一生を凝縮した一日…なんて、ちょっと大げさなタイトルですが、昨日(20日)は、子ども、大人、シニアがかかわる場を順に3ヶ所取材し、それぞれの世代の生き方にふれているうちに、なんだか人一人分生き切った気分になってしまいました。
まず午前中は浜松で、地域の子育て情報のウェブサイトを浜松市と協働で運営するNPO法人はままつ子育てネットワークぴっぴを訪問しました。
転勤で浜松へやってきた原田博子さんが、育児の悩みや問題を共有できる仲間づくりや必要な地域の子育て情報収集のために04年に立ち上げた組織。運営するホームページは当事者同士ならではの“知りたい”“つながりたい”気持ちをベースにしたわかりやすい内容で、利用者はもちろんのこと、行政からも高く評価されています。行政が発信する育児支援情報って、いかにもお役人が机上の上で書いたって感じのおカタイものが多いんですが、ぴっぴのホームページは当事者が作っているから本当にわかりやすくて、子育てに縁のない私が見ても楽しいんですね。
06年には日本経済新聞社主催「日経地域情報化大賞2006」の準大賞にあたる日経新聞社賞を、08年には「内閣府バリアフリー・ユニバーサルデザイン推進功労者表彰」の大臣表彰奨励賞を受賞されています。
お会いする前は、原田さんって、てっきりIT関係のお仕事をされていた方だと思っていたのですが、「いえいえ全然、転勤族で関西や九州で暮らし、第一子を産んだ大分県のまちは、周囲が高齢者ばかりで、自分にも子どもにも友だちができなかったという経験がベースなんです」と原田さん(写真中央)。
浜松に移住してから近所の公民館の育児サークルや、育児・障害者・シニアにかかわるNPO団体に積極的に参加し、自分ができること、必要とされていることに目覚めたといいます。「気がつくと、周囲にはIT技術や情報収集能力を持ちながら、育児休業中で復帰の機会を待ち望む優秀な女性が集まっていた。私に特別なスキルがあったわけではないんですよ」と自然体で語ります。
ぴっぴが評価されるのは、NPO団体が壁を感じがちな行政との協働をスムーズにこなす点にもあります。原田さんは「お役所と自分たちの間には壁があって当然。なかなか乗り越えられなくても、つねに乗り越えようと努力することが大切」とし、市の担当者とは2週間ごとにプロジェクト会議を開き、他のセクションとコラボする際も、「下請け業者扱いされないためにも」、市民協働とは何ぞや~から丁寧に話し合う努力を重ねているそうです。
この原田さんの行動力、県外出身者ならでは、かもしれません。外から来た人、外の経験を経た人だから見えてくる地域の壁や問題点。あるいはその地域の特徴や魅力。浜松市民にとって原田さんは「外の人」で、行政にとってNPOも「(お役所の常識の)外の人」ですから、そういう人を排除するのではなく、上手に受け入れ、活かすのも、ある種の地域力なんだと思います。
ところで、シングルの私には母親の気持ちは机上で想像するしかありませんが、自分の幼児期を思い起こせば、育児中の母親の精神状態って本当に大事だと思えてきます。
私は3歳になるまで、両親、祖父母、叔父と叔母の大人6人に囲まれ、一家の初孫として大事に育てられましたが、母は伊豆修善寺の田舎育ちで、環境の違う都市部の公務員一家に嫁ぎ、舅・姑・小舅たちと同居することになり、周囲に心許せる身内や友人がいない孤独感もあったのではと想像します。
私の、年長者や地位の高い人には物怖じしない生意気な性格や、一方で身近な人のちょっとした声や反応にオドオドする小心さ、辛さを表に上手に吐き出せない不器用さは、幼児期の生活環境と母の心理状態が影響しているのかもしれません。
3歳の誕生日を過ぎて2ヶ月後に妹が生まれ、その1年後に弟が生まれ、幼稚園に上がってからは祖母に送り迎えをしてもらった記憶しかありません。母は年子で生まれた妹弟の育児に忙殺されていたのでしょう。
その中でも、妹は、長子の私や、長男として可愛がられたすぐ下の弟に比べ、母の愛情を独占できない寂しさを幼心に感じていたと想像します。大人たちを困らせる問題児になり、やがてそれが並はずれた行動力となって、空港勤務→主婦→海外移住→30代で一から看護師を目指し、今は米国オクラホマ州で、全米の看護師の中でも1割しかいないスペシャリスト(麻酔看護師)として逞しく生活しています。小さい頃は、目を離すとよく迷子になり、学校の先生からも「この子は放っておけばどこかにすっ飛んでしまう勢いがある」と言われ、本当に家族の目の届かない地球の裏側へ飛んで行ってしまいました。
母親が、子どもが3歳ぐらいまでの時期に、どんな精神状態だったかは、子どものその後の性格や生き方を左右するんですね、本当に。だからこそ、原田さんたちの行動にも価値があるのだと実感します。
続きはまた明日。