新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

何度でも同じ主張を繰り返すが

2021-11-25 11:39:16 | コラム
カタカナ語の濫用の問題点:

今朝ほどのニュースで愛知県弥富市の中学校で起きた事件の関連で、保護者の一人が「子供たちの心のケアをしないとメンタルが」と言っていた。その後暫くして別件だが「誰それさんが何とか賞にノミネート」と言っていた。「誠に以て憂うべきカタカナ語の濫用」とは言わないが、40歳前後と見える年齢層ではここまでカタカナ語に毒されているかと思う時に、嘆く前にウンザリさせられた。

私が指摘する問題点は、

*日本語の表現力の問題:
日本語での思考能力と表現力が衰えてしまうのではないかと言う点だ。即ち、何となく英語風で格好が良いので、深く物事を考えずにカタカナ語に依存してしまうことになるのだ。その保護者の例では「子供たちの心の中にまでに十分な配慮をしてやらないと、精神状態が不安定になってしまうのではないか」と言いたかったのだと、私は解釈している。この点は以前から指摘してきた事で「彼らにとっては難しいのかも知れない漢字の熟語を使って表現する事を、無意識に避けてしまう」という形の国語力の劣化現象だと断じたいのだ。

私が憂いている更なる問題点は「careであるとかmentalなどのような英語の単語の意味を正確に把握できているのか」という問題だ。何の問題意識もなく、テレビに出てくる専門家などの偉そうな人が使っているからなど言うような安易な理由で、真似てしまっているのだと考えている。私はそういう捉え方ではなくて、カタカナ語を見たり聞いたりしたら、直ちに辞書を引いて正しい意味と例文を見て欲しいのだ。チャンとそうしてあればmentalとは形容詞であり、名詞ではないので「精神状態」と「精神力」という意味にならないと解るはずなのだ。

*英文法の問題:
「ノミネート」も困ったもので、全部のキー局では「推薦された」という意味で使って、罪無き善良な一般人を惑わせている。この「動詞」は「誰それが何とかさんをXX賞に推薦した」という形には使われずに、“He was nominated for the QQ prize.”のように受け身の形で使うものなのだ。先ずはこのような文法論は措くとして、何故素直に簡単に「推薦されました」と漢字の熟語を使わないのかと言いたい。

敢えて、英文法関連の話を持ち出せば、我が同胞が英語で話すときに恣意的に受け身を使いすぎるという問題があるのだ。上記の“He was 云々」という例文でも「彼が誰によって推薦されたのか」という行為の主人公が出ていないのだ。これは不明確な文章であり、私は推薦しないのである。言いたければ「彼は何とかかんとか委員会によってQQ賞の候補者に推薦された」というように主語と誰が推薦したかを明確にすべきなのだ。要するに「英語とはそういう理屈っぽい言語だ」と知って貰いたいのだ。

「小うるさい事を言う奴だ」と思う方は多いと思う。そう言いたければ私は甘んじて受ける。だが、こうなってしまっている原因はと言えば「私が屡々して指摘して来た、我が国の至らざる英語教育にあるのだ。簡単に言えば「単語を覚える事に主眼を置いているのはまだまだとしても、その単語がどのような意味でどのような文章に使われているのか」まで教えていないから、単語の意味も例文も弁えずに、カタカナ語にして恣意的に使って格好を付ける虚け者が増えているのだ。

こういうテレビ局等々のマスメデイアの出鱈目を一向に是正しようともしない、学識経験者や有識者や専門家たちにも大いに責任があると思っている。テレビに登場してシレッとして「フリップなどと戯けた用語を使っていて恥ずかしくないのか」と言ってやりたい。


11月24日 その2 大久保通りに小さな変化が

2021-11-24 15:41:02 | コラム
韓国風の「~ドッグ」の店が廃業していた:

大久保通りの山手線外側に来れば、日本人相手の店が閉鎖されてイスラム教徒相手のハラルフードを中心とした商店に変わる事や、ネパール料理の酒場などに変わっていくのは、最早日常茶飯事であって、何も事改めて特記する事柄ではないのだ。セブンイレブンやファミリーマートなどは、僅か新大久保駅と大久保駅の間の1 km程の間に何軒もある。だが、その中の一店では普通の週刊誌を置いていなかったので驚かされた事もあった。それほど日本人相手では商売にならない街に成り果てているのだ。

ところが、である、1週間ほども前だっただろうが、風月堂の前を通ると女性が何人かの作業員を指揮して、2階から何かを運び出している所に遭遇した。この2階は以前には喫茶室になっていて、私は往年の取引先のグループ会社の社長さんだった方たちと、3.11の日に談笑していた場所だった。この街には珍しい落ち着いた噴気の店だった。だが、所詮は日本人が相手では成り立たなくなった模様で、2~3年前に雨後の筍如くにこの街に増えた「海外送金の事務所」に変わってしまった。

