箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

人と動物とウイルスの共存・共生

2021年01月08日 08時19分00秒 | エッセイ


私の家の周りは、大阪府のなかでも自然がけっこう多く残っています。家のすぐ近くにまで山が迫っているのどかな風景です。

ところが、近年では、イノシシやシカがよく出るようになりました。

イノシシは雑食性で、野菜や土の中のミミズを掘り起こして食べます。シカは、柔らかい木の芽が好きらしく、一晩にして、木々から出た新芽や葉を食べてしまいます。

私が子どもの頃には、山に住んでいる動物はあまり人里に近づきませんでした。
が、今ではすぐ家の横を歩いていたり、見かけたりします。夜に車で近づくと、すぐ横をイノシシやシカが通ることもあるほどです。

なぜこうなったのでしょうか。

ひとつには、頭数が増え、山の中に木の実や食べるものがなくなったという理由がよく言われます。

私が思う理由はほかにあります。

それは人里と野生動物の住む山の区別がなくなったからと、考えています。

クマが人里へ出てきて人を襲うというのも同様です。

いま日本は、全国的に、農業の後継者が不足し、田んぼを耕作しない家が増えています。

そうすると水田だった土地が荒れてきて、動物にしてもどこまでが山で、どこまでが人里であるかがわからなくなり、すぐ人里まで出てくるようになったのでないかと考えています。

事実、滋賀県のある地域では、動物被害に困り、耕作放棄された田んぼや畑を地域が総出で草や木々を刈りとり、もとの平地にしたら、動物が出てこなくなったというニュースを聞きました。

「田舎暮らし」がトレンドになり、都会から田舎に移り住む人がいます。でもその流入人口と比べ、荒れ地の増加は、農業従事者の高齢化の進展とともに、後継者不足で、現状としては止まらないのです。

こういった現状は、一言で言うと「野生動物と人間の距離が近くなった」ということです。


じつは、このことは、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的な流行)にも関係しています。

自然林の乱開発などで、人が野生動物の生息していた地に足を踏み込むようになり、人と動物の距離が近くなりました。

だから、今までなら人が感染してこなかったウイルスに感染するようになっているのです。

ウイルスは本来は野生動物にとどまっていたのですが、新たに宿る生き物を見つけたのです。

もちろん、研究が進み新たなウイルスを発見する技術が進歩したこともありますが、いまその数は確実に増えているそうです。

研究者によると、ウイルスの「生存権」を侵さないことが、今後のウイルス対策で必要なのです。

新たなウイルスが野生動物から人に感染するのは、開発や乱獲で野生動物の生存危機が起こり、ウイルスも生き残りをかけて別の種に乗り換えるからです。

だから、人と野生動物が共存できるようにすれば、ウイルスも人間に移る必要がなくなると、研究者は警鐘を鳴らしています。

新型コロナウイルスが感染拡大する環境や社会構造を準備したのは人間の側です。

生態系への秩序なき進出に加え、グローバル化による人の移動が増えたという「下地」を人間が作ったのです。

なのに、勝手な人間は「新型コロナウイルスに勝とう!」とか「負けない!」と叫んでいます。

ウイルスは抑え込もうとするとかえって進化するとも聞きます。

打ち勝つのではなく、人とウイルスが、相手の領域を侵さず「共生」することだと思います。

私たち人間は、野生動物とウイルスと共存・共生する道を歩んでいくのです。

だからこそ、SDGsでいう、15番目の目標「陸の豊かさを守る」が、いま鮮やかに色づいてくるのです。

15番目の目標には少し詳しくした取り組み項目がついています。

「陸上生態系の保護、回復および持続可能な利用」、「森林の持続可能な管理」、「土地劣化の阻止及び逆転、ならびに生物多様性損失の阻止」。

大阪の田園に住む私には、これらの取り組み項目は大きなインパクトをもって、迫ってくるのです。

悲しみを抱えて生きる

2020年12月29日 09時28分00秒 | エッセイ


今年は、新型コロナウイルスの感染拡大で終わる1年になります。

このウイルスに感染して亡くなった人もいました。

葬儀は生きる事実と死ぬ事実が交わる「交差点」のようなものです。残された人が亡き人を思い、悲しみを分かちあう場であるのです。

しかし、最近では葬式が簡略化されて、家族葬がここ数年間で当たり前のようになりました。故人と縁のあったお客さんの参列をお断りする葬式が増えました。

葬式の簡略化で痛みを多くの人で分かち合うことなく、残された人が個々に痛みを抱え込むようになったのです。

生活が個人化して、大切な人間関係をつなぐ糸は細くなり、死別で細くなった一本の糸が切れてしまうことになります。
そして、一人で胸いっぱいの悲しみを抱えることになってしまいます。

