箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

電車に夏が訪れた

2020年08月01日 18時26分00秒 | エッセイ
関西には、大阪と兵庫県を結ぶ私鉄に、能勢(のせ)電鉄があります。

いま、能勢電鉄の車内天井は、すっかり夏景色になっています。

天井にはひまわりの花やアサガオが咲いています。

その天井からは、夏らしく風鈴が吊り下がっています。

風鈴からは短冊が出ていて、今年らしく「疫病退散」の願いごとなどが書かれています。

そして、電車が動くたびに涼しげな風鈴の音色を楽しむことができます。

大阪では梅雨明けとともに、今日8月1日は紫外線が体を刺すような猛暑でした。

せめて動画で風鈴の音をお聞きください。






夢実現にはたくさんの失敗

2020年07月29日 17時17分00秒 | エッセイ
昭和の時代、今のヤクルト、当時の国鉄スワローズ、その後ジャイアンツが9連覇を達成した川上監督の時代におもに活躍した投手が、昨年亡くなられた金田正一選手でした。

スワローズとジャイアンツを通して不滅の400勝投手になりました。

昔は先発・中継ぎ・おさえという分業制がなかった頃で、先発完投が多く400勝しました。

その金田投手が言った言葉が

「オレは400勝しているが、300敗してるんだぞ」

でした。

多くの成功をするためには、誰よりも多くの失敗をすることになるのです。

こう言い聞かせないと、夢の実現を諦めてしまうことになり、先の心境に進めなくなります。

私は年頭のブログで、「好きを仕事にすることは今の時代は難しい」と書きました。

でもどうしても好きなこととで、夢を実現するならば、それと引き換えにたくさんの失敗を重ねる強い意志がいることを、私たちに教えてくれます。

阪急電車神戸線開業100年

2020年07月28日 10時07分00秒 | エッセイ
関西では、関東よりも、私鉄が発達していると、長年言われてきましたが、最近ではJRも鉄道網を整備しています。

関西の私鉄のなかでも阪急電車の茶色は「マルーン」と言われる独特の色です。

シートはゴールデンオリーブ色で、高級なものが歴代使われています。


阪急電車の神戸線が今年、開業100年となりました。

私は、大学のとき通学で乗るようになり、当時、宝塚線に慣れていた私は、大阪から神戸へ続くという、ある意味の洗練さと「カッコよさ」に惹かれたのを思い出します。

また、宝塚線とちがい、駅と駅の距離が遠く、それを高速で走る「特急」は、大阪市→伊丹市→尼崎市→西宮市→芦屋市→神戸市へとつながり、今でも車窓からの風景には、飽きないものがあります。

また、阪急電車神戸線の南にはJRが走り、またその南には阪神電車が並行して走っています。

1995年の阪神大震災では、阪急電車も高架の駅や陸橋が倒れるなど大きな被害を受けました。
三宮の神戸阪急ビルも崩れました。

それでも、とりあえず梅田から西宮北口まではすぐに開通したので、私も西宮北口まで阪急電車に乗り、そこから徒歩で被災地に向かったのを思い出します。

それからは、阪急電鉄は不眠不休で工事をして、6月ごろには完全復旧を果たしました。

そのような歴史を経て、100周年を迎えた阪急神戸線。

神戸阪急ビルは建て替えられ、来年には地上30階ほどのビルが完成すると聞きます。

阪急神戸線は、今後も大阪-神戸を結ぶいちばん山手の電車として君臨し続けるでしょう。


「阪急電車」という曲があります。

歌詞の一部を記します。

現実を見るより
遠い理想ばかり眺めてた Ah

二度と戻らない青春は
窓に広がった懐かしい光
何を見逃してしまったか?
答え探してる阪急電車

走り去って行く風景は
何もあの頃と変わってないのに
愛を知らぬ間に通過して
切なくなって来た阪急電車

いつも乗っていた快速は
沈む太陽と全てを知ってる
夢はどの駅で降りたのか?
一人 ドアのそば阪急電車

(NMB48 「阪急電車」[2018年 作詞 秋元康]の歌詞を一部掲載させてもらいました。)

阪急電車神戸線にも、車窓から見える風景を見て、人それぞれに若き日を思い出す人もいるでしょう。

私自身がそうです。何か切なく、ほろ苦い若き頃を想う気分です。

(このブログは、2020年7月18日のものを一部変更して書いています。)




どこか悲しい音がする

2020年07月20日 08時10分00秒 | エッセイ

最近は、新型コロナウイルス感染防止のため、外で懇親会や飲み会をしたとしても、少人数であまり長時間にならないように、なごやかに楽しむ人が多いのではないでしょうか。

「では、さようなら」と解散して、すぐに自宅に引き上げる人がいます。

そんな場面で思い出すのが、夏目漱石の名作『吾輩は猫である』です。

苦沙弥(くしゃみ)先生のところに、仲間たちが集まりとりとめのない話で、場がなごやかに盛り上がります。

そこへ多々良三平はビールをもって参上します。三平は結婚が決まって、みんなが祝う。

そして、おひらきになり、みんなが「では、これで・・・」とか「なら、おれも・・・」と、次々と帰っていきます。

そして、急に場はさみしくなりました。

この様子を終始眺めていた猫がつぶやくのです。

「呑気(のんき)と見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする」

100年以上前に書かれた小説ですが、いまのコロナの時代や大きな自然災害多発時代に重なる人びとの心情を、猫がうまく言いあてており、この言葉はいま俄然輝きを増します。

