新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

11月28日 その2 NPBの日本シリーズが終わった

2021-11-28 11:14:16 | コラム
日本シリーズの第6戦を見ての感想(彼らは楽しんでいたのか):

近頃の若きスポーツ選手の精鋭たちは、オリンピックを筆頭とする世界的な大きな大会に出る前に堂々と「楽しんできます」という決意を表明する。そして、立派な成績を挙げて帰ってきて「楽しかった」と平然として感想を述べる。記憶違いでなければ、あの過ぎしオリンピックでアメリカに負けて準優勝(私はメダルの色で表現するのは好みではないのだ)となった女子のバスケットボール選手の中に「(負けても)楽しかった」と平然と言った者がいたのには「時代が変わったのだ」と痛感させられた。「試合とは楽しむものらしい」のだ。

ところが、である、一部の外国人選手たちを除けば、そういう年齢層にある者たちが日本シリーズの優勝を目指して必死の勝負をしていた昨夜の第6戦などは「如何にも我が国の選手たちらしい、何としても勝たねばならないという生真面目さと悲壮感漂う、見ている方も緊張を強いられかねない、彼らは何か楽しむどころではなくてさぞかし辛かっただろう」とイヤと言うほど感じさせられた5時間ほどだった。スワローズに勝たせてやりたいと言ったあった私ですら「どちらにも負けさせたくないな」と、引き込まれた野球だった。

昭和23年(1948年)という今を去ること73年もの昔に、国民体育大会の高校の部のサッカーで、決勝戦で負けた経験がある私からすれば「勝負とはあの昨夜の野球のように必死になって勝とうと努めるべきものであって、楽しむという観念からはほど遠いものであるとしか認識できない」のである。そこで思い当たったことは「現代の若者たちは我々の時代のような精神主義の時代の子ではないのであり、近代化された訓練の下で育ったので、技術的には我々の頃のような低次元にはないので、楽しむという境地に達しているのでは」なのだ。

そこで、昨夜の試合を別の角度から振り返ってみよう。私の目には「この試合に勝って日本一になろう」というスワローズの直向きさと、「そうはさせない。何としても第7戦にまで持って行こう」というバッファローズの懸命さの激突だったと見えた。その直向きさと懸命さのために、両テイームともカチカチとなった為か、守りに全精力を集中していたので、攻める方が上手く行っていなかったように見えた。

その辺りをフットボールに例えてみれば、双方のデイフェンステイームが鉄壁の守りをするので、オフェンステイームは何をやっても通用せずに、わずかに相手のデイフェンスの小さなミスに助けられてフィールドゴールを一本ずつ取れただけで、タイブレークに持ち込んだのだった。そして、ここでもバッファローズのバッテリーがパスボールという失策を演じた為に、代打の専門家の川端のポテンヒットになって負けてしまったのだった。結局は「ここという時に失策をしてしまったバッファローズの方が弱かった」との結論になるのだ。

先ほどのTBSの張本勲の「喝」の時間に出た中畑清は「この意リーズは良い試合ばかりだった」と言っていたが、確かにその通りだとは思う。だが、両テイームとも「勝たねば」という緊張感に苛まれたのか、あるいはデイフェンステイームの代表である山本由伸や奥川恭伸や高橋奎二が好投しすぎた所為か、華々しい打撃戦にならなかったのが、観客としては残念だった。なお、最後に一寸だけ自慢をすれば、私はMVPには迷わずに中村悠平捕手を選んでいた。


南アフリカでオミクロン株が発生した

2021-11-28 10:13:10 | コラム
我が国の水際対策が不安だ:

東京都に於ける第5波での新規の感染者が10数日も30人を下回るという状態であり、安堵しておられる方は多いだろうと思う。実は、当方はその一人である。ところがウイルスも去る者で「そうはさせじ」とばかりに、南アフリカでオミクロン株(ギリシャ語のようでomicronとなるようだ)を発生させた。報道ではワクチンの効果が薄れるとなっている。そういう報道があったのは去る26日(金)で、ヨーロッパの何ヶ国かは即刻南アフリカからの航空機の飛来を禁じてしまったそうだ。

