新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

副反応に悩まされるの記

2023-04-22 06:58:39 | コラム
極めて私事ではあるが:

今週はよく眠れない夜が多くて辛いのだ。長年診て頂いている国立病院とかりつけのクリニックは既に4回も通った。昨日は睡眠導入剤を補強して頂いた。

だが、ここでは昨日、その辛さに悩み、それでなくとも老化の所為もあって回転が鈍くなった頭が書き漏らした、昨日の「Mein Camp」で強調すべきだった肝心の点を取り上げておこうと思うのだ。

それは、気付きの方がおられれば幸甚だが、物書き業も始め得て超多忙になったウエアーハウザー勤務中の4年間と、その後の6年間の合計10年間に「原稿の締め切りに間に合わせられなかったことは1度もなかった」ということを強調したかったのである。たった一度「今日が締め切りでしたが」と催促の電話があったが、勿論納期には間に合わせていた。定期刊行物への投稿を経験された方は多いと思うが、締め切りを守ることの大変さをご承知の方は沢山おられると思う。

その納期を、私は少なくともウエアーハウザー在籍中の4年間は少なくとも年間に6~7回のアメリカ出張がある上に、本部から来訪する副社長や技術関係の者たちと絶え間なく国内の出張を続けるという過密のスケジュールをこなしてきた。その僅かの隙間に原稿の締め切りに間に合わせていたことが「わが闘争の記」だったのである。

この後に2003年からのPCを駆使(?)しての13年までの10年間の週刊誌への英文和訳の原稿提出という大仕事があった。これはPCで送られてきた原稿を日本語にして送るのだから翻訳を終えてしまえばメールで送るだけなのだ。だが、内容は何も紙パルプ産業界だけのことには限られておらず、森羅万象何が出てくるか解らないのが大変だった。それにも拘わらず、年々80歳に迫っていく高齢にも拘わらず、使命を全うしたと自己満足している。

なお、この在宅で仕事をするのは初めての経験で、これは意外に負担が大きかった。それは、家事は気にならないまでもテレビの音は聞こえるし、来訪者もあるし、宅配便も来るので「仕事への精神というか神経の集中の難しさには、慣れるまではかなり苦心惨憺した」というのが実態である。この10年の経験があるので、COVID禍によるオンラインとか在宅勤務の人たちが、さぞや苦心されただろう事は充分に察しが付く。

80歳まで仕事をさせて頂く機会を与えられ、90歳の今でもジムに形だけでも通っていられるので、「お若き見えます。とてもそのご年齢とは見えない」と社交辞令を言って頂けるのだろう。でも、ホルモン療法の副作用には年齢層にかなり苦しんでいるのだ。尤も辛いのが「体が火照ってよく眠れず、睡眠導入剤が余り効果を発揮してくれないこと」で、昨日は2日も睡眠不足が続いていた。矢っ張り、歳は取りたくないのかな。


4月21日 その2 「Mein Kampf」訂正場です

2023-04-21 10:01:04 | コラム
「我が闘争の記」である:

何を言い出すのかと思わせたとことで、このヒットラーの著作の題名を使った目的は達せられた。書き物をするのに、書く方式が自体と共に膠って苦戦したと言うことなのだが、それを、」気取って「Mein Kampf」としたまで。

当方は全く期せずして1990年4月から業界の専門出版社の月2回発行の専門誌に「エッセイ」の連載を引き受けたのだった。これは編集長さんが突如として持ちかけた話で、それまでに自分が書いた物が活字になって発行された経験は皆無だったし、第一に代金を頂戴して原稿を書いた経験もなかった。それにも拘わらず、何か天命のように感じて引き受けてしまった。無謀だったと思う。その際に初めてその出版社専用の原稿用紙を渡されてそれに書くのだと知った次第だ。

この世に数多おられる作家の先生たちは万年筆で書いておられるようだが、ずぶの素人も私は書き直すことを前提に考えて、鉛筆で書くことにした。編集長さんの提案は「何を書いてもう良い」だったので、ならばと、多少心得がある英語とアメリカのことにすると考えて、題名は「英語とEnglish」に決めた。1回目は確か我が国の英語教育では英語を教えてもEnglishを教えていないので、「英語で思うことを自由に話せなくなるのではないか」としたと記憶する。