オンライン葬式にしても、画面越しに葬式の中継が映され、手を合わすことができたにしても、何かが足りないと感じてしいます。

それは、故人を偲ぶことができず、残された人が集まり、悲しみや寂しさを多くの人たちと共有できないからでしょう。

今年2020年に感染が広がり、いまだ終息のめどが立たない新型コロナウイルス。

感染して亡くなった人の場合、「密」や感染を避けるため、葬式そのものを行うことができなかったこともあるでしょう。

そうなると、肉親にとっては、亡くなった人と自分がどういうかかわりで、どう付き合ってきたかを回顧することもできなかった。

人生の最期の段階で別れの言葉を継げることもできなかった。

そのことを思うに、残された人の悔しさと苦しみは余りあります。

人の最期に大切で必要なのは、「共にいる」ことです。

悲しみを分ちあうという習慣が社会全体で感じられなくなり、近い人の間でもできなくなった。

いま孤立するとそのまま見放されてしまうのでないかという不安が社会を包んでいます。

悲しみから目を背けようとする社会は、生きることを大切にしていないのでないかと、わたしは思います。

よく「悲しみを乗り越えて」と言いますが、悲しみは乗り越えられるものではないと思います。
残った人が一生胸に抱えて生きていくものなのでしょう。

そのような悲しみを抱えた人は、他者の悲しみにも共感できるのです。

ひきずらない

2020年12月26日 21時01分00秒 | エッセイ


Tomorrow is another day!


この言葉の意味は

「明日は明日の風が吹く

なんとかなる。

悲しみは今日で終わりにしたい。」

このように解釈します。


なんとなく、同じ毎日の繰り返しとなってしまっている今日この頃。
そんなとき、英語の先生からもらったこの言葉を思い出します。
今日という一日の重みを感じて、大切に過していきたいなって思いにしてくれる大切な言葉です。


葉の色の移り変わりに想う

2020年11月17日 08時22分00秒 | エッセイ


けっこう寒くなったと思ったら、温かい日が続いたりします。
行ったり来たりして、冬に向かっていくような気がします。

新型コロナウイルス感染が拡大して、昼間の時間の過ごし方が変わった人もいます。

リモートの業務にかわり、通勤の時間が短くなり、すこし自由になる時間の余裕が生まれた人がいます。

そのような人からの話です。

余った時間で外へ出て散歩すると、桜の木やモミジの木を見て季節の移り変わりに敏感でいられます。

そんなことに気づいたというお話でした。


一日一日、緑の葉に黄色が混じり、それに赤色が加わります。

緑から赤色へ変わっていく過程は、人の一生に似ていると思います。

緑色=みずみずしい
黄色=美しい
赤色=鮮やか

葉っぱ一枚一枚がエンディングに向け、輝きを増していくのです。赤色の葉は温かく、ホッとする気持ちになります。

齢(よわい)を重ねることは、体力が衰えて、活気がなくなるように思われることが多いですが、かえって輝きを増し、豊かに暮らすことができるのが理想的です。

では、豊かさというのは、どんなことでしょう。何を指標として豊かさを測るのでしょうか。

お金が老後を暮らすのに十分あることが豊かさという考えもあるでしょう。

人とつながっていることを豊かさだと感じる人もいるでしょう。

出かける場所があることかもしれません。

孫の成長を喜ぶことだという人もいるでしょう。

人にかかわり、その人に喜んでもらえることが目安なるかもしれません。

毎日を大事にして生きることに豊かさを見つける人もいるかもしれません。

やりたいことがあることかもしれません。

木々の葉が緑色から、黄色、そして赤色に変わるのは、「成熟」に向かうということです。

人生が長くなる中で、「成熟」に向かう人が増えればいいなと思います。

小さなしあわせに気づく

2020年11月06日 08時10分00秒 | エッセイ

人はみんな、明日は生きていないかもしれないのです。

そのようないのちの真実のもとで生きているのです。

だとすれば、今生きていることが、生きるということのすべてなのです。

「明日は生きていないかもしれない」という思いを抱きます。
それとともに、小川の水の流れの清らかさ、秋に色づく木々の葉の色どり、夕焼けの美しさなどと出会うとき、生きている自分を深く感じるのです。