そして、先ほどその前を通過したのだが、2階は韓国語風の名前の「整体院」になっていた。また、その並びにある、物思わぬ若き女性たちに大人気だったはずの韓国風の「何とかドッグ」の店が内部を取り壊し作業中だった。その隣にあった韓国風の化粧品の店などは、今年の前半にゲームセンターに変わっていた。言わんとする事は「同じ日本人相手の店であっても、アジア系かイスラム系の店が成り立たなくなってきた」かのようなのである。いや、昨年から外国人が激減しつつあるので、経営が成り立たなくなったのかと思わずにはいられなかった。

本日などは多少涼しくなったとは言え、絶好の晴天なのだが大久保通りの山手線外側を動き回っている異邦人の数も、内側のKoreatownと比較すれば大いに減少していると感じさせられた。私はそういう傾向がこの街の風紀と美観にとっては好ましいと思うのだが、区政や都政の当事者たちはどのようにお考えになるのかと思いつつ、一段とアジア化が進んでしまった文化通りという名の横丁を通って帰宅したのだった。


日本シリーズを第三戦まで観戦して思う事

2021-11-24 08:54:00 | コラム
何故我が国のサッカーを観戦しても感動と興奮を与えてくれないのか:

野球の面白さ:

昨23日夜の日本シリーズ第三戦を見るに当たって、折角だから何れか一方のテイームを贔屓にしようと決めて、同じ事ならと言わば東京代表のヤクルトスワローズに勝たせてやろうと思って見ていた。そう決めて見ていれば、あのような一進一退の「シーソーゲーム」(=seesaw game)を見せられるとハラハラもするし、まさか打つまいと期待もしていなかった10打席無安打だったサンタナが試合をひっくり返すホームランを打ってしまうというような興奮もあったのだ。意外性を見出すのだ。

あのようにピッチャーとキャッチャー以外の7人が如何に必死になって守っていようとも、ピッチャーが打者の思う壺の所に投げてしまえば、あのような大袈裟に言えば九仞の功を一気にかく一発逆転があり得るのだ。ところが、UK式のサッカーでは我がA代表テイームが格下の相手に苦しめられたように、11人が最初から引いて守ってしまえば幾ら一所懸命にシュートしても、まるで高くて厚い壁に向かって蹴っているようなもので、デイフェンスに当たって跳ね返されてしまうのだ。詰まり、見ている方は「何をやっているのか」と苛立たせられるのだ。

W杯出場が危うくなってきていた我がA代表は先日のテレビ中継がなかった格下相手の試合でも、そういう事情でやっと1点を取って勝てたのだ。我が方にはサンタナのような意外性もある個性派や、吉田正尚も杉本裕太郎もいなかった。だが、森保監督が後半になって出してみた三苫薫が我が代表の掟を破って(?)ドリブルで左サイドを抜いて出て綺麗なセンタリングをして、三苫が2~3人のデイフェンダー(と言うのだそうだ)を抜いたお陰で手薄になったゴール前に駆け込んでいた伊東純也が、キチンと左足で蹴り込んだのだった。

何が言いたいのかといって「アメリカが発祥の地の競技である野球では、個人の主体性を際立たせる事ができるのだが、UK系のサッカーでは個人の能力もさることながら、全体の協調性が必須なのである。従って、個人技を鍛えた上での臨機応変に攻撃の態勢を整えて得点を狙うのである。南アメリカやヨーロッパのサッカーでは優れた個人技の上に各人の個性を活かした組み立てた形で攻めるのだ。

だが、我が方は全員一丸となって、極端に言えば個性を消してまでもテイームワークを尊重する傾向があるので、中々個性を発揮できない恨みがあるのだ。私は森保監督が恐らく三苫の個性を評価していたのだろうが、あのように個人技とスピードを活かしたドリブルで抜いて出る選手は、あの代表テイームの和には合わないとでも考えていたのかと疑っている。私にはUKのサッカー専門の記者に酷評されたと聞いた大迫や南野等々は没個性派の代表の如くに思えてならない。だから、歴代の監督は香川真司のような個性派を毛嫌いしたのだと確信している。

安全第一:
個性派が少ないという事の裏には、上述の「全体での和」が強調されていると思っている。この点はビジネスの世界にも言える事で、常に「テイームワーク」と「皆で一斉に」とか「全員が一丸となって目標達成に全力で」となっているのだと見ている。皆で助け合い補い合って目標達成に向かってまっしぐらというのが、我が国の美風であり文化であるのだから、それを否定するものではない。だからこそ、アメリカが発祥の地であるbaseballをやっても「全員が一丸となって」という精神が基調になる「野球道」を追い求めて精進し、努力するのだと思う。