今回話題にしたのは書き続けてきた内容の問題ではないのだ。誰かが原稿を書き、それが何人かの手を経て活字になり本になった世に出て行くまでの方法というか手段の変化を論じたいのである。この出版社で私が手書きで書いた原稿が世に出て行くようになると、一定の数の読者が読んでくださるのだ。その結果として、有り難いことに権威ある業界団体の広報誌からも連載のご依頼を頂戴した。すると、ここの原稿用紙の形式が違うので戸惑ったりもした。

書く量が増えるにつれて、その執筆業は難しくなってきた。それは、よほど表現することを事前に確定してから取りかからないと、途中で構文を入れ替えることにでもなれば、大変面倒な消しゴムを使う作業をせねばならなくなるし、構想も変わってしまうことだってままあるのだ。申し忘れたが、我がW社では原則副業は禁止なので、開始前に駐在の副社長フランクリン氏の了解も取ってあった、会社のことには触れないという条件はつけられたが。

手書きは如何にもしんどいなと思い始めた頃、就職して地方の工場勤務になった愚息が置いて行ったワープロがあったので、物は試しと使ってみた。簡単に書けた。と言うのも、戦後間もなく英語で話すことを教えられたGHQの秘書の方には、中学の1年生の私は英文タイプの打ち方を、教則本を使って仕込まれていたので、ローマ字入力なら何という事なくこなせたのだ。ワープロを使ったのは、W社をリタイアした後のことだった。

それを編集長に報告すると、直ちに切り替えて原稿をフロッピーデイスクに落として持参願いたいと変わった。即ち、手書きからの脱却した一大進歩である。とても書くことが楽になった。当時は定期的な連載の他にも業界の評論も寄稿し始めていたので、週に何回かは神田周辺にまで出かけるようになり、俗世界との接触も回復していた。ところが、である。

1990代の後半ともなると最早PCの時代であり、関連する方々の方からPCへの転換を強く勧められた。だが、当方は何時までこういう仕事をおまかせ頂けるのかの保証がるとも思えなかったし、70歳になってからPCの手習いをするとかや、年齢不相応の投資をする意義があるのかと抵抗してきた。事実、出版社との契約は終わっていたし、この私に何か新機軸のご依頼があるとは考えられなかったのだ。趣味としてもワープロで十分だと満足していた。

ところが世の中は予測不能なことが起きるもので、70歳になった時に言わば大変お世話になった編集長さんから突然「折り入って緊急の頼みがある」との電話が、急遽出向けば「週刊誌版の海外ニュースの翻訳を担当していた高齢の方が倒れて入院され、明日の原稿間に合わないので、お助けを」とのことだった。「義を見てせざるは勇なきなり」ではないが、尤もお不得手とする英文和訳の仕事であってもその場お引き受けしてしまった。

偉そうなことを言うなと言われそうだが、「長年英語の世界で暮らしていると、わざわざ日本語に直して考える作業はないで英語のままで考えて動いてきた。だがら、日本語に直すと拙劣な表現になることが多く、秘書さんには「社外に和訳して出す文書には手を出さないように」と止められていた。その私が和訳の仕事を引き受けたのだ。だが、事はそこで終わらなかった。原稿を持って帰宅したら、ワープロが壊れていたのだった。

編集長に直ちに連絡すると「ビックカメラに直ちに来てください。待ったなしです」と無情の宣告。有無を言わせずに東芝のノートブック型とプリンターを購入。「老後にそんな多額の出費は・・・」と躊躇うも「原稿料で直ぐに返済します」とアッサリと退けられた。帰宅して愚息を呼んで設定してもらい、直ちに「ワード」で翻訳し、教えられた通りに何のことかも解らずに「添付ファイル」にして編集長が指定したメールアドレスに送信。

よく考える前もないことだろうが、非常に無謀な試みである。私はPCには素も」如何なる多種多様な機能が備わっており、其れ等をそのように効果的に使うべきかなどは全く学習することなき、いきなり「メールも送れる」ワープロの代替として使い始めた野田ある、そででも、後になって検索の機能や色々と使えるとは和語ったが、おそらく今でもその持てる機能の1%くらいしか活用していないだろう。勿体ないことだ。

苦心惨憺した翻訳文を読んだ愚息は「何が書いてあるかサッパリだが、緊急事態では仕方があるまい」と一言。驚く勿れ、この仕事を10年続けたのだ。それが2013年の8月に2度目の心筋梗塞を発症し、何とか退院はしたが、その後の体調が一向に落ち着かず、苦しめられていたので、編集長とも相談の上、この仕事を80歳で打ち切る事で和解した。

