私は教頭・校長をしていたときには、市の青少年弁論大会に出る生徒を指導することが、毎年ありました。
その生徒たちは5分以内で、自分の弁論をするのですが、弁論は生徒自らが何を話すかの原稿も書きます。
わたしは原稿づくりから本番まで全部の過程を指導しましたが、どの生徒にも原稿を暗唱することを課しました。
弁論大会のきまりでは、原稿を見ながら弁論することも許されていました。
しかし、わたしはどの生徒にも原稿を暗唱するように命じました。
その理由は、原稿を見ながら話すと、視線が聴き手から離れる時間が生まれ、弁論の力が薄まるからでした。
顔は聴いてくれる人や審査員の方に向け、常に視線を合わせなければ、相手に迫るスピーチはできないのです。
アイコンタクトだけでなく、早く読むところ、ゆっくりよむとこころ、間(ま)を開けるところ、強く話すところ、ゆっくりと話すところ、身振り手振りを入れるところなどの指導もしていました。
このようにして、はじめて聴き手に訴える弁論ができるのです。
学校の授業でも、いまは発表する児童生徒には、「先生にではなく、聞いているほかの友だちの方を向いて話しなさい」と、指導します。
さて、私が校長を務めていた中学校では、校長が全校生徒や学年生徒に講話をする機会がたくさんありました。
全校朝礼、進路説明会でのあいさつ、合唱コンクールでの講評、体育祭での朝のあいさつ、文化祭での締めのことば、PTA行事での保護者へのあいさつなどたくさんの機会がありました。
原稿暗唱を生徒に課した以上、自分も生徒に講話をするときは、前もって原稿を書き、可能な限り覚え、どこを強調して生徒の注意力を集めるかなど、練習をして臨みました。
その理由は、弁論大会と同じく、生徒や保護者の方を見て話す必要があり、話に引きつけるためでした。
そのような経験があるので、わたしは日本の総理が話すのをテレビ等で見て、常に原稿を見ながらスピーチや国会での答弁をされることに違和感を覚えます。言葉がこちらに届かないのです。
その答弁は原稿を棒読みしているだけで、情の通った話にならず、質問されたことに自動的に、機会的に応答しているように感じられるのです。
わが国がかかえている問題を、一国のリーダーとして認識できているのだろうかと思うときさえあります。
国民のことを親身になって考えてくださっているようには思えないのです。
多忙で原稿を覚える時間がないのなら、前安倍首相が活用していたスピーチプロムプターを使えばいいのです。
演題に設置された透明なアクリル板に、原稿が映し出され、聞き手には見えないですが、話し手はその原稿を見ながら、聞き手の方に視線を向け話すことができます。
それさえも使おうとしないで、原稿にばかり視線を落としている姿、棒読みしている態度がしょっちゅう見受けられます。
首相や官房長官などの政治家がほんのちょっとだけでも、話し方や話す際の表情、視線を聴き手や視聴者に向けるだけでも、小さな変化は始まると、わたしは思います。
国民のことを親身になって考えてくれていると感じるオーラがあれば、聞き手は話し手に親しみを覚えます。聴きたいと思えます。
それが話し手の説得力、聞き手の納得感を生み出す第一歩です。
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