歳をとると失っていくものが多いですが、「いま、生きている」という思いは味わい深くなっていくのです。

社会にかかわる問題はたくさんあります。でも、それらとは関係のないところで感じるしあわせはたくさんあると思います。

人は自然の中に身を置く時、この思いを抱くことが多いのだと思います。

貧困、虐待、派遣切り、新型コロナウイルス感染症など、社会にかかわる問題の解決・解消を追求する活動で感じるしあわせ。

それと、日々のなかでの気づきによりもたらされる小さなしあわせ。

この両方が大切だと思います。

ハロウィンの日

2020年10月31日 09時12分00秒 | エッセイ
わたしは、大学時代の専攻でアメリカ文学を読んでいたとき、はじめて「trick or treat」という言葉に触れました。

そのころ、日本ではまだハロウィンを祝う習慣はなく、カボチャのランタンのイラストをみて、少し奇異に感じたのを思い出します。

アメリカでは、1930年代になり子どもたちのお菓子をもらいたいという気持ちと、人々にいたずらをしたいという遊び心がいっしょになり、現在のハロウィーンという風習がアメリカで広まっていったのです。

その合言葉が、trick or treatです。
このorは、「・・・かそれとも———」という意味と考えますが、「・・・さもなくば———」であるとも考えることもできます。

「いたずらをするぞ、さもなければわたしをもてなせ(=おかしをくれ」といったところでしょうか。

日本では、近年仮装をして街中を歩くのが定番になっています。

無心とは

2020年10月05日 17時40分00秒 | エッセイ


花は無心にして蝶を招き、蝶は無心に花を訪ぬ。
「無心」になると言いますが。「無心」とはけっして「心がない」ことではありません。
とらわれや思い込みなどの心の引っかかりがないことです。