1990年の原稿用紙に鉛筆で書き始めたときから数えれば23年も続いたのだ。鉛筆書きからワープロに替わり、次にノートブック型PCよとプリンターデになった。今は何代目かも解らないデスクトップのPCになって、外部向けに発表するのは、専らブログだけになってしまった。

だが、当人の戦いは未だ終わっておらず、らくらくスマートフォンですらも挿入したし、マイナンバーカードも訳もわからずに取得してマイナポイントを使わせてもらう恩恵にも浴している。ウエアーハウザーに移った1975年はテレックスのオペレーターにアルバイトの学生を使っている傍ら、クーリアサービスを使ってアメリカ本社までよく字には書類を送っていて驚かされた。それがファックスに変わり、当方がリタイアするとPCに切り替わっていた。

いまやこの1932年生まれの私でさえ、スマートフォンのSMSを使えるまでに成長したし、ここ最近はYouTubeで巨人の原監督が木っ端微塵に叩かれるのを楽しく読んでいる。でも、あの程度の批判ならば私は既に終わっていた。記者なんて言う連中は迂闊に何か読売の批判になるようなことを書くと所払いになる仕組みになっているようにしか見えないが、もうソロソロ改革しても良いだろうに。世の中は「チャットGPT」の時代だぜ。

Mwin Kampf

2023-04-21 09:49:46 | コラム
「我が闘争の記」である:

何を言い出すのかと思わせたとことで、このヒットラーの著作の題名を使った目的は達せられた。書き物をするのに、書く方式が自体と共に膠って苦戦したと言うことなのだが、それを、」気取って「Mein Kampf」としたまで。

当方は全く期せずして1990年4月から業界の専門出版社の月2回発行の専門誌に「エッセイ」の連載を引き受けたのだった。これは編集長さんが突如として持ちかけた話で、それまでに自分が書いた物が活字になって発行された経験は皆無だったし、第一に代金を頂戴して原稿を書いた経験もなかった。それにも拘わらず、何か天命のように感じて引き受けてしまった。無謀だったと思う。その際に初めてその出版社専用の原稿用紙を渡されてそれに書くのだと知った次第だ。

この世に数多おられる作家の先生たちは万年筆で書いておられるようだが、ずぶの素人も私は書き直すことを前提に考えて、鉛筆で書くことにした。編集長さんの提案は「何を書いてもう良い」だったので、ならばと、多少心得がある英語とアメリカのことにすると考えて、題名は「英語とEnglish」に決めた。1回目は確か我が国の英語教育では英語を教えてもEnglishを教えていないので、「英語で思うことを自由に話せなきなるにではないか」としたと記憶する。

今回話題にしたのは書き続けてきた内容の問題ではないのだ。誰かが原稿を書き、それが何人かの手を経て活字になり本になった世に出て行くまでの方法というか手段の変化を論じたいのである。この出版社で私が手書き手書いた原稿が世に出て行くようになると、一定の数の読者が読んでくださるのだ。その結果として、有り難いことに権威ある業界団体の広報誌からも連載のご依頼を頂戴した。すると、ここの原稿用紙の形式違うので戸惑ったりもした。

書く量が増えるにつれて、その執筆業は難しくなってきた。それは、よほど表現することを事前に確定してから取りかからないと、途中で構文を入れ替えることにでもなれば、大変面倒な消しゴムを使う作業をせねばならなくなるし、構想も変わってしまうことだってままあるのだ。申し忘れたが、我がW社では原則副業は禁止なので、開始前に駐在の副社長フランクリン氏の了解も取ってあった、会社のことには触れないという条件はつけられたが。

手書きは如何にもしんどいなと思い始めた頃、就職して地方の工場勤務になった愚息が置いて行ったワープロがあったので、物は試しと使ってみた。簡単に書けた。と言うのも、戦後間もなく英語で話すことを教えられたGHQの秘書の方には、中学の1年生の私は英文タイプの打ち方を、教則本を使って仕込まれていたので、ローマ字入力なら何という事なくこなせたのだ。ワープロを使ったのは、W社をリタイアした後のことだった。

それを編集長に報告すると、直ちに切り替えて原稿をフロッピーデイスクに落として持参願いたいと変わった。即ち、手書きからの脱却した一大進歩である。とても書くことが楽になった。当時は定期的な連載の他にも業界の評論も寄稿し始めていたので、週に何回かは神田周辺にまで出かけるようになり、俗世界との接触も回復していた。ところが、である。

