12月31日付 読売新聞編集手帳
波止場のある町で育ったので、
一句がまとう夜の匂いが懐かしい。
〈バーテンは霧笛の船の名を知れり〉(富岡桐人(とうじん))。
俳人が女優安奈淳さんの父君であることを、
安奈さんの随筆で知った。
子供の頃は酒場にまだ縁がなく、
船の名を教えてくれるバーテンさんの知り合いもいなかったが、
霧笛には思い出がある。
大みそかの夜、
日付が変わると同時に停泊中の船から一斉に鳴り出す霧笛は、
埠頭(ふとう)のそばにお住まいの方にはおなじみだろう。
静寂に余韻のしみ入る除夜の鐘も味わい深いが、
今年は何十年かぶりで除夜の霧笛に心をひかれている。
安否を尋ね合っては涙し、
無事を知らせ合っては涙した年の終わりには、
哀調を帯びて呼び交わす霧笛が似合うかも知れない。
〈われわれは後ろ向きに未来へ入ってゆく〉。
あたかも行く手に背を向けてボートを漕(こ)ぐように。
詩人バレリーの言葉という。
人が見ることのできる景色は過去と現在だけである。
あの日、
あの朝、
すぐ後ろに何が待っているか、
誰も知らなかった。
忘れたいものと、
忘れてはいけないものと、
心に重い船荷を載せた今年の航海も、
じきに終わる。