今の時代、みんなが心の底では漠然とした不安を抱えているのではないでしょうか。

仕事がなくなるのではないか。
感染したらどうしよう。
病気になるのではないか。
大きな自然災害に見舞われるのではないか。
大雨で家が流されたらどうしよう。
大きな地震がくるかも。
家族が元気で暮らせるだろうか。
年金だけでは、この先生活していけないな。
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また、人といるときはつかの間の楽しみがあるが、群れから離れてひとりになると、どことなく孤独でさみしい気持ちになる。

孤独になると、人の関心は他者ではなく、自分に向くのです。

このように猫が客観的に人間を見ているのです。いわば人間の存在そのものを言い当てているようにも思います。

不安をどことなく感じながらも、人は生きていくのかもしれません。

100歳を迎えた阪急電車神戸線

2020年07月18日 06時33分00秒 | エッセイ
関西の私鉄のなかでも阪急電車の茶色は「マルーン」と言われる独特の色です。

ゴールデンオリーブ色のシートは高級なものが歴代使われています。

(以上は2020年3月15日のわたしのブログより)

阪急電車の神戸線が今年、開業100年となりました。

私は、大学のとき通学で乗るようになり、当時、宝塚線に慣れていた私は、大阪から神戸へ続くという、ある意味の洗練さと「カッコよさ」に惹かれたのを思い出します。

また、宝塚線とちがい、駅と駅の距離が遠く、それを高速で走る「特急」は、大阪市→伊丹市→尼崎市→西宮市→芦屋市→神戸市へとつながり、今でも車窓からの風景には、飽きないものがあります。

また、阪急電車神戸線の南にはJRが走り、またその南には阪神電車が並行して走っています。

1995年の阪神大震災では、高架の駅や陸橋が倒れるなど大きな被害を受けました。三宮の神戸阪急ビルも崩れました。

それでも、とりあえず西宮北口まではすぐに開通したので、私も西宮北口まで阪急電車に乗り、そこから徒歩で被災地に向かったのを覚えています。

それからは、阪急電鉄は不眠不休で工事をして、6月ごろには完全復旧を果たしました。

そのような歴史を経て、100周年を迎えた阪急神戸線。神戸阪急ビルは建て替えられ、来年には地上30階ほどのビルが完成すると聞きます。

阪急神戸線は、今後も大阪-神戸を結ぶいちばん山手の電車として君臨し続けるでしょう。


「阪急電車」という曲があります。

歌詞の一部を記します。

現実を見るより
遠い理想ばかり眺めてた Ah

二度と戻らない青春は
窓に広がった懐かしい光
何を見逃してしまったか?
答え探してる阪急電車

走り去って行く風景は
何もあの頃と変わってないのに
愛を知らぬ間に通過して
切なくなって来た阪急電車

いつも乗っていた快速は
沈む太陽と全てを知ってる
夢はどの駅で降りたのか?
一人 ドアのそば阪急電車

(NMB48 「阪急電車」[2018年 作詞 秋元康]の歌詞を一部掲載させてもらいました。)

阪急電車神戸線にも、車窓から見える風景を見て、人それぞれに若き日を思い出す人もいるでしょう。

私自身がそうです。何か切なくなってきました。





新型コロナウイルスが照らし出したグローバリズムの課題

2020年06月27日 07時30分00秒 | エッセイ
グローバル化は、今回のコロナウイルス感染症の世界的な流行で、その負の側面を照らし出しました。

まず、人が国境をこえて動くことで、コロナウイルスが、国と国をこえて持ち込まれ、世界的な感染拡大につながりました。

もう一つは物流です。日本では少し前までは、ものづくりの品質の高さを売りにしていました。

自動車は性能が良く、コンパクトで燃費がよく、省エネでありながら、高いパフォーマンスをもち、世界でのニーズが高まり、それが日米貿易摩擦に発展したのが、1980年ごろでした。

ソニーがウォークマンを売り出すと、その発想と商品コンセプトは、世界で支持されました。

このように、日本経済は国際競争力の高い製品を作り、発展してきました。

もちろん、今でも、日本製の製品の品質には定評があります。

しかし、その後中国や東南アジア諸国が、科学技術を発展させてきて、すぐれた製品を製造するようになり、日本製品の優位性が薄れてきました。

そこにグローバル化の流れが重なり、日本企業は利益を上げるため、賃金の安い国に生産の拠点を移してきました。

このようにして、日本の製造業は「空洞化」していきました。

今回、マスクや医療ガウンが手に入らなくなったのは、国外でほとんどを製造していたからです。

その国が供給をストップすれば、日本国内では品薄になるのです。

この方法は、短期的に見れば利益は上がるでしょうが、長期的に見れば10年後、20年後には、自国の製品供給網は弱くなります。

安いからという理由で、主軸となる製品の生産や部品組み立てを外注すると、自社で作らないとわからない技術も失っていきます。

いまや、利潤の追求だけが企業の使命ではないのです。

国民の健康と安全に必要不可欠な食品、医療機器、葉を電子機器など、それに関連する資材などは、他国に依存せず開発して、製造して、調達しなければ先ゆかなくなるでしょう。

JAPAN AS NO.1と言われていた時代は、私が就職した頃でした。

それにあぐらをかいている間に、世界情勢は大きく変わり、IT業界は遅れをとり、日本経済はいまや閉塞状態にあります。

その中で、いまの子どもたちがどんな将来を展望して、未来の夢や目標を描くかとなると、学校教育の課題につながっていきます。

私は、もっと人が一人ひとり尊重され、人同士がつながりあい、生きていく。

しかし、日本国内だけの「内向き思考」ではダメで、多様性を認め、共に地球市民が生きていく方向性の中に、日本社会の未来があると思います。

もう、後戻りはできません。