そこで、我が国のこのオミクロン株に対する水際作戦だが「アフリカの7ヶ国からの訪日者に対する空港の検疫を厳格化して拘束期間を10日間とする」と報じられていた。何の事はない、航空機の飛来を認めているという、ヨーロッパの対策よりは緩やかと言うか友好的(性善説的?)ですらあるのだ。それで良いのかなと不安になった。私はそもそも中国で発生した時点で外国人の入国を認めていたことが甘かったので、第5波までの感染を招く大いなる原因となったと見ているので、未だ甘いのではないかと思わずにはいられない。

この新水際対策には、それら7ヶ国を経由してきた入国者も厳重に隔離するとなっていると思うが、ワクチン接種証明やPCR検査等の陰性証明証などは簡単に偽造する国が我が国の近隣にあるということなどは常識ではないのか。何故思い切った手が打てないのかと不満である。菅政権当時から「経済を回すためにはビジネス客の訪日を限定した国からは認める」と決められたようだが、その決定には国民の安全保障が軽視されている感が否めない。岸田内閣でも「ビジネス客優先」を踏襲するのだろうか。疑問に思うのは私だけか。


ネタが尽きる

2021-11-27 09:26:24 | コラム
処女作が最高傑作:

本日は何時もの通り午前4時に起床したが、朝食を済ましても何となく気が乗らずに8時まで「今日は如何なる話題を取り上げてブログを更新しようか」とボンヤリと考えていた。そこで思い浮かんだことがあった。それは、医師の里見清一氏が週刊新潮に連載しておられるコラム「医の中の蛙」で「ネタが尽きる」との見出しで書いておられた事だった。そのところを引用してみると、

「人は皆、自分の人生で経験を積み重ね、また教養を身につけるから、誰でも一本は小説なり随筆なりが書ける、と言われている。そして大抵の場合、その処女作が最高傑作で、後が続かない。これは内在するものを一気に放出してしまって(中略)「気」やエネルギーが尽きた状態に陥るのだが、つまりはネタ切れである。先に最も面白い話を出してしまったから、他をかき集めて次に何かを書こうとしても、パワーダウンは否めない。」

とある。偽らざる感想を言えば「誠にその通りである」なのだ。確かに私は1990年の春から業界の専門誌に月2回の連載を始める機会を与えられた。その連載を読んでおられた静岡新聞社の出版局副部長さんがそれを纏めて1995年の秋から出版に取りかかられ、1996年の8月に目出度く刊行の運びとなった。それ以降、私は一冊も上梓してはいない。だが、専門誌の連載は2000年の4月まで続けさせて貰っていた。そして、形式は現在のブログに変わったが、未だに何か書き続けている。

今でもその里見氏が言われたような「教養が身に付いた」かどうかは不明だが、蓄積を一気に吐き出した処女作を読み返してみると、2000年以降に書いているものには、その1冊の内容と比較してみると、自分で読んでも面白くも何ともないし、あの書き始めた頃ののびのびとしたというか自由闊達なところもなく、ユーモアのセンスも失われているのに正直に言って「困ったものだ」と嘆いているのだ。確かに、里見氏が指摘されたように「内在していたものを吐き出してしまった後だ」という感を禁じ得ないのだ。

ここまでで思い出したことが他にもあった。それは、ジャズ評論家の荻村政昭氏か油井正一氏が指摘されていたことで「ジャズミュージシャンたちもファーストレコーディングかファーストリーダーアルバムが最高傑作になっている例が誠に多い」という点なのだ。特に思い当たる例には、ピアノのバド・パウエル(Bud Powell)のファーストリーダーアルバム「バド・パウエルの芸術」(Bud Powell)は最高傑作だとは思って聞いたが、余り録音が良くなくて聞き辛くて「本当に凄いな。最高傑作だな」と思えるようになったのは何年か後だった。

実は、1990年から物書きの真似事を始めるようになってから31年も経っているのだ。里見氏の論を当て嵌めるまでもなく「ネタ切れ」状態に陥っているということは悲しいほど自覚している。だが、毎朝別に懊悩呻吟することもなく、閃いたことを書き連ねている。だが、「何時まで経っても同じ事を論じている奴だと思われて批判されているだろうな」との自覚症状はある。だから、今回のように告白しているのだ。

