじい「力対力」と「身体能力対身体能力」と「身長対身長」の争いとなった。そこには精密な鍛え抜いたスキルとか守備といったような、我が国のヴァレーボールの特徴となる技巧の影は薄く、まるで異質の競技を見ているかのような感が濃厚だった。
この辺りには何度も採り上げてきたMLBに転出したダルビッシュが初めてアメリカのキャンプに参加して「何か異質の競技をやっているのかと思った」と慧眼にも述べたのにも似た異質感が満載だった。
その特徴というか力強さを形容してみれば「身長が190 cmを超えるアタッカーが3.5 mほどのジャンプをして、相手の高いブロックの遙か上を打ち抜いた力一杯のスパイクが、チャンとそこに待っている相手側の選手の真っ正面に飛んでも、その余りの強さに弾き飛ばされてしまう」という具合で、我が国の精密な技巧と固い守備に見慣れてきた目には「違い過ぎる」と思わせられるだけだった。悪い言い方をすれば「雑に力任せに打ち込んでいるだけで、緻密さには欠けている」となるだろうか。
私の主張:
別な言い方をすれば「女性の体の特長を余り感じさせない男子のような体格をした集団が、懸命に力と力をぶつけ合って「守れるものならば守って見ろ」とばかりに打ち込み、それを「ならば守って見せようじゃないか」とばかりに応酬して、アメリかが発祥の地であると聞くヴァレーボールとはそもそもこういう「力を誇示し合う競技だったのか」と思わせてくれた。その力を発揮する為には体格と身体能力も必須だが、必要にして十分な体力が鍛え上げられていると見えた。その辺りに我が国のスポーツとの違いが見えたのである。
聞くところでは「アメリかではプロにまでなって行く選手たちは「我が国とは仕組みが異なっていて、自分が好むというかやりたいと思う種目を選ぶのではなく、スポーツ選手希望の者を集めてその素質がどの競技に適しているかを専門家が判定して、その種目に集中させ、それで能力を発揮できるように鍛え上げていく組織がある」のだそうだ。その手のスクールの出身者にはテニスのかの錦織圭君がいれば、大坂なおみのような者がいるという具合である。私には「典型的なスポーツの文化」の違いと見えるのだ。
その仕組みがどれほど優れているかを示している例に、錦織圭君を挙げたいと思う。松岡修造はそもそも錦織君に素質があったと主張するが、私は錦織君程度の体で世界のランク第4位にまで上がれたのは、そのアメリカ式適性を判断した上での鍛え方の賜物であったと思っている。私は未だアメリカではフットボールの世界ではひよこ程度の我が国の高校生がそのスクールに留学して、我が国の大学生も及ばない走力がつくまで鍛え上げられたという実例も聞いている。
ここまでで何を言いたかったのかを解説すれば、「我が国の指導のシステムには残念ながら未だにアメリカ式の合理性が備わっていないこと」と「間違っていたらご免なさいだが、我が国の指導者たちは(アフリカ系をも含めて)外国人との体格差を意識する余り、根本的な身体能力の強化とウエイトトレーニングのような科学的且つ合理的な体格を付けることよりも、精密な技巧とスキルの訓練を優先しているのではないか」と言いたかったのである。
別な角度から言えば、アンダーアーマーの我が国の販売権を有するドーム社の社長だった元法政大学フットボール部監督の安田氏は「ラグビーの日本代表選手たちのような体格を備えたサッカー選手を養成して、欧米の諸国に負けないようなサッカーテイームを作ろう」という企画でクラブまで作っている。と言うことは、我が国の代表テイームの選手たちも、体格と身体能力が未だしだと安田氏は見ているという意味である。私も残念ながら彼の見解を支持せざるを得ないと思っている。
確かに、森保監督率いる新生日本代表に抜擢された南野、堂安、中島翔に既存の大迫等は外国人に簡単には当たり負けしないような経験を積んでは来たが、体格と身体能力という点では「もう一つか」の感は拭いきれない。サッカーではヴァレーボールやバスケットボールとは異なって「身長」はそれほど絶対的なハンデイキャップとはならないが、身体能力の差は未だ未だ補い切れていないと見ている。
私は精密な技術や技巧やスキルを養うことを無視しようと言っているのではない。アメリカ式の合理的というか科学的な身体能力の育成に更なる努力を傾けるべきではないかと考えているのだ。その必要性をあのセルビア対イタリアの全力での打ち合いの中に見出したという意味である。だが、その種目に適した者を集めて養成するという方向には我が国では急には変われまい。
遺憾ながら韓国では既に集中的指導の実行段階にあり、ゴルフではあの世界のランキングで第1位になった女子まで養成しているし、現に我が国のゴルフ市場を荒らし回っているではないか。我が国の体育会制度を見直してのアメリカのNCAA方式の導入が叫ばれているが、その前にやっておくべきことがあるのではないかと言っておきたいのだ。