日暮しの種 

経済やら芸能やらスポーツやら
お勉強いたします

今ふたたび東京五輪音頭

2017-11-01 06:00:00 | 報道/ニュース

10月10日 おはよう日本


昭和39年
アジアで初めてのオリンピックが東京で開催された。
日本の戦後の復興を世界に示す大会となった。
大会を盛り上げようとある曲が作られた。
その名も「東京五輪音頭」である。
軽快な歌と踊りは大流行し多くの人に親しまれた。
そして今
50年のときを経て東京五輪音頭は新たに生まれ変わっている。
1番から5番までの歌詞を3人の歌手が個性豊かに歌いあげている。
この曲はインターネットで全国に公開。
各地で練習が始まっている。
埼玉の小学校では9月に行われた運動会でいち早く披露。
53年前に踊ったことがあるというお年寄りたちも踊りの発表会に向けて励んでいる。

歌詞を作ったのは島根県出身の宮田隆さんである。
当時島根県庁に勤める公務員だった。
♪待ちに待ってた世界の祭り
 西の国から東から
宮田さんの長男の洋さん。
当時お父さんが作詞に熱中していた姿を覚えているという。
(宮田洋さん)
「父はもともとは県庁職員なので普通の仕事もしないといけない。
 作詞活動があるときには旅館に引きこもって
 全部をシャットアウトして書いていたという記憶がある。」
その熱意が実を結び
応募した東京五輪音頭の歌詞が見事選ばれたのである。
復興した日本の晴れ姿。
高揚感をうたった歌詞に宮田さんはある思いを込めていた。
それは平和への願いである。
(宮田洋さん)
日本が日中戦争・太平洋戦争へと突き進んでいた。
宮田さんは中国・フィリピンへ従軍し捕虜も経験している。
(宮田洋さん)
「捕虜になったときはつらかったと言っていました。
 いつ殺されるか分からないし
 順番が回ってきたら殺される。」
しかしあるときアメリカ兵からかけられた言葉に
宮田さんは心を動かされたと言う。
(宮田洋さん)
「日本人もアメリカ人もみんないい人なのに
 お互い殺し合いをしなければならない。
 “戦争がなく平和なら殺し合いをしなくていい”
 というアメリカ兵の言葉が一番印象的だったと。」
人種や国の垣根を超えて人と人として認め合う。
宮田さんのその思いがにじむのが東京五輪音頭の3番の歌詞である。
♪すがた形は違っていても
 いずれ劣らぬ若い花
 ヨイショコーリャ若い花
 オリンピックの庭に咲く
(宮田洋さん)
「自分の体験や親友が亡くなっているなかで自分は生きて帰ってるから
 平和への思いは強かったと思う。
そして東洋オリンピックの開会式をスタンドで見つめた宮田さん。
あらためて平和への思いを手記に綴っている。
“待ちに待ってた世界のまつり”
私は東京五輪音頭の一説にこううたった
それがいま実感として目の中に飛び込み
耳を打ち
胸をジーンとさせる 
それにしてもどうしてこんなに明るい純粋な世界の仲間が
殺し合い憎しみあい
戦争という愚を引き起こすのであろうか
私は改めて平和への願いを込めて
この偉大なセレモニーの感動にひたる
それから53年
宮田さんの思いは色あせることなく今に引き継がれている。
50年以上前に誕生した東京五輪音頭。
その歌詞はいま改めて平和への尊さを問いかけている。



コメント