しかし、如何なる事があっても「カタカナ語批判」と「我が国の英語教育の問題点の指摘」を止めようとは思っていない。それは「継続は力なり」で、何時の日か多くの方にお解り頂けるだろうと、独り密かに期待しているのだ。何卒宜しく今後ともご一読の程を。


11月26日 その2 我が国の英語教育の問題点を論じれば #2

2021-11-26 16:55:57 | コラム
英語とは異国の言語であることを弁えよ:

我が国の英語教育の問題点は「英語とは我が国とは文化も宗教も人種も異なる英連合王国(United Kingdom and Northern Ireland→UK)とアメリカ合衆国(USA)で主に使われている言語であるという点を弁えずに、飽くまでも科学として教えていること」にある。しかも、教え始める際に「日本語とは発声も発音も全く異なる言語であることも教えていないのも問題点として挙げておきたい」のである。発声の点では顔の筋肉と舌の使い方が大いに異なっていることにも留意していないので、native speakerたちの話し方に着いていけなくなるのだ。

敢えて指摘しておくが、かかる相違点を弁えていない発音とアクセントのつけ方しかできない英語の教師が、初歩の段階で教えていることにも問題がある。更に言えば、native speakerに教えて貰えば良き英語を学べるという錯覚を起こしているのも困ったことだと言いたい。それはUKとUSでは発音もアクセントのつけ方も異なっている点を等閑にしているからだ。また、同じ英連合王国でもイングランドとオーストラリアやニュージーランドでは違う英語であるし、USAでは東西南北の各地域で違っている点が多々あるのだ。

このような相違点を知らずして英語の単語をカタカナ語化して日本語の中に導入してしまったので、奇妙な言葉が蔓延ってしまう結果になったのだと、私は考えている。いきなり結論に飛躍すれば、その点を弁えずに、辞書も引かずにカタカナ語にしてしまうという乱暴なことをしたのは、私に言わせて貰えば犯罪的ですらあるのだ。しかも、そこには元の英語とはかけ離れたローマ字式な読み方までしていたのも、本当に怪しからんことなのだと指摘しておく。


我が国の英語教育の問題点を論じれば

2021-11-26 12:10:14 | コラム
英語教育の至らなさがカタカナ語を乱造するのだ:

これまでに繰り返してカタカナ語を批判し続けてきたが、私はその氾濫を生じさせている大きな原因が「我が国の至らざる英語教育」にあると思っている。そこで、今回はあらためて「我が国に於いて、それほど英語による自分の意志を思うままに表現できるようになる必要があるのか」と「我が国の英語教育の問題点」を論じてみようと思うのだ。そういう議論の前提には「私自身が英語を思うままに操れて自分の意志を表現できることが最低限の条件であるアメリカの会社という世界で20年以上過ごしてきた経験」があるのだ。

*小学校の低学年から英語を教える必要などない:
もう10数年前になるが、ある財界人や学識経験者が参加しておられる勉強会で、通産省の局長だった教育審議会(?)の委員として「小学校低学年から英語を教えることになった」と報告されたことがあった。私の年来の持論は「無意味なこと」だったのだが、敢えて批判もせず反論もせずに承っていた。ところが、帰路にエレベーターで一緒になった新日本製鐵(当時)の副社長だったKK氏が「万人に強制すべき事ではないですな」と言われたので、勿論賛成したのは言うまでもないこと。

我が国は世界でも珍しい「英語を介さなくても如何なる学問も学べるし、研究開発が出来る国」なのである。それにも拘わらず、この世には「『国際化』や『グローバリゼイション』の時代にあっては国際語となっている英語で自由にコミュニケーションができるような国際人を養成せねばならない」という尤もらしい説を流しては、英語教育の充実を叫ぶ輩が誠に多いのである。その為には「頭が柔軟な10歳前の児童たちに英語を学ばせておくことが良いのだ」などと(敢えて戯言と言うが)いう説を唱える者が、国会にも官庁にも増えてきたのだった。

私が何故我が国の学校教育に於ける英語が宜しくないと言うのには、根拠があるのだ。第一には、20年以上もアメリカの企業のマネージャーとして我が国の需要家や総合商社の方たちと折衝してきたが、アメリカの支配階層にいる者たちを完膚なきまでに論破するとか、議論を組み立てて説得できる方は、失礼を顧みずに言えば、極めて希だったのだ。私は「そのような不十分な英語能力はその方々の責任ではなく、我が国の至らざる英語教育がその責めを負うべきことである」と申し上げてきた。