1990代の後半ともなると最早PCの時代であり、関連する方々の方からPCへの転換を強く勧められた。だが、当方は何時までこういう仕事をおまかせ頂けるのかの保証がるとも思えなかったし、70歳になってからPCの手習いをするとかや、年齢不相応の投資をする意義があるのかと抵抗してきた。事実、出版社との契約は終わっていたし、この私に何か新機軸のご依頼があるとは考えられなかったのだ。趣味としてもワープロで十分だと満足していた。

ところが世の中は予測不能なことが起きるもので、70歳になった時に言わば大変お世話になった編集長さんから突然「折り入って緊急の頼みがある」との電話が、急遽出向けば「週刊誌版の海外ニュースの翻訳を担当していた高齢の方が倒れて入院され、明日の原稿間に合わないので、お助けを」とのことだった。「義を見てせざるは勇なきなり」ではないが、尤もお不得手とする英文和訳の仕事であってもその場お引き受けしてしまった。

偉そうなことを言うなと言われそうだが、「長年英語の世界で暮らしていると、わざわざ日本語に直して考える作業はないで英語のままで考えて動いてきた。だがら、日本語に直すと拙劣な表現になることが多く、秘書さんには「社外に和訳して出す文書には手を出さないように」と止められていた。その私が和訳の仕事を引き受けたのだ。だが、事はそこで終わらなかった。原稿を持って帰宅したら、ワープロが壊れていたのだった。

編集長に直ちに連絡すると「ビックカメラに直ちに来てください。待ったなしです」と無情の宣告。有無を言わせずに東芝のノートブック型とプリンターを購入。「老後にそんな多額の出費は・・・」と躊躇うも「原稿料で直ぐに返済します」とアッサリと退けられた。帰宅して愚息を呼んで設定してもらい、直ちに「ワード」で翻訳し、教えられた通りに何のことかも解らずに「添付ファイル」にして編集長が指定したメールアドレスに送信。

よく考える前もないことだろうが、非常に無謀な試みである。私はPCには素も」如何なる多種多様な機能が備わっており、其れ等をそのように効果的に使うべきかなどは全く学習することなき、いきなり「メールも送れる」ワープロの代替として使い始めた野田ある、そででも、後になって検索の機能や色々と使えるとは和語ったが、おそらく今でもその持てる機能の1%くらいしか活用していないだろう。勿体ないことだ。

苦心惨憺した翻訳文を読んだ愚息は「何が書いてあるかサッパリだが、緊急事態では仕方があるまい」と一言。驚く勿れ、この仕事を10年続けたのだ。それが2013年の8月に2度目の心筋梗塞を発症し、何とか退院はしたが、その後の体調が一向に落ち着かず、苦しめられていたので、編集長とも相談の上、この仕事を80歳で打ち切る事で和解した。

1990年の原稿用紙に鉛筆で書き始めたときから数えれば23年も続いたのだ。鉛筆書きからワープロに替わり、次にノートブック型PCよとプリンターデになった。今は何代目かも解らないデスクトップのPCになって、外部向けに発表するのは、専らブログだけになってしまった。

だが、当人の戦いは未だ終わっておらず、らくらくスマートフォンですらも挿入したし、マイナンバーカードも訳もわからずに取得してマイナポイントを使わせてもらう恩恵にも浴している。ウエアーハウザーに移った1975年はテレックスのオペレーターにアルバイトの学生を使っている傍ら、クーリアサービスを使ってアメリカ本社までよく字には書類を送っていて驚かされた。それがファックスに変わり、当方がリタイアするとPCに切り替わっていた。

いまやこの1932年生まれの私でさえ、スマートフォンのSMSを使えるまでに成長したし、ここ最近はYouTubeで巨人の原監督が木っ端微塵に叩かれるのを楽しく読んでいる。でも、あの程度の批判ならば私は既に終わっていた。記者なんて言う連中は迂闊に何か読売の批判になるようなことを書くと所払いになる仕組みになっているようにしか見えないが、もうソロソロ改革しても良いだろうに。世の中は「チャットGPT」の時代だぜ。


中国の脅威を考えて見よう

2023-04-20 10:01:06 | コラム
我が国は習近平の中国に対して真剣に警戒心を持つべきではないか:

