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母校・盛岡一高や岩手のスポーツ情報、読書感想、盛岡風景などをお伝えします。

今日の盛岡

2021年12月19日 | 盛岡風景



今日も寒いが、歩ける時に歩いておこうってことで、材木町のはずれから茶畑交差点まで往復で7.7㌔。市の中心部を出ないと10㌔は越えられない。今日も岩手山は見えず。

シェエラザード(上)ー浅田次郎

2021年12月19日 | 読書

評価4

再読(前回2017年10月22日)、
昭和20年4月、台湾沖で国際赤十字船の弥勒丸が2千人の民間人もろとも撃沈された。もともと豪華客船だった弥勒丸は密命を帯びてシンガポールで「ある物」を積載していたのだ。その弥勒丸引揚げ話が持ち上がる現代と過去が交錯し徐々に秘密が明かされる。

密命を知らされないまま南方へ赴く弥勒丸船内では密航者の殺害や突然の空爆による操舵士の死があり不穏な空気が渦巻き、「ある物」の調達に奔走するシンガポールでは弥勒丸の到着を待ち構える男たちがいた。

一方現代では、宋英明という中国人から弥勒丸引揚にかかる100億円の調達話を持ち掛けられた暴力団企業舎弟の軽部と日比野は、これを組長の山岸へ相談する。二人は山岸の戦後の闇市仲間である篠田と小笠原から弥勒丸の秘密を聞かされる。

度々出て来る男女の臭い恋愛話(腐れ縁話?)が邪魔だが(笑)、浅田次郎独特の壮大なロマンから目が離せない!



水曜日の凱歌ー乃南アサ

2021年12月18日 | 読書

評価5

再読(前回2021年2月9日)。
終戦の翌年に起こった世の女性に関するその3つの出来事は全部水曜日だった。当時14歳だった主人公の二宮鈴子の目で見た、戦後の混乱期を生き抜くために逞しく変貌する母親、戦中から変わらぬひもじさ、国策に翻弄される女たち。鈴子の成長と世相を鋭くとらえた傑作!

なぜに乃南アサの小説は「一気読み」へと人を誘うのだろう?再読も初読同様700頁以上の長編を一日で読破してしまった。頭が物語から離れなくでどうしようもなく本を手にとってしまう時間が過ぎた。いつか、じっくりその辺をひも解きたいと思う。凄い作家さんだ!ツイッターでその日常を見ると、けっこうポヨヨンとした人なんだけどなぁ~(笑)

<水曜日に起きた3つの出来事>※終戦の日(1945年8月15日)も水曜日
①RAA特殊慰安施設協会が作った慰安所閉鎖(1946年3月27日)
②婦人参政権が認めれた戦後初の衆議院選立候補締切日(1946年4月3日)
③新選挙法による初の衆議院選挙(1946年4月10日)

山本五十六(下)ー阿川弘之

2021年12月16日 | 読書

評価5

再読(前回2020年1月14日)。真珠湾攻撃から五十六の死と国葬まで。ラバウルからショートランド島方面へ巡視に行く途中の撃墜死、捜索隊が遺体を発見する様子がなかり詳しく頁をめくる手が止まらない。板垣征四郎の弟の板垣盛少将(第一根拠地隊司令官)が検死の立会人となっている。「山本神社」の建立は米内光政の反対でならなかったとのこと。

上巻のうだうだ感からうって変わって下巻は全編緊迫感が漂う。上巻は「人間・山本五十六」、下巻は「軍人・山本五十六」という趣である。この作品を巡って、無断引用があるとして訴えられたり、遺族から名誉棄損で訴えられたりしたことがあるとのこと、に驚く。

山本五十六(上)ー阿川弘之

2021年12月14日 | 読書

評価3

再読(前回2020年1月12日)。
知る人ぞ知る山本五十六を語る代表的作品。上巻は真珠湾攻撃の前年まで。山本の愛人の新橋芸妓・梅龍(河合千代子)が山本と出会う前に関係していたのが、盛岡の馬持ちの男だったらしいことに驚く!五十六さんかなりの賭け事、女好きだったようで(笑)。

話が賭け事や女性関係に飛んだり、時代を遡ったり、人名とその出自の説明がだらだら続いたりと正直言って読みづらい。太平洋戦争と絡めて読むのだったらやっぱり「半藤一利」さんですねぇ~♪初読みの時は面白かった気がしたんだが・・・はて?まっせっかくだから下巻も読みます。

落日燃ゆー城山三郎

2021年12月12日 | 読書

評価4

再読(前回2020年4月1日)。
A級戦犯で処刑された7人の中で唯一の文官、元首相・外相の広田弘毅の半生を綴った作品。「エリート外務官僚であったが、政治家としては無力で静観主義をとり、軍部に追随した」とされる広田を「死者たちの罪まで背負って死者の国へ赴こう」との思いを背景に抑制した筆致で描く。

日中戦争勃発前後に政権の要職を担った広田は、東京裁判において首相当時立案の「国策の基準」に検事側から目をつけられ、南京虐殺(外相時)に対しては「防止の怠慢の罪」に問われることになる。死刑判決の評決は6対5。助命・減刑嘆願運動もむなしく、昭和23年11月23日午前0時20分刑に服す。

広田は日中戦争勃発時に戦線不拡大を唱えるも、それに反発する陸軍を「外交の相手は日本軍部」と評したほどの協調外交を柱とした考えの持ち主であったのだが、「自ら計らわず」をモットーとし、東京裁判においては一切の抗弁を断ち運命を受け入れたのだった。

当時の状況で軍部に抵抗できる政治家、官僚、マスコミ、国民はいたのだろうか?正直、気の毒だな~という気持ちが強い。