箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

暴力とは

2019年12月12日 06時57分00秒 | 教育・子育てあれこれ







いまは少なくなりましたが、以前の中学校では生徒の暴力が問題行動の中心を占めていました。

生徒が暴力をふるうのは、自分を表現する方法が暴力になっているという捉え方をします。

思春期の生徒が心の中にたまった複雑な思いをあれこれ自分で考えて、思いを巡らせるには言葉が必要です。

その言葉による自己表現が十分に身についていない子が暴力という方法にうったえる。

この捉え方が、学校での生徒の暴力という事象に対する基本的な考え方です。



言葉で表現する力は、言葉の世界を広げる読書や人間同士の関係などで磨かれて育ってきます。

しかしながら、そのような環境に置かれなかった生徒は、自分の気持ちや思いをうまく言葉で表すことができません。

そのもどかしさを他者に伝えるために暴力に走ってしまうという考え方です。

心が揺れ動くことが思春期の子どもにはよくあります。

気分がむしゃくしゃする心の揺れは、思春期になるまでは体験しなかったことで、それが言葉にできないままで、整理がつかず、いら立ちや焦りにつながっていく。

ついに我慢できなくなって、暴力という形に転化されるのです。

この暴力にいたるまでの、生徒の一連の心のありようをみるとき、論理では説明できません。
「腹がたち、むしゃくしゃして、いら立っていたら、つい友だちに手をだしてしまった」というふりかえりになり、論理性がないのがわかります。

つまり、暴力とは「論理」がないところに生まれるのが普通です。だからこそ、自分の心情や心理状態を言葉にして表す方法が、中学生に求められるのです。

教師による生徒への体罰も同様です。体罰には「論理」がないのです。

「あの生徒をよくするために」とか「生徒に反省を期待して」とか「相手への愛のムチ」だと論理があるように説明しても、教育現場には愛情があるのが当然で、もし教師から生徒への「愛」があるなら、「ムチ」という暴力は無用です。

教師は、体罰ではなく、話しにくい、言葉にしにくい生徒の思いや心情を理解して、できるだけ言葉で表すようしむけて、生徒の複雑な思いを整理させ適切な行動へ導いていく指導をするべきなのです。




4 コメント

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Unknown (mi3chu-kocho)
2019-12-16 17:35:27
ありがとうございます。
「開いた関係」と「聴くことに徹する」を具体的に説明します。

「お母さん、話があるんだけど・・・」に対して、「えっ、何か困ったこと?」とか
「今ねえ、夕食をつくっているんだけど、まあいいか。何なの」というように、話をさえぎらない。
また、別のことをしながら、横を向いたまま話を聞くのもよくないでしょう。

きちんと子どものほうを向いて、「最後まで」話を聴きます。

話の主導権はあくまで子どもにあるので、最後まで話を聴きます。

そして、話の流れに沿って、キャッチボールのように会話を続けます。

途中で子どもが、非常識なことや偏ったことを言っても、すぐには口を挟みません。
なぜそういう言い方になったり、ものの見方になるのかを考えながら、子どもの言いたいことや主張をうけとめ、ていねいに対話をします。

このようにすると、いつでも気楽に話すことができる「開いた関係」に近づいていくし、子どもの心に耳を傾けていることになるのだと考えます。
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Unknown (元三中保護者)
2019-12-16 14:20:07
お返事ありがとうございます。
せっかくお返事をいただいたのに、それを読む前に質問した日の夜に娘と衝突してしまいました。
先生の仰る通り、娘の気持ちが聞きたくて、親の気持ちが伝えたくて、親の話すことが多くなり失敗してしまったように思います。
翌日もう一度話し合うと、前日はいろいろ言われ過ぎて、何が一番悪かったのかわからないと言われました。
(今回の件は、私の反省も伝え、娘とはひと段落しました。)
お返事を読んで、私は耳で聞こうとしていたけど、心で聴かないといけないなと思いました。本当にありがとうございました。
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Unknown (mi3chu-kocho)
2019-12-12 17:28:47
いつも読んでくださり、またご質問ありがとうございます。
言葉にして自分の思いを表現できない子の場合についても、「聴くこと」が鍵になると考えています。

子どもが言葉で表現するのが苦手で、どう思っているかがわからない→ 大人は、相手から話を引き出そう、聞き出そうとなりがちです。
しかし、「聴く」とは、子どもからの言葉が多くても少なくても、子どもの心に耳を傾けるということでしょうか。
思春期になると、子どもは自分のことについて、あまり話さなくなります。それは自立にむけて、親から離れようとするからです。自分の世界をもとうとするからです。
それは、孤独になろうとしているとも言えます。
話そうとしても、「何もない」「別に・・・」という返答が返ってきます。
そんな答えしか返ってこないとき、大人は余計に突っ込んで話を引き出そうとせず、「話したいときにはいつでも聴くよ」という姿勢で、大人はいつでも開いた関係にしておくといいのではないかと考えています。
ただ、子どもの口が重く、あまり話さなくても、ふだんからの日常会話を絶やさないようにしておく必要はあります。
平素からコミュニケーションをとっていないと、話題がないのでいざというときにうまくいきません。
子どもの話、子どもの心に寄り添うのは、話すことよりも、子どもの話すことに耳を傾け、「聴く」ということに徹するということです。
大人が話すことよりも、聴くことで、人を支えることができる場合は、じっさい多いと思います。
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Unknown (元三中保護者)
2019-12-12 10:48:21
いつも楽しみに読んでいます。

さて、「言葉による表現が苦手」で、しかし、「暴力」はいけないと意識する子供の場合、どのなるのでしょう?
自分を表現できず委縮してしまうと心の発達にも影響するのではないかと心配しています。
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