先日、観光とやらでやってきた中国人に空港でインタビューした際の台詞には仰天した。もしかして「Youは何しに」だったかも知れない。その男性が言ったことは「日本では家が安いから買おうと思ってきたのだ」だった。いや、現実問題として買われてしまっているようだ。

それでなくても中国系資本および中国人に我が国に不動産を、それも自衛隊の基地の近くであるとか、外国人に買われてはなるまいと思う場所を買われていると報じられているにも拘わらず、未だに法的に防御の態勢は整っていないのだ。

当方は16年6月に河添恵子さんの講演を聞く機会があり、習近平率いる中国の意図が「我が国の属国化」であると知って、慄然とする思いだった。河添さんはそれに加えて中国には「国家総動員法」(で良かったか)が発令されているので「海外に滞在する中国人は、一朝事あれば全て工作員として行動すべし」とも規定されていると語られた。

ここ新宿区百人町/大久保に住む私には、この規定の恐ろしさは計り知れないものがありはしないかと痛感した。と言うのは、この街には無数の日本語学校があり、そこに通う外国人は中国の若者が圧倒的に多いのだからだ。彼らは邪気がない表情で楽しげに語り合って騒いでいるが、そういう習近平指令を認識しているのかと尋ねたい思いだった。

私には習近平の就任以来(15年目だったかに入ったのだったか)彼は「自らを全知全能の権力者であり、長江の流れでも賽子の目でも、自らの思うように操れる能力を備えており、無人の野を行くが如くに世界を思うがまま操れると思い込んでいるのであると、本気で疑っている。彼の眼前には「国内で一定の法律を定めて発布すれば、それは国外の何処でも適用できるのだ」という考え方しかないのだろうと思っている。

中国にはパック旅行で3度だけ入った経験があのだが、彼らの中華思想の発露というか他国人を見下した姿勢には驚くよりも、そういう態度が通用すると思い込んでいる意識には寧ろ圧倒された。観光のガイドがお客を恰も自分たちの配下に接するような傲慢な態度をとるのも「これが中国なのか」と認識させてもらえた。

空港で飛行機の遅延を全く告知することなく、延々と出国手続きに並ばせるよう乗客を蔑ろにする態度も「中国風か」と実感させられた。多くの同胞がブツブツと言うに入ったが、聞こうともしなかった。

このような表に出てくる現象は兎も角、今回ニューヨークで現地に開設して自国人を色々な面で陰に陽に取り締まる警察組織を設けていたという報道には、「矢張り、習近平方式ではそこまでやるのか」と、再認識させてもらえた。マスコミに言われなくても、我が国も既に方々に設置されているのではないのか。まさか、その事態を公安が把握していないいということはないだろうと信じている。

このような言わば治外法権であるとか外交特権であるか何か知らないが、仮令外国であっても「自分たちがやりたいようにやる」方針を貫いているのだろう。それが習近平方式なのだろう。他国の法律よりも自国の国内法を優先させて良いとすら認識しているのだろうと疑いたくなる。

マスコミ論調など見ていると、未だに中国からの大量の「インバウンド様たち」がお出でになることに期待しているような風潮がある。「爆買い」で売薬だの衣類を買ってもらえる分には差し障りはないが、「家が安から買いに来る」のは困るのではないか。

それでなくても、嘗て中国を世界下請け工場にして便利に使ったツケがきて重要な「サプライチェーン」としての中国から逃れられない立場にあると、政治家も財界人もどれ程認識できているのかと心配したくなる。

「君、国売り給うこと勿れ」なのだが、未だに確固たる自衛の法的規制もできていない状態で、諸外国からインバウンド様たちにお出で頂くことがそんなに有り難いのかと言いたい。

当方の持論は「アメリカのような国からは先ず確実に一流の私立大学のビジネススクールでMBAを取ったような人材が我が国までやってきて「一旗揚げよう」と企てることなどあり得ないのだ。だが、中国その他のアジアの諸国から来る人たちは違うと思っていて誤りではあるまい。狙われやすいのではないか。

誰だったか失念したが、中国の属国にしてもらえば良いと言った漫画家がいた記憶ある。そうなったらどうなるかは、習近平様はご親切にも香港の例で目に物見せてくださった。台湾だった例外たり得ない危険性が高い。ウイグルやチベットの実態など言及する必要もないだろう。

だが、現在の世界上を見れば、明らかに二国が対立している。しかも、我が方は地理的にはアメリカから太平洋を挟んで遠く離れている。岸田総理は懸命に自由主義であり民主主義のクラブの一員として奮闘しておられる。G7の議長も務められる。