サッカーでも同じようなもので、皆のためにとテイームのためにと安全を期して、無理する事無く危ういと見れば後方に戻してしまうか、安全な場所にいる味方にパスをしてしまうのではないかと見ている。私には責任逃れにしか見えないが、やっている方は「安全第一」であり、無理をして相手方にボールを渡さないように懸命なのだと見るようにしている。これでは興奮の感動もなく、古き良き時代のサッカー出身者の私に「A代表やJリーグのサッカーは詰まらない」と言わせてしまうのだと思っている。国民性と文化の問題だと思うのだが、如何か。

昨夜まで見ていて感じた事は「バッファローズの中島監督には多少の危険を冒しても攻めていこう」との思想が見えた。一方のスワローズの高津監督は少しでも安全な方に投手を替えたし、詰まらないほどに犠牲バントに執着して安全を期して攻めていたと見た。話は飛躍するが、岸田総理は安全運転を重視しているように見える、事中国対策からだけ見れば。


89歳となっての雑感

2021-11-23 09:20:27 | コラム
由無し事:

*大谷翔平が国民栄誉賞を辞退:

辞退は当たり前過ぎると思った。評論家やマスコミが批判するところでは「国民栄誉賞は歴代の内閣が人気取りの狙いもあって与えた傾向が認められる」だった。私には「その選考の基準はマスコミ報道による人気に惑わされてはいないのかと思える節がある」としか思えない。その典型的な例には、オリンピックを三連覇した女子レスリングの吉田沙保里には2012年に与え、四連覇した伊調馨には遅ればせながら2016年に与えた実績がある。更に、アメリカに行ってしまった松井秀喜に与えたのは、長嶋茂雄との抱き合わせの感が拭いきれない。

上記の受賞者は皆それぞれの競技から身を引いている人たちであるのに、大谷翔平はNPBとMLBを合算しても僅か8年の経験であり、本人は未だ来年があると言っている、現役バリバリの選手であり、21年にはその類い希なる素材に漸く花が咲いただけである。私は時期尚早であるし、未だ人気が凋落した訳でもない岸田内閣が、慌てて授与しようとした意味も意図も不明だと思っている。

*小池百合子東京都知事:
言論は自由なのだなと思わせられている。私はあれほど咳き込んでいて「過労のため入院」と報じられたときに、真っ先に疑ったのが肺癌だった。それは、残念にも故人になってしまった義妹が「何故これほど咳が続くのか」と受診したところ手遅れだったという、悲しい例があったので言うのだ。多くの報道機関は制約されていたのか否か知らないが「過労」としか報道しなかった。尤も、スポーツ紙の中には「重症による辞任説」を流した所もあった。

実は、私はこの2週間にも及んだ入院にさしたる関心がなかったので、ネット上にどのように言われているかなども調べてみようともしなかった。だが、その気になって検索してみれば「出るは、出るわ」で肺癌説が横行していた。そういうことを流すのが名誉毀損になるかどうか知らないが、小池都知事は良くも「フェイクニュース」が横行していると非難するか反論に出られなかったものだと、寧ろ感心している。

*小室圭・真子夫妻:
小室氏はアメリカに戻る際の服装にウインザー郷お好みのセーターの柄を模したカーデイガンを着用に及び、報道によれば75万円だかの2人分の航空券を購入し、解決金の約400万円を振り込んだと報じられていた。この他に出発まではホテル形式のようなマンションに滞在していたという。資金を豊富に準備していたのかなとも思った。だが、それが巷間伝えられているような、真子さんが内親王であった間に蓄えていた資金だったとすれば、世間とやらが「税金を資金源にした」と非難するのかなと思っていたが、そういう騒ぎもなかったようだった。

だが、気が付けば週刊新潮の11月25日号には、小田部雄次静岡福祉大学名誉教授がそういう趣旨の指摘をしておられた。これ以外には表だって小室夫妻を批判する話は出ていないような気がする。私は何日か前に「もうこの件には触れない」としてあったが、この記事を見てあらためて取り上げても良いかと考えた次第だ。

私はそれよりも何よりも、あの夫妻は何で選りに選ってニューヨークに生活拠点を求めたのかと不思議に思っている。アメリカには50州もあるが、その中でも物価は兎も角最も生活費も何も高く付くのがNYだというのは、一寸アメリカを知っていれば常識だと思うのだ。経済規模から考えれば西海岸のカリフォルニア州だってあるし、ワシントン州もある。法律事務所ならばアメリカ全土何処に行ったって数多くある。何故、夫婦揃ってプロテスタントのICUで学びながら、カトリック系のNYにあるフォーダム大学を選んだのかも不思議に思っている。