たとえ、過去に何を経験しても、未来にどんなことが予想できても、いま常に前を向き、目の前のことがらに新鮮な心で臨んでいきます。そういった心が「無心」です。

今のことがらに目をそむけず、放置せず、あきらめず、焦らず、怠らず、いまを生きることが大事なのです。

地に足をつける時代

2020年10月04日 08時33分00秒 | エッセイ


新型コロナウイルスによる「ステイホーム」の影響はさまざまな面で表れています。

たとえば、外出を控えるようになったので、靴や化粧品の売れ行きが鈍った。

ところが、家で快適に過ごすための高機能の炊飯器が売れている。

病院へ行くのを控えた反動で、体の痛みをやわらげる鎮痛薬が売れている。


新型コロナウイルス感染防止の影響で、人びとの安心安全を求める意識は高まっています。

人と接することは減らすが、利便性は追求するという生活のしかたが進んでいくことになるのかもしれません。

もう一つの影響としては、デジタル化の進展です。わたしもオンラインではじめて授業をしました。

年齢など関係なしに、今後はデジタルを使う人が増えてくるのだと思われます。

「おうちごはん」」も見直されたようで、なかにはトマトなどの野菜を自宅で育てたりする動きも出てきています。

「業者に頼まなくても、自分でできることは自分でする。家族を大事にする。自然にやさしく生きたい」という生活のしかたが広がってくるかもしれません。

このような生き方は、じつは昭和の頃の「モーレツ社員」だった世代の人びとの後、今の若い人の世代が志向していたものです。

この人たちは、「右肩上がり」の時代を知りません。

マイカーをもたなくても、カーシェアリングで済ませるので十分だという世代です。

じっさい、新型コロナウイルスが問題になる前から、私の知り合いの息子さんは、「田舎暮らしがいい」と、田舎に移り住みました。

今回のコロナ禍は、そういう若い人たちが志向する生き方を支持することにもなったのです。

服でも、とくに高価なものを身に付け、消費するという時代は終わるのでないか。
食品を大量に作り、廃棄する時代も見直していくでしょう。

これからは、「地に足をつけた生き方」をしたいという人が増えてくるでしょう。

山を登るときには、がむしゃらで気がつかなかったが、山を下りる時には足元に咲く小さな高山植物に目がいき、立ち止まり、しみじみときれいだと思う。

このように足元の小さな幸せを見つける生き方が、ポストコロナの時代の価値観なのかもしれません。

新聞記事がもつ一定の信頼性

2020年09月08日 06時40分00秒 | エッセイ

新聞の発行部数は下がり続けています。これは購読数が減少し続けているからです。

夕刊の発行を停止する地方紙が多くなっています。

インターネットが普及したのが大きな要因だと思います。

私は、2000年に入ったころ、まだわが家にはインターネット環境がなかったのを覚えています。

それからほどなくして、インターネットをひきました。

おりしも、新聞の発行部数は2000年入ってしばらくがピークだったそうで、ちょうど日本社会にインターネットが普及しだした時期と一致しています。

インターネットのおかげで、新聞を購読しなくても、容易に様々な情報を得ることができるようになりました。

いまや「新聞を読む」というのは、人びとの生活の中でルーティーンワークではなくなりました。

まして、いまの若い人は「子どものころからウチの家ではずっと新聞をとっていませんでしたよ」という場合も多くなってきています。

中学生に夏休みの宿題で、「新聞記事を切り取って、その記事について自分の感想や意見を書いてきなさい」という課題を出します。

すると、新聞をとっていない家庭の子にどう対応するかを、学校は考慮しなければならない時代です。

そのような状況です。
ただし、新聞はその存在価値がなくなったのかといえば、私はそうは思いません。

インターネット上の情報は危ういものもたくさんあります。それをもとに、人びとはSNSやツイッターで自分の意見を発信するようにもなっています。

個人が自由に発信できるのはいいと思うのですが、都合のいい情報だけを取り入れ、それを根拠に自分の意見を表明することが問題です。

これを続けているうちに、社会の秩序をつくっている規範は崩れていくように、私には思えます。

その点、新聞はそれ相当の事実確認を行ったうえで、記事にしていますので、その情報は一定の信頼性があります。

ただし、新聞も、読者は気をつけなければならない点はあるように思います。

記者が「これを記事にしたい」と思うとき、取材をした記録の中から記者の主張にあうものだけを新聞に載せるのではないでしょうか。

反対の見解や記事にしたい論調にあわない取材内容は載せない。

そして、その記事を読んだ読者は「そうなんだ」と思わされ、世論が形成されていく。

この点には気をつけ、「批判的思考」で新聞を読む必要がありそうです。

また、新聞の見出しは、読者に記事の概要を伝える、読んでみようという意欲を高める大切な役割をもったフレーズです。

しかし、陳腐な表現もたくさん見出しに使われています。

例えばプロ野球の試合結果を伝えるとき、いまだに広島のことを「コイ」、ライオンズを「獅子」と読んだりしています。

「コイに飲み込まれたトラ」などがそうです。

プロ野球ファンが日常的に野球の話をするとき、「コイ」や「獅子」という言葉を使うでしょうか。現実から遊離しています。

また、見出しにつまらないダジャレや語呂合わせを入れている場合もあります。そのダジャレはオヤジギャグ的なものが多く、若い人の共感を呼ばないような「さむーい」表現を使っています。