でも、足下には中国がヒタヒタと押し寄せてきているように感じてしまうのは誤認識か。6年や8年も学ばせられた英語だってろくに話せない国民に、中国語も勉強する必要が迫ってきたと言うのか。

鵜の目鷹の目:

2023-04-19 08:08:55 | コラム
「葦の髄から天井を覗く」と言われるかも:

マスク:
確か岸田総理は3月13日からは「各人の自由裁量に」と言われたと思う。昨18日に大久保通りで青年男子がマスク無しで歩いているのを見た。珍しいものを見た感があった。国立国際医療研究センター病院の入り口には「出入りする方はマスクを着用願います」との張り紙があったのは尤もかと思った。バスに乗ってから気が付いた事は、穏やかか文言で「着用願いたい」とあった。「何だ、裁量は許されていないではないか」と思った。

我が街に戻ってイスラム横町を通過すると、そこに群がるイスラム教徒たちはチャンとマスク着用に及んでいる。しかしながら何故か彼らには「鼻出しマスク」が多い。この界隈で本当に偶に見かけるインバウンド様たちは毅然としてマスク無しである。かく申す当方もマスクをしたままである。何時になったら安心して自由裁量にできるのだろう。

自転車乗りのヘルメット:
17と18日に国立国際医療研究センターを往復した。数多く自転車が走っているのを見た。ヘルメット着用は2人見かけただけだった。誰も努力はしていないと解った。ヘルメット着用で走っていた1人は警察官だった。当然だろうとは思ったが、この制服警官は堂々と歩道を走行していた。法律の細目は知らないが、公務中であれば警察官は歩道を走っても良いのだろうかと思った。

値上げ:
ジムの帰りにバスを降りて何気なくCoca Colaの自販機を見ると500ml入りの瓶が¥180となっていた。確かその50mほど先の「まいばすけっと」では値上がりした後でも1.5Lが¥187である。何れが正当な価格か知らないが、自販機は1年365日、無人ではあるが24時間電気を使い続けている。だが、「まいばすけっと」は24時間操業ではなくても人員は配置してある。

自販機のオペレーターは何を基準に値段を決めたのかと疑った。物皆上がる時期が来たが、値段を上げる基準は何処にあるのだろうか。原料代、人件費、エネルギー代、輸送費、包装材料費、利益の確保、為替の変動等々どれを見ても値上げの理由になっている。でも、年金は何とか言う理屈で減っている。

YouTube:
近頃、近畿大学、日本大学、明治大学(50音順)のそれぞれの「節」に惹かれてYouTubeで聴いている。30数年前に初めてある「披露宴」で「日大節」を聴いて、「俺は矢張り日本人だった」と、事改めて自覚したほど感動した。その後著作権云々があったそうだが、YouTubeのお陰で元であると聞いた「近大節」も聴けた。毎日のように3大学の「節」を聞いては楽しんでいる。

そこに思いがけない副産物が出てきた。それが、かのガーシー元議員の存在のお陰で、当方のような時代遅れの高齢者もYouTubeの恐ろしさを知ること事ができるようになったのだ。それは、某球団の監督さんの息子さんの不行跡を詳細に報じている動画のようなもの。要するに、こういうものに接する機会がなければ知り得ることもなかったような、言ってみれば「疑似文春砲」のような類いである。

当方は止むを得ぬ事情があって70歳からPCを導入してある仕事を始め、一昨年の10月からは「らくらく」が付くとは言えスマートフォンも使い始めた。ではあっても、時代に遅れているからSNSなんて無縁だし、YouTubeなどは別世界の芸人の遊びだろうくらいにしか考えていなかった。らくらくスマートフォンにもYouTubeのアイコンがあるとは承知していたが、見ようなどと考えたこともなかった。

だが、この某監督さんのご子息の件だけをYouTubeで聞かされると、ここまで言われては如何ともしがたいだろうなと、ガーシーとやらの存在の危うさが少しだけ見えた気がした。正直なところ、見なくても、知らなくても済むことを、知ってしまったのだと痛感している。この上に、今や「チャットGPT」とやらを農水省が採用する時代になってきたのだ。

「葦の髄から天井を覗く」を試みたら、色々な物が見えると解ったのだ。だが、今さら有名人のゴシップなどを知らされる必要なんてあるのだろうかとも思う。