その点を見事に表していたことが1990年頃にあった。それは、テレビの討論会に出ておられた女性の高校の英語教師の方が、中学から高校・大学と何年も英語を勉強しても一向に話せるようにならないのが問題だ」という指摘に対して「見当違いである。我々の目的は教科の一つして英語を教え、その成績によって生徒たちを5段階で評価する所にあるので、最初から話せるようにすることなどと考慮していない」と堂々と述べたのだった。見事だと感心して聞いた。換言すれば「科学として英語を教えている以上、会話能力などは目標にはない」なのだ。

*万人に強制することではない:
この点を改めて強調しておけば「1億2,600万人が皆英語をペラペラになる必要があるのか」ということだ。私が永年指摘して来たことは「私のようにアメリカの大手企業に彼らの一員として勤務するような者には、ある程度以上の英語力は最低の必要条件であり評価の対象にもならない」のである。また、こういう職(job)にあれば、アメリカの誇り高き支配階層にある者たちと日常的に接触するので、そこに通用するような格式も求められる。だが、一般人がそういう連中と接して高度な会話を楽しめるような次元に達する英語を習得する必要があるとは思えない。

または、多くのノーベル賞を獲得された学者や研究者の方々のように、アメリカで活動されるのであれば、native speaker並みの英語力は必須だろうが、一般人がそういう必要性に迫られることなど先ずあり得ないと思う。故に、私はそこまでの英語力を養うのではなく、飽くまでも趣味として高度な読解力を身につけておくことなどは大変結構なことだと考えている。我が国の学校で良く勉強された方には、私などが遠く及ばない読解力を備えた方は沢山おられるが、その能力と“How to express myself in English.”とは結びついていない。

また、時々「外国人に街中で道を訊かれて答えられずに恥ずかしい思いをした」のような言うなれば自虐的なことを言われて反省する方もおられる。この事も敢えて言うが、見当違いなのである。英語で道案内することは寧ろ非常に難物な会話なのだ。特に東京のように道路が碁盤目にはなっていない街では、日本語で説明するのだって容易ではないのだ。実は、私は数年前に「有り余る英語力を抱えていても、リタイア後の20年間に都内で道を訊かれたことは3回しかない。私は余程英語が解らないようなか顔付きに見られたか」と慨嘆したことがあった。

ここまでを纏めてみれば、「英語を必要とする仕事を選ばれたのならば、我が国の英語教育を忘れて、そこまでの能力を養えるような勉強法を探る必要があるだろう」と「海外に出てビジネスの分野で活動するか、大学や研究機関に身を置かれるのならば、自分の思うことを表現する能力と読解力を向上させておるべきだろう」となる。学校の英語では習得できない能力だ。

更に言えば「英語の能力の他に、我が国とアメリカとの文化(言語・風俗・習慣・思考体系等)の違いを十分に認識しておくこと」は絶対に必要なのだ。私は我が国の英語教育の欠陥として長い間指摘して来たことが「単語の知識などという無益なことを重要視しているが、肝腎の文化比較論を何処まで行っても教えていないこと」を指摘して来た。アメリカ側だってここまでの教育はしていないので、屡々政府や民間での重要な交渉事などで齟齬を来している。

言いたくはないが「私はアメリカの会社で10年も過ごしてから、漸くその見えない壁の実態に気が付いて、そこを如何にして乗り越えるかを懸命に考えた」のだった。この文化比較論も重要だが、その先にある見えない壁が宗教なのだ。彼等アメリカ人の多くは一神教であるキリスト教の信者であるから、物事の考え方の基本に「神の存在を信じるか否か」がある。論旨を飛躍させるが、そこにあるのが「二進法的思考体系」なのである。思うままに英語で自己表現をしようと思えば、この2点を知っておくべきなのだ。だが、学校では教えていないだろう。

やや飛躍してしまうが、このような不十分な英語の教え方をしたので、単語の知識だけが豊富になって、無闇矢鱈にカタカナ語を製造してしまうのだと考えている。その辺りはまた別の機会に詳しく述べていこうと思う。