今月では、京都市の高瀬川彫刻展を伝えるのに、鹿の造形を川の中に展示したいう記事に対して、「川に入るシカない!?」というつまらない見出しが出ていました。


こんなジョークは、人びとがいま使うでしょうか。なぜダジャレを使わなければならないのでしょうか。見出しをつけた人だけが、ひとり悦にいっているように思えます。  

また、密を避けるため屋外展示にしたそうですが、鹿の造形は川の中に置かざるをえなかったのでしょうか。

ダジャレを使うために、無理矢理こじつけた言葉でないのか。 


このように、新聞にも「これでいいのだろうか」と思う疑問があります。

しかし、記事の公平性はかなり保たれている点、様々なジャンルの情報を集めている点で、人々が情報を得る手段として、新聞は有用です。

新聞は、今も今後も、一定程度信頼のおけるメディアであると思います。

B.L.M運動 「息ができない」

2020年09月03日 08時18分00秒 | エッセイ

アメリカの女性アーティストH.E.Rが
「I Can’t Breathe」という曲を出しています。

日本語タイトル名では、「息ができない」となります。

この曲は、2020年5月25日、ミネアポリス市の警官がジョージ・フロイドさんの頭を押さえつけ、死に至らしめた事件をとりあげています。

その後、アメリカで巻き起こった「Black Lives Matter」(BLM) =ブラック・ライブズ・マター運動のさなかにつくられた曲です。

悲しみを溜め、体の中から絞り出す言葉は、メロディが緩やかであるがゆえに、激しい心の叫びとして聞こえます。

歌詞の一部を引用します。

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I Can't Breathe”
                            (H.E.R.)


Starting a war, screaming "Peace" at the same time

All the corruption, injustice, the same crimes

Always a problem if we do or don't fight

And we die, we don't have the same right

〈意訳〉
争いが平和の叫び声と同じ時に幕をあけた。 
どんな腐敗も不正も犯罪も(以前と)同じだろうか。
闘うか。それとも闘わないでおくか。 
これがいつもの、変わることのない、私たちの苦しみと悩みである。
そして、私たちは死んでいく。
私たちは同じ権利をもっていないのだ。

••••••••••••••••••••••••••

I can't breathe
You're taking my life from me
I can't 
breathe 
Will anyone fight for me?

〈意訳〉
息ができない。 
あなたは私のいのちを奪おうとしているのだ。
息ができない。
こんな私のために、だれか、闘ってくれないか。

••••••••••••••••••••••••••

そして、曲の後半部分では、

Trying times all the time
Destruction of minds, bodies, and human rights
Stripped of bloodlines, whipped and confined
This is the American pride
It's justifying a genocide

〈意訳〉
いつもつねに、心もからだも人の権利も破壊される。
黒人である血筋をはぎ取られ、ムチ打たれ、閉じ込められる。
これがアメリカ合衆国のプライドなのか。
これが民族虐殺・粛清を正当化するアメリカのプライドなのだ。

以下略  ••••••••••••••••••••••••

だいたいこういう意味だと解します。

B.L.M運動が、抗議する人たちにとって、どんな意味を持っているかが、この曲を聴く私たちに伝わってきます。


H.E.Rは、母親がフィリピン人、父親はアメリカン・ブラックです。

ただし、アメリカン・ブラックと言っても(アフリカン・ブラックも同様)、彼女のように血筋が複数にまたがる人が、アメリカ国内ではほとんどなのです。

肌の色が濃くても薄くても、顔だちも異なっていても、ひとくくりにされた「黒人」です。

それは「白人」だって同じであり、多様性があるののに、差別の場面では、ひとくくりのステレオタイプにされ、往々にして激しい暴力を振るわれるのが「黒人」なのです。

こういう事態がいつものように存在し、人々に我慢を強いてきているのがアメリカ社会であると、歌詞で訴えています。

だから、「もう、いいかげんにしろ!」と抗い(あらがい)、多くの人びとが声を上げたのが、今起こっているB.L.M運動なのです。



運命の糸

2020年09月01日 08時17分00秒 | エッセイ
先日、映画『糸』を観ました。

新型コロナウイルス感染防止のため、公開が伸びていましたが、8月21日にロードショーとなりました。

映画のなかに、印象的なセリフがありました。


「運命の糸ってあると思う。たまにほつれて、切れることもある。でもまた、何かにつながる。生きていれば必ず何かにつながる……」。



この作品のテーマとも言えるセリフでした。

中学生時代に、思いを寄せ合った葵と蓮でしたが、事情があり、離ればなれになります。

しかし、運命の糸はつながっており、10年以上たって再会します。

再会してからも、糸はほつれて紆余曲折がありますが、最後に二人はやはりつながるのでした。

この映画のストーリーそのものを、言い表した榮倉奈々が絞り出すセリフにリアル感が詰まっていました。



そういえば、

映画『君の名は』にも、似たセリフがありました。

糸を繋げることもムスビ

人を繋げることもムスビ

時間が流れることもムスビ

ぜんぶ同じ言葉を使う




運命の糸は、ほつれても、もつれても、その先ではつながるのでしょう。

「縁」が二人をつなげるのです。

生きることの意味を教えてくれます。





下のURLを長押しすると視聴できます。
4年前の合唱『糸』



ファッション業界に変化?