何れにせよ、小室氏が一層奮励努力して来年2月の“bar exam”に合格するかどうかを、遙か東京から見守っている事にしようとかと思っている。


日本シリーズを2試合観戦して

2021-11-22 10:34:54 | コラム
投手戦なのか貧打戦なのか:

などとは言うが、結構楽しませて貰った2試合だったし、色々と物思わせてくれた野球だった。26年前だったかに同じ顔合わせがあってヤクルトスワローズが勝ったという記憶はなかった。第1戦を見ての率直な感想は「アナウンサーたちが騒ぎ立てる三振奪取の虚しさ」だった。

第一戦:
先ずは野球マスコミが三振奪取に拘泥するというか、三振を沢山取る事を過剰に賞賛することの虚しさを感じさせてくれたこの試合から。バッファローズの先発山本由伸投手は紛う事なきNPBを代表するような優れたピッチャーであるし、NHKで解説した藤川球児もそう認めていた。確かに、山本は6回まで112球も投げて三振も九つ獲っていた。アナウンサーはご丁寧に一個獲る度に数え上げていた。私は無意味な事だと思って聞いていた。

この辺りが我が国の野球マスコミの至らないところだと、私は確信している。何故そう言うかを、分かりやすいと思う極端な数字を挙げて述べてみよう。それは飛び抜けた剛速球と変化球を操る投手が毎回三者三振を9球で成し遂げたとすれば、9回で81球投じる事になる。一方では、打たせて取る投手が毎回3球投じただけで3者凡退に打ち取れば、9回では27球で終わるのだ。最少のエネルギーの消費だ。

山本由伸投手は6回で三振こそ9個獲れたが、投球数は112となって体力を消耗して降板となった。結論に飛躍すれば「三振奪取で疲れ果てた」のだった。対するスワローズの奥川恭伸投手は7回を投げ抜いても97球で三振は3個だけだった。どちらが効率的な投球をしたかは明らかではないだろうか。流行りのカタカナ語にすれば奥川の方が「コスパ」が良くはないか。更に論旨を飛躍させて言えば「マスコミさんよ。三振奪取礼賛は再考の必要がありはしませんか」なのだ。

第二戦:
実は、あの第1戦の劇的なというかスワローズが逃げ切れると思って出したのだろうマクガフ投手のアウト一つ取れずに逆転サヨナラ負けとなった惨状を見せつけられて、昨年までジャイアンツがソフトバンクホークスに無残な8連敗(だったか)で鎧袖一触されたのを見ていたので、矢張りパシフィックリーグが優位なのかと思って観戦を始めた。ところが、5回までだったかを完全試合風に抑え込んでいたバッファローズの宮城大弥が7回2/3で引き摺り降ろされ、立ち上がりが不安定だったスワローズの高橋奎二が完封・完投したのだった。

勝負とは解らないものだ、読みきれないものだと言う前に、パシフィックリーグとセントラルリーグの何れが上位乃至は優位なのかは、この2球団の試合振りからは俄に判断出来ないと思わせられたのだった。私は事NPBの12球団については、ジャイアンツを嫌悪している以外にはご贔屓の所はないので、今回の日本シリーズは冷静に見ていられるのだ。これまでの2試合とCSを見た限りでも、殆ど両者に優劣の差を付けられなかった。

第三戦以降は:
但し、両球団とも中心打者であるはずのバッファローズの吉田正尚と杉本裕太郎、対するスワローズの山田哲人と村上宗隆は当たっている(現在は「状態の良し悪し」で表現するように変わっている)とは言えない状況で、両テイームのスカウテイングが十分に機能しているとも考えられる。また、2戦目までで使った投手を除けば、残る顔ぶれには勝利を計算できそうな強力な者がいないとしか見えない。要するに、どっちに転ぶかは読みたくても読めないのだ。残るは、試合開始の直前に来るかも知れない「閃き」が頼りといえば頼りか。

不思議な事に神宮球場ではなく東京ドームで行われる第3戦以降は、両監督が如何に知恵を絞って継投の作戦を臨機応変に立てるかと、主力打者以外から俗に言うシリーズ男的な活躍をする打者が出てくるかに懸かっていると思う。実に陳腐な見通しで申し訳ないが、それほど何も閃いてこない対戦なのだ。但し、中島監督には「何を仕掛けてくるか読みにくい」点があるのだが、この場合は策士策に溺れる危険性を否定できない。そうすると、かなり正攻法で押している高津監督に分があるのかも知れない。だが「終わるまで解らない」と逃げておきたい。