2020年08月26日 05時50分00秒 | エッセイ


私は、新しく買った服は、基本的にその年のワンシーズンしか着ないということはしません。

短くても数年間は着ます。

そのため、すぐに形が古くならないようなオーソドックスなものを選んでいます。

ところで、ファッション界では、今から夏本番というときに、早くも秋冬物を発表するのが最近のならわしです。

ところが、今年はちょっとようすが違っていました。

新型コロナウイルス感染防止で、外出自粛が広がり、春夏物の洋服が売れなかったそうです。

人にもよるとは思いますが、ファッションは、世の中がたいへんなときには、優先順位がぞうしても後回しになります。

外出を控えているのに、華やかな服を着て外出する気にはならないというのが、人の気持ちだからです。

ただ、ファッションのサイクルがもっとゆっくりするよう、見直してもいいように感じます。

年に何回もコレクションを開催する必要があるのかとも思います。

次々と新作を発表しても、買う人が少ないのなら、その意義が見つかりにくい。

アフターコロナの時代は、慌ただしく新作を発表する回数を減らしていくという変化をもたらすことになるのかもしれません。

ウイルスへの不安を消すには

2020年08月21日 08時09分00秒 | エッセイ
新型コロナウイルスが流行り出した4月・5月ごろ、テレビではたくさんの人がいろいろなコメントをしていました。

新型コロナウイルスに関する情報が錯綜して、私たちの不安を掻き立てました。

政治家や医療関係者、大学の研究者、司会者、コメンテーターなどが、それぞれの視点から新型コロナウイルスについてのコメントを発していました。

(今もそうですが。)


しかし、ここで忘れてはならないことがあります。

政治家が考える新型コロナウイルスのこわさと私たちが感じているこわさは同じではないのです。

政治家は経済や景気対策のことを考えています。

また、別の人は科学的に新型コロナウイルスの脅威や医療のことを考えています。

でも、私たちは日常の生活がどうなるかを考えています。

テレビで話している人と自分の視点は、最初から違うのだということをわかっていないと、情報をちゃんと取り入れているのに、不安感がなくならないと、焦り出します。

すると、わからないウイルスへの不安はますます大きくなるのです。

つまり、溢れる情報の中で、何を信じるのかは、自分で見つけるしかないのでしょう。

情報をそのまま鵜呑みにせず、情報をもとに自分で考えること。

それがいたずらに不安に振り回されない心得です。


自然の中で暮らしていると、さまざまな情報に振り回されずにすみます。

新型コロナウイルスが拡大していても、自然の中では、変わることなく、
セミは鳴いています。

鳥の鳴き声も聞こえます。

夏草は繁ります。

雨は降ります。

小川のせせらぎの音が聞こえます。

風が吹きます。

月は輝きます。

そこには、変わらぬ自然の日常があります。

不思議と心が安寧に落ち着き、不安が消えていきます。



夏は海より山へ行く

2020年08月04日 07時22分00秒 | エッセイ
夏と言えば、人は海へ行くか、山へ行きます。

山へ行くのもいいものです。

私が育ったふるさとは、山の中の田舎でした。

だから、若い頃は海に憧れたものでした。

とくに、サーフィンが国内で流行り出した頃で、海は魅力的でした。

でも、歳を重ねるに連れて、心は「先祖返り」していくのかもしれません、

山へ行くのもいいものです。

「難波鉄砲隊」というユニットが「山へ行こう」という曲を出しています。紹介します。

「山へ行こう」 作詞 秋元康

・・・・・・・・・・・・・・・

どうして誰もが
混んでる砂浜を目指すの?
水着になりたいのなら
水着で山を登ろう
(蚊に刺されるけど…)     ♪♬

緑の木々と蝉の大合唱の中
汗をかきながら
雲ひとつない大空のその下で思った
私 今 生きている
地に足をつけて…     ♪ ♬

・・・・・・・・・・・・・・・

このような歌詞です。

海に入っていると実感が持てないですが、山に登ると、地に足がついていることを確かに感じることができます。

森林浴を楽しむこともできます。

その意味では、山の方が生きている実感を伴いやすいのかもしれません。

夏山が、私を呼んでいる。

Go to トラベルでなく、
Let’s go